La floraison






  花粉の季節到来だなんて仰々しくメディアは謳うけれど、私の目はそれをハッキリと認識することができないし、特に花粉症を患っているわけでもないから実感することは難しい。当たり前である。ただ、この季節になると誰かが授業中にくしゃみをする回数がやたらと増えたり、箱ティッシュが置かれている机が教室を占める割合が急激に高まったり──環境の変化で何となくそれらを感じ取っているだけだ。目に見えない癖してふわふわと漂っては人間を惑わせる、そんな花粉がどこか恨めしく思えてしまうのはおかしな事では無いだろう。


 そう思うと何だか毛利君は少し花粉に似ている 。少しどころかかなり酷い物言いである事は百も承知であるが、あくまで私の中での花粉と毛利君の立ち位置が似ていると言うだけの話である。……いや、それもなかなかに失礼な話ではあるけれど。
 しかし、眠気を堪えて偉人や地名を必死に板書している人の気も知らずに机に突っ伏してスヤスヤと寝息を立てているものだから、恨みの念を向けたくなるのも仕方の無いことだと思う。横を見れば悔しいほどに気持ち良さそうな寝顔があって、そりゃこんな陽気の中、窓際の席で居眠りなんて最高に決まってるでしょうよ、と心の中でひっそりと悪態づいた。



「じゃ、この問題は簡単だから誰かに当てるぞー……」

 ある瞬間発せられた教師の一言に何人かの影が動き出す気配を感じ取って顔を上げれば、教師の視線が教室を巡る。窓側から徐々に蛇行していって──あ、やばい、こっちに来る。


 半ば反射的に隙だらけな毛利君の脇腹をつんつんと小突く。……つんつんというよりはグサグサに近いくらいの勢いになってしまったような気がしなくもないが、急を要する事態なので許されるだろう。
 むくりと彼が身体を起こしたのとほぼ同時に教師の視線がこちらに向く。本当に間一髪だ。とりあえず彼が当てられる可能性は限りなく低くなった。あの先生は普段は淡々と授業をするだけだが、生徒が質問に上手く答えられないと少しだけ機嫌が悪くなる。ずっと眠りこけていた毛利君ではきっと答えられなかっただろう。一人胸を静かに撫で下ろす。

 職務を全うした達成感と共にシャープペンシルを手に取った、その瞬間だった。




「そうだなー……じゃあ、苗字。この空欄に当てはまる語を答えてくれ」

*



 げ、と情けなくも漏れた声は殆ど無意識だった。


「こんなとこで会うなんて奇遇やね」
「……毛利君」


 不幸は立て続けに起こり得るものなのか。考えたってその答えは簡単に導き出せそうもなかったからすぐさま思考を放り捨てる。そんなのはまさに神のみぞ知るというヤツだろう。無論私は神様でもその類いでも無い。でもきっと神様は私のことが嫌いなのだ。そう思わざるを得ない。それくらいに私の心は沈んでいた。


 寝ていたクラスメイトを起こし窮地を救ったかと思えば、よりによって解答権が自分に与えられるなんて。数時間前の漫画のような不幸展開も、決して創作物ではなく紛れもない現実なものだから笑い飛ばせる訳もなかった。
 それにしてもその元凶の一つである彼に学校外で──しかも、立海の生徒が殆ど利用しないこの駅の周辺で出くわすなんて、神様はよほど私を懲らしめたいらしい。そんなに悪い行いをしてきただろうか、私は。


「苗字さんはこないな所で何しよるん?」
「…………ただの散歩、だけど」
「ハハ、さよか」

 言葉をやけに濁してしまったから怪しまれるのではないかと警戒したが、彼は特に変わったリアクションを見せるでもなくいつも通り朗らかに一笑しただけだった。


「……毛利君こそどうしたの?」
「俺?俺はちょっと野暮用やな」
「へえ……そうなんだ」
 
 私以上に言葉を濁した彼に多分大した意図はないんだろうけど、今の私には少し癪で思わず無愛想な返事をしてしまった。またもやそれを気に留めることなく肩のラケットバッグを掛け直した彼は、恐らく部活終わりにここに赴いたのだろう。それもあってこんな場所に彼が居る理由は謎を極めていたが、とりあえずこの場を去りたいという気持ちが強く私を突き動かそうとする。



 
「じゃあ、私行くね。また明日」
「……なあ、」

 これ以上話していると何を口走るか分からなかったので別れを告げて二歩、三歩と歩み進めた時、後ろから名前を呼ぶ声が聞こえて思わず足を止める。すまんなあ、といつも通りのんびりとした口調の彼の言葉がやけに鋭く胸に刺さるのは、私の中に一種の後ろめたさがあるからか。その言葉の意味を図りきれていないのに、私は思わず振り返ってしまったのだ。





「ほんまに、散歩なん」

 あからさまな心配を浮かべた誠実な表情が、 恐らく無意識的に私を肉薄する。あまりに剥き出しな善意に心臓がきゅうと悲鳴を上げる。苦しい。


 そもそも、こんなに強い言葉を使ってこそいるものの別に彼が嫌いな訳では無いし、人当たりの良い彼は寧ろ友好的な部類にまで入るだろう。かえっておかしいのは私の方で、今日はやけに気が立っていることを自分でもよく分かっている。クラスメイトにまで当たってしまうそんな自分に嫌気がさして、また憂鬱の質量が増す。

 


「すまん。言わんつもりやったけど……そないな面してたら流石に放っておけへん」

 私を待つだけの瞳がただただ穏やかで、いよいよ息の仕方すら分からなくなる。そして、彼が少し悲しそうに笑っているのが分かったら、いよいよ堪えきれなかった。視界が揺らぐ。滲む。……ああ、今日は本当に最悪の一日だ。




 泣くつもりなんて、毛頭なかったというのに。






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