La floraison






 名前先輩。
 彼の優しさが内から滲み出たような声が私に呼びかけると苦しくなる。まるで温い水の中に沈んでいくような窒息。私に向けられるその笑顔だって優し過ぎる程なのに、だからこそ素直に受け止めることは出来なくて、詰まる息を吐き出して平静を装う。
 やはり可愛くない。年齢だとか、彼とは違うスクールカラーだとか、違和感ひとつ無い敬語だとか。そんなものに勝手気侭に振り回されて怖くなって、知らないフリをして緩やかに窒息の海を揺蕩っている。






「そういやさ」
「あ?」
「宍戸、アンタ彼女出来たんだって?」

 ブッとあまりにも汚い音が宍戸の口から飛び出る。口に物を入れている時に話しかけなくて良かったと思いながら宍戸に視線を送ると、口元を腕で覆い、未だに止まらない噎せを押さえていた。その耳はほんのりと朱く、あまりの分かりやすさに思わず口角が上がってしまう。


「あ、やっぱりホントなんだね」
「……お前、それ誰から聞いたんだよ」
「向日君」


 岳人のヤツ許さねえ。顔を机に豪快に臥せって静かになった宍戸から零れたその言葉に苦笑した。と同時に、羨ましいと羨望の眼差しを向けてしまう私も居る。厳密に言うならば、付き合うという行為自体というよりは、好きな人と結ばれたという事実が。
 宍戸の彼女は多分、テニス部マネージャーで後輩のあの子だ。宍戸もあの子も分かりやすくて、隠しているつもりだったかもしれないが周りには筒抜けだった。触れたり触れなかったり、周りは二人を揶揄するようで互いの気持ちをバラす様な下手な真似はせず、何だかんだ暖かく見守ってきたのだ。私もその一人として嬉しくない訳では無いが、だからこそ揶揄いたくなるというもの。朱みの引かない顔を上げて宍戸がぼやく。


「つーか俺岳人に言ってねえんだけどな」
「あー……まあ、アンタはわかりやすいから」
「クソ、長太郎からも『おめでとうございます』なんて言われちまうしよ……」


 思わず笑顔が硬直した。
 原因は敢えて口には出さない。今まで散々宍戸の鈍感にはやきもきしてきたがこの時ばかりは鈍い彼に救われたような気持ちだった。幸い、一瞬の不自然な間に彼は気づかなかったようだ。そうなんだと極力自然に返し、次の授業の準備を口実に立ち上がる。次の時間は現代文。苦手科目のひとつだ。それでもそんな授業に今なら身が入りそうだと思えてしまうのは、きっと私が単純で、そしてどうしようもない恋慕を抱えているからだろう。


 とどのつまり、私は鳳君に恋をしている。


*


「苗字って鳳のどこが好きなん?」


 情けない話ではあるが、私が鳳君への恋心を自覚したのは、私がマネージャーを務めるテニス部のレギュラーの一人──忍足君の一言であった。忍足君の右手首にテーピングを巻いている時に何気なく発せられたそれは、私にとって衝撃以外の何物でもなかった。手を止めて目線を上げると、周りにはポーカーフェイスと称される表情が悪意など微塵も感じられない瞳を私に向けていた。それが私にはもっと理解出来ず固まる。
 私の反応に彼は少し不意を突かれたような顔をした。そしてその顔が戸惑いに変わっていくのは実に分かりやすかった。ポーカーフェイスとは一体何なんだ、とは流石に言えなかったけれど。

 しかしすぐにいつもの様子に戻る。流石だ。今の一瞬で彼と私の思考の溝を理解した上で埋めてしまったらしい。その頭の回転の速さにはこころから敬服する。……などと、くだらないことを考えている場合ではない。眉を僅かに顰めた忍足君を見て察する。


「自分、それ本気で…………いや、冗談な訳ないわな」

 もちろんだ。そんなタチの悪い冗談言える訳が無い。そう言わずとも忍足君は私の返事を肯定して困ったように笑った。一方の私は彼のように簡単に体裁を整えられるほどの余裕は無く、茫然と先程の言葉を反芻するばかりである。

 ──好き?私が、鳳君を?鳳君は確かに良い子だ。先輩にちゃんと敬語が使えて気も遣えて優しくて、実際に何度彼に助けられたことか。感謝している。好きか嫌いかと問われれば勿論好きだ。けれどそれは普通に後輩としての好きだと思っていた。
 しかし『好き』という一言のフィルターを介して考えてみるだけで、彼の長い睫毛が伏せられる瞬間だとか男らしく骨張った手だとかが思い浮かんでしまって、どうしようもなく恥ずかしくて死にたくなる。

 一人勝手に赤くなる私に忍足君は軽く笑って堪忍な、と言った。もう自覚してるモンだと思って揶揄うつもりやったんやけどなァ。申し訳なさそうに言う彼に何だか悪い気がして必死に頭を振る。脳みそを揺さぶりながら記憶を抹消しようとしたが、染み付いた感情はそれを強く拒み脳裏に浸透していく。……やはり忍足君は許せないかもしれない。彼の所為で、要らぬことを自覚してしまった。


 その日を境に忍足君は良き相談相手に、そして鳳君は私の好きな人になったのだ。





 全ての授業が終わった。

 ホームルームもそこそこに、何となく後ろの席の宍戸と話す気にはなれず無言で席を離れ鞄を取りに行く。とは言っても宍戸がわざわざ私に接触してくることはないと思うが。今日は確か久しぶりのオフだ。恐らく、宍戸は彼女と何かしらの約束をしているだろう。私に気をかけている余裕なんてあの男にあるはずがないのだ。果せる哉、遠目に見た宍戸の動きは落ち着かない。よし、今のうちに帰ろう。



「すみません、宍戸さんいらっしゃいますか」

 聞き馴染みのある声に思わず足を止めた。教室の扉へ向かっていたところへ飛び込んできたその声の持ち主は私の数メートル先に居た。それは──それは間違いなく、彼、鳳君で。胸を一突きされたような衝撃に息が詰まる。

 あ、とどちらかが発した。或いは二人かもしれない。目が合ってしまった。先に目を逸らしたのは鳳君だった。しかし直ぐにこちらに視線を戻し、曖昧に笑む。

 こんにちは。そんな何処かよそよそしい言葉が地に落ちる。こんにちは。小さく返して、今度は私が俯く。


「お、長太郎じゃねえか」
「……あ、宍戸さん」


 運が良いのか悪いのか、背後から声がかかる。態々目で確認するまでもない。鳳君がここに来た本来の目的である宍戸だ。鞄を握る力を強め、鳳君が立つのとは反対側の扉に向かう。別に避けた訳じゃない。…………宍戸と話すには、私が邪魔になるだろうと思った、ただそれだけだった。





「んで、また逃げたっちゅう話か」


 次の日。部活の休憩時間に忍足君にボトルを手渡し、その日あった出来事を報告するのは最早日課のようになりつつある。それは彼も薄々気づき始めているようで、大人しく私の話を聞いて少々呆れ気味にいつも笑ってくれている。


「“また“って……」
「態と避けんのは誤解されてまうで?」
「……それは、わかってるつもりなんだけどさ」
「まあ分からなくもないで、避けたくなる気持ちも」

 彼は口が上手いと思う。我儘をぶつけても冷静に受け止めてくれるからついつい要らぬ本音が飛び出してしまう。それを彼のせいにするつもりは毛頭ないが、こうやって話を聞いてくれる人の存在は本当に有難いものだと最近実感している。もし忍足君が居なければ、多分今頃は迷宮入りで頭の中が爆発していただろう。

 好きな人を避けてしまうだなんていつだか聞いた友人の話を意味がわからないと思っていたけれど、今となってはそれが少しわかってしまった。

 簡単な話だ。問題というのは、鳳君は二年生で私は三年生。鳳君はテニス部の部員で私はマネージャー。つまり、私と鳳君が先輩と後輩の関係にあるという事だ。
 勿論先輩ともなれば敬語も使ってくれるし、誰に対しても優しい彼の気配りは倍以上にもなる。
 ──しかし、私はそれを喜べるほど素直ではない。寧ろそれが彼との一定の距離や壁を感じさせるのだ。彼の近くにいると、私には決して使ってはくれないタメ口だとか、私には見せてくれない気の抜けた笑顔が他人に向けられているのが気になって、それがどうしても苦しくて、そんな自分勝手な理由で彼を避けてしまっている。
 こうして纏め直してみればあまりにもくだらなくて、自分が如何に至極面倒くさい人間であるかということを再認識してしまう。


 事実、年上の彼女を持ったクラスメイトが他の男子に『年上好き』と弄られていたのを見たことがあるし、もしこの世の男全員に年上が好きか年下が好きかとアンケートを取ってみれば、後者の割合が高くなるだろうと断言できる。だからこそこの名状し難い感情をひた隠しにしているのだ。
 
 それに──こんな態度をとっているのは私だけではない。鳳君だって、きっと私のことが得意ではない。優しい彼に嫌いな人なんてものは存在しないと思うのだけれど、苦手意識くらい芽生えるに決まっている。明らかに彼は私が苦手だと思う。私と目が合うと必ず逸らす。今日もそうだった。他の人以上に私には気を遣っているのは実に分かりやすい。それが彼なりの距離の置き方だと気がついたのは最近のことだ。


 不意に、少し遠くにある色素の薄いグレーの頭が視界に入る。ちょうど私の位置からだと横顔がはっきりと見えた。その視線の先にいるのは──二年生のマネージャーの子だ。可愛くて気の利く子なのでとても人気があるらしい。平均よりも背の低い子だから、平均よりも背が高い鳳君と並ぶと大人と子供みたいだ。あの子がタオルを手渡す。それを鳳君がはにかんで受け取る。二人の姿は様になっていて何だか涙も妬みも引っ込んでしまう。勝てる気がしなかった。私はあの子のように身長が低い訳でもないし、あんな風に微笑んでなんてもらえない。


 波立ち騒いで落ち着かない心が嫌で目を伏せた。忍足君は何も言わなかったけれど、休憩の間私の横を離れることは無かった。






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