La floraison







 結論。彼は噂話なんて全く知らないようだった。

 あれ見たいこれ見たいと小さくはしゃぐ彼にそんな後ろ暗さは一切感じられず、その様子は私のクラスメイトであり友人である千石清純そのものだった。けれども考えてみれば当然だ。彼は何も知らないのだ。おかしくなってしまったのは私の方で、そんな噂話を聞いただけで私たちの関係性が大きく揺らぐ訳がない。そんな安心が胸の内に広がっていく感覚だけは、汗ばむ身体とは裏腹に心地良かった。



「ねえ、花火見ていく?」

 お目当てと考えていた屋台を大方回り終えたのか、千石が時計を見ながら驚いたように言う。どうやら思っていたよりも大分良い時間になっていたらしい。ただそれも、道すがら射的やビー玉掬いにいとも簡単に吸い寄せられていた私達のせいなのだから、当たり前なのだけれど。

 この地域の中ではかなり規模の大きいイベントということもあってか、名物とまではいかないもののそれなりのスケールで花火が打ち上げられるらしい。特に花火に強い思い入れがないとはいえ、綺麗なものはやはり見ておきたい気もするのでその誘いに頷くことにした。……少しだけ、まだこの空気感に浸っていたいという気持ちもあるというのは、何故だか彼に言えなかった。





「うん、そうしよう──……ッえ、」

 兎にも角にも、もう余計な悩みは投げ捨てて普通に楽しもう。そう思って顔を上げた矢先、確かな悪寒が私に走った。
 ふと視線を前方に向ければ、いやに見慣れた顔が遠くに見えて凍りつく。特段仲が良い訳でもないクラスメイト達だった。何とも運が悪いことに、あの日……終業式の日、教室に残っていた顔もちらほら見える。それならばどうせ十数メートル先の全員にあの噂なんてきっと共有されてしまっている。端的に言って、今の状況は最悪に近い。


 もし、もしも、千石と二人でいることに気づかれてしまったら。その先を想像するだけで恐ろしさが心臓周りを駆け回って吐き気がしそうだ。首筋を流れるのは紛れもない冷や汗で、その感触に思わず焦りに拍車がかかる。



「ねえ千石、あっちに、」

 気づいてるの、と問いかけようと顔を上げた瞬間、優しい瞳とかち合って息が詰まる。彼の唇が緩く弧を描いたかと思えば、柔く強く腕を引かれた。大した勢いではなかったからかほんの少し前方につんのめる程度だったたけれど、私が呆気にとられるにはそれで充分だった。
 急に何をするんだ。文句のひとつでも言ってやろうにも、もう既に普通に声を出したらあちらに聞こえてしまいそうな距離までクラスメイト達が迫ってきている。私は意図せずして人通りに背を向ける形になっているものだから確信を持って言えないが、はしゃいでいる賑やかな声がすぐそこに聞こえる。気のせいかもしれないし、そうではないかもしれない。それがまた私の不安を助長する。どくりと脈打つ身体には、正体不明の熱が蔓延している。


 冗談ではなく、数秒が永遠に感じられた。引き寄せるためだけに握られたと思っていた指先は何故か触れ合ったままで、周囲にひた隠すように握られ、彼にしっかりと私の焦りと熱を伝えてしまっている。

 ──千石って名前のこと好きらしいよ。
 通り過ぎていく筈の声が、回想の中でも脳に響き続けている。そのせいでいつ彼らが私達の側を通り過ぎていったのか、どれくらいの時間そうしていたかもわからなくて、彼の手を握る力が緩まるまで私はそれに気づくことができなかった。



「……な、んで」

 酷く渇いて張り付いた喉を無理に震わせた声は拙かった。どうして彼は隠れるでも、何でもないように声をかけるでもなく、ただ私の手を握ったのか。わからなかった。そんなことをして彼のためになる訳がないし、それをあの人たちに気づかれないとも言い切れない状況だったというのに。ただ、唐突な彼の行動に私が馬鹿みたいに焦らされただけだった。私だけが、困っていた。


 そこまで考えが至ってはじめて、目の前の彼が意地悪な顔をしていたことを知った。確信犯だ。彼はきっと、私を困らせたかったに違いなかった。





「名前ちゃん」

 それは、きっと。
 ふ、と細められた瞳は意地の悪さと優しさが同居していて、私は思いがけなくドキマギした。明るくてお調子者の彼はそんな顔を教室ではしない。私は、見た事がない。


「気づいてるんでしょ、」

 小さな息遣いと、彼の唇が次の言葉を形作るのを見ているのがどうにも耐え難くて息が詰まる。顔の火照りに、今にも胸の核から身体がどろどろに溶け出してしまいそうだ。


 それがあまりにも苦しいものだから目眩がしそうで──もういっそのこと、夏の夜に溶けていけたらいいのにと、私はどうにも馬鹿なことを願ってしまったのだ。


星さえ息吹を忘れるというのに






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