幻想見えない水底は

“瀬名 泉”

私は、その名を知っていた。

綺麗な響きを持っているその名前を、私は確かに耳にした記憶がある。雑誌だとかテレビだとかそんな間接的な物じゃなくて、もっと直接的にその名前を知った覚えがある。私はその名前に直接触れたことがある。私は、瀬名泉を知っていた。その真っ白な名前を、知っていたはずだった。



ぶくぶくと視界の中、昇っていく気泡。上部から差し込む淡い光に、小さな手を伸ばしても、身を纏う浮遊感は変わらない。こぽこぽと自らの口元から無数の泡が零れては私を置いて上部の光へと還っていく。

高くからここまで届く眩しい光。ぼんやりと闇に輝く白いようなその光。月光だった。闇を照らすような、包み込むようなその温かい光が、どうしようもなく恋しくなる。

やけに静かなこの空間の中、もう一度自分から逃げていく気泡に向かって手を伸ばした。再び視界に映る小さな両手。ああ、無力だ。なんでこんなに小さいの、なんでこんなに遠いの。歯がゆさを感じながらそっと手を落とした。


昔から
『お姫様』なんてものに憧れていた。

昔から
『王子様』なんてものに恋い焦がれていた。


白雪姫だったら、意地悪されて、殺されそうになって、最後には『王子様』がキスをして起こしてくれる。

シンデレラだって、意地悪されて、魔法が解けて、最後には『王子様』が探し出してくれる。

そんなハッピーエンドにすごく憧れていた。私もいつかこんな恋をしてみたい……いや、いつかするものだって思っていた。でもそれは所詮、無垢な子供の幻想に過ぎないのだろう。けれどもそんな憧れはいつまでも変わらないで、私の胸の中にあり続けていく。

いつか、絵本で手に取った『お姫様』の話に私は驚愕した。

『王子様』のために、大事な声を失って、近づくための足を手に入れて。それなのに気づいてもらえなくて、愛してもらえなくて。結局は愛する人の命と自分の幸せ、天秤にかけて泡になって消えることを選ぶお話。

そんな優しくて、温かいのに
とても儚くて、悲しいお姫様のお話―――

こぽこぽと、無数の泡が上方へと私を取り残して昇っていく。白い白い綺麗な泡が光に向かって昇っていく。それなのに、私は暗い闇の中に堕ちていくだけ。

なんか寂しいなあ……

上を見上げると、光に照らされた綺麗な青が輝いていた。輝きながらゆらゆらと揺れている。本来透明であるその色が、何を映して青く輝いているのか、私にはわからなかった。ぼんやりとする意識の中、見えたその青が何故かとても眩しくて、憎らしいくらい美しくて、これ以上見えないようにとそっと瞳を閉じる。

ゆらゆらと揺れていた澄んだ青。いつまでも身体を包む浮遊感に眠気を感じる。ちらりと深い下を見てみれば、そこにある永遠にも感じるような深い闇。ああ、あの『お姫様』もこんな闇へと消えて行ってしまったのだろうか、それとも泡たちのように綺麗な光へと還っていったのだろうか。

そろそろ眠たい、限界だ。

唇の間から漏れていた空気が、そこを尽きたようだ。だんだんと、遠のいていく意識。いよいよ暗く染まってくる目の前。輝く光が、ひどく遠くに見えていた。ゆっくりと、飲み込まれていくのが分かった、あの暗がりに。

力なく、最後にもう一度だけ、この小さな手のひらを遠くなってしまった光に伸ばしてみる。意味がないことなんて、わかっているけれど。でも、もう一度だけ、意識がある今だけ、最後に一度。

小さな一つまみほどの希望をかけて、光へと手を向ける。しかし、その小さな手が何かを掴むことはない。こぽこぽと、微かに音を立てて気泡が上がっていっただけだった。

不思議と自然と緩んだ口元。上がった口角の端から少しだけ残っていた、ミジンコみたいな泡がぽつぽつと零れだす。心の中でぷつりと音を立てて何かが切れた。

はるか遠くに見える白い光。もうこんなに遠いのに、まだまだそれは遠くなる。その淡い光、けれどとても心強かった光は、残酷にもまた私から離れていく。遠ざかるその希望を手放すようにゆっくり瞼を閉じる。

もうおしまいなんだ

もう既に透明な水で溢れてしまった口を惜しげもなく開く。もう泡なんて出てきやしない。このまま暗闇に沈むだけ。

ゆっくりと目を開く。きっと開いた視界には、残酷なほど遠ざかったあの光が見えるんだろう。絶望に似た心地で、ゆっくり目を開く。こころなしか目元が熱いのはなんでだろう。身体は、心はこんなにも冷たいのに。

視界に映りこんだものは、意外な色だった。遠い遠い白でもなく、優しい黄色でもなく、怖い黒でもなく、美しい青でもない。

穏やかな水色。

本当に突然だった。感覚の消えかけた腕を力強く引っ張られる。引かれるままに力に身を委ねた先、そこにあったのは夢のような現実の世界。

ジャブンと音を立てて抜け出したその世界は、ざわざわ冷たい風が吹いていた。鮮明に耳に入ってくるのは草木の声。突如音の溢れた、感覚のある、全く別の世界に放り込まれたかのような感覚に背筋がゾクッとした。

木々達のざわめき、ぴちゃぴちゃと水が遊ぶ音に紛れ込んでいた人の乱れた呼吸音。力強く握られていた腕は、暑くて痛い。私の腕を掴んでいる幼い手を辿っていくと、そこで優しい水色の瞳と視線が交わる。それはまるで晴れ渡る青空のような色。

「歌羽は、俺が守るからっ……」

目の前の少年はそう言った。まるで『王子様』みたいだった。私の憧れていた優しくてかっこいい物語の中の王子様。

物語の中みたいに、大きくなんてないけど、白馬に乗っているわけでもないけど、豪華な服を纏っているわけでもないけど。真っ直ぐなその澄んだ青い瞳に、そこに私は王子様を見つけていた。

真っ暗な夜空が、キラキラと輝く。空を埋めるように散らばっている星たちが世界を明るく照らしだす。腰の高さにある水面が、ゆらゆらと揺れているその上にも、その夜空は広がっていた。水面の上を踊るように浮かんでいる淡い光がなんなのかを、その時の私はまだ知らなかった。それでも、その淡い光に、私は温かさを感じていた。

まるで物語の中のような世界で2人だけ。





私が覚えているのは、これだけである。何故あんな状況になったのかも、何故私がそこにいたのかも、もうなにも覚えてはいないが、その光景だけ、その時の記憶だけが鮮明に残っていた。

それともう一つだけ覚えていること。それは、私の目の前にいた王子様のような少年が、瀬名泉という少年だということだ。

これが現実にあったのことなのかすら、もう大きくなってしまった私にはわからないけれど、これだけは自信があった。理由も根拠もなにひとつないのだが、どこから湧いてくるのかもわからないのにはっきりとした自信があった。矛盾した自信があった。青空色の透き通るような綺麗な瞳、幼くても真っ直ぐな声、暖かな手のぬくもりを持っている少年、瀬名泉。

彼は確かに、存在していた。瀬名泉という少年に私は触れたことがある。そんな自信がどことなく湧いてくるのだ。根拠なんてどこにもないのに。

その優しくて幼い王子様に、私は憧れている。その幻想かもしれない記憶の一欠片に、どうしようもなく酔いしれてしまっている。

“瀬名 泉”
私は、その名を知っていた。
その美しい名に、恋い焦がれていたんだ。

| novel top |