La floraison







「……苗字?」


 呼ばれた気がして顔を上げれば、確かな驚愕を浮かべた瞳と目かち合った。その顔には嫌という程心当たりがあって──私は思わず手にしていた箒とちりとりを取り落としてしまったのだ。カタンカタン、と立て続けに軽い音が響いた。流れているはずの陽気な店内BGMもたちまちフェイドアウトされていく。



「……人違いです」
「いや、んな訳あるかよ」
「違います!」
「それ立海の制服じゃん」
「……」

 真っ当な指摘に、下手にとぼけていた私は何も言えなくなった。流石に彼が容姿を分かりきったクラスメイトから「人違いです」と言われて素直にああそうですか、と引き下がるほど単純な人間には思えない。私は諦めたように溜息をついて、落とした掃除道具を拾い──走った。スタッフルームという扉へ向かって。



「お、おい!待ちやがれ!」

 しかし流石に男子、そして現役運動部の反射神経と瞬発力に敵うはずもなく、ほぼ背を向けた瞬間と同時に腕を掴まれてしまった。


(こいつ、馬鹿力……!)

 咄嗟の行動だったのだろう。離さまいとする彼の手に──恐らく無意識にぎりぎりと力が込められていくのがわかる。比喩でも何でもなく骨が軋む。ああ、引き止められるならもっとロマンチックなシチュエーションで、優しくてイケメンな彼氏なら良かったのに!そんな馬鹿なことを考えられるくらいには頭は平静を保っていた。
 痛い痛い!と抗議の声を上げればその手は呆気なく解放された。また腕を掴みあげられては冗談抜きにポッキリと骨が折れてしまい兼ねないので、私は戦意喪失の意志を持って腕をだらりと降ろした。大人しく立ち止まれば彼は一つ息をついて口火を切る。


「ったく、逃げることねぇだろい」
「……ごめん」
「で、何でここでそんなエプロン付けて掃除なんかしてんだよ」
「……ここ、私の家。お菓子屋やってんの」

 マジ?という彼の戸惑った声に小さく頷く。何となく彼の顔を見れなくてつけ慣れたエプロンの裾をきゅ、と握る。そこそこ仲の良いクラスメイトだとは思っているが、だからこそ知られたくはなかった。お菓子屋さんの一人娘、なんて可愛らしい肩書き、私のキャラじゃないのは分かっているつもりだ。
 毎日のように店の手伝いをしているが、丸井は今日それを知ったという。つまり、彼がこの店に来たのは初めてだということだ。お世辞にも人気店とはいえないこの店を彼はどのようにして知ったのだろうか。


「どうやってこんな小さな店知ったの?」
「そりゃこの辺のスイーツのくちコミサイトだけど」

 口コミ。ウチの店にはそんなものがあったのか。初めて知る事実に思わずへえ、と声を漏らす。それからふつふつと喜びが湧き上がってきて、思わず頬を緩めた。唇を噛み締めてそれを抑える。そんな私に彼はニヤニヤしてんぞ、と言って軽く笑った。

 ただの男友達だと思っているが、コイツのこういう、なんというか、この笑顔にはちょっと動揺する。流石天下のモテモテテニス部様だ。実際そこまで持ち上げてはいないが、一般的な彼らへの評価はそう言っても差し支えないくらいに凄まじい。


「……お願いだから、あまり言わないで欲しいんだけど」
「え、何でだよ?」
「普通に恥ずかしいし」
「大丈夫だろい、ここのケーキ美味そうだしよ」
「そういうことじゃないの!」
「いてえ!……分かったって、分かったからやめろ!」

 まだ食べもしないクセに。あまりに根拠が無い彼の自信が馬鹿馬鹿しくなる。ただそれが嬉しくて、そしてそんな自分が悔しくなって、照れ隠しに彼のスポーツバッグを勢いよく引っ張ったのだ。完全に彼への当てつけだった。



「ま、気が向いたらまた来てやるよ」

 その日、彼はスフレチーズケーキとガトーショコラ、そしてプレーン味のマドレーヌを五個買って帰っていった。





「間に合った!」

 彼は宣言通りまた店にやって来た。ただ、想像していたより随分気が向くのが早かったようだ。結局来てくれるんじゃん、とくすりと笑みが漏れる。
 来た時間帯はこないだよりかなり遅い。現在十八時三十四分。閉店は十九時。肩で息をしている様子を見ると随分急いできたみたいだ。勢い余ってずり落ちるスポーツバッグ。全力で体育の授業をした後のような汗のかき方に、一瞬私はぎょっとした。


「ああ、部活してきたからそんな汗だくなんだ」
「いや、ミーティングだけだったんだけどよー……赤也が補習なんかに引っかかったせいで幸村君が……あ、何でもねえ。それよりマドレーヌ!」
「ああ、うん……何個?」
「えーっと……プレーンとショコラと抹茶……あ、全種類で。四つずつ」


 丸井の口から出た名前は聞き覚えがあった。確か、赤也っていうのが二年エース。そして、幸村君が部長。凄く強いということくらいは私でも風の便りで知っている。丸井はもちろんのこと、男子テニス部は個性が強いメンバーが多いから覚えていた。
 そんなことを考えながら、ウチの看板メニューを丁寧に袋に詰めていく。鼻腔を擽る何種類もの柔らかな甘い匂いで、私はふと気づく。



「もしかしてこれ一人で食べるの?」

 確かにこないだも思ったのだ。早弁をして四限目が終わった瞬間購買に走っているくらいに食べ物に対していやしいイメージはある。ケーキ二つにマドレーヌ五つならまだ……まあ、二日くらいに分ければいけるのではないかと思った。しかしこの店の看板メニューであるマドレーヌは王道のプレーン味含め七種類もある。それを四つずつ。そう考えると、日を分けて食べるにしても賞味期限という問題が浮上してきてしまう。多く買ってもらえるのは店としては有難いことだが突っ込まずにはいられなかった。



「んー……それでもいいけど、家族用もある」
「ああ……兄弟?」
「そ、騒がしい弟二人」

 丸井と、丸井に似た小さな男の子二人が家で乱闘している様子を想像したら吹き出してしまった。馥郁とした香りを漂わせる紙袋を手渡そうと顔を上げると不機嫌そうな視線がこちらを向いているのが分かった。私はまた笑った。彼といると笑ってばかりだ。


 ここまで丸井と話し込むのは初めてだった。そこそこ仲が良いといっても私より彼と話す頻度の高い女の子は山ほどいる。彼は面白い。いつもクラスの輪の中心にいるのも頷ける。私はどちらかと言えば輪の外側から見ている方なので、誰とも話せて場を盛り上げる彼を本当に凄いなと思うのだ。

 紙袋二つを抱えた彼は、暇な時に来ると言って家路に就いた。
 その後ろ姿を、どうせまたすぐ来るんだろうなあ、なんて思いながら眺めていた。






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