私の沈んだ感情を模写したかのように、空一面がいつの間にか曇天に変わり、そこからとめどない雨が降り注ぐ。それはあてもなく駆け出してからすぐの出来事だった。びちゃびちゃと薄い水たまりのできた暗い色の道路を駆ける。
「……っはぁ」
ふと、足を止めたのは小さな公園。鉄製の遊具なんかはところどころメッキが剥げていて、みすぼらしい印象を受けた。ゆっくりと公園の鎖を跨いで、足を踏み入れる。周りには土砂降りの雨が降り注いで、公園の土に水たまりを作っていた。傘も持っていない私は、それに打たれるしか術がない。しかし、こうして全身濡れている方がみじめな自分にはお似合いだろうと対して焦ることもなかった。
(ねぇ、これ、落としたよ)
私には密かな夢があった。もちろん夢なんていう願望やら野望なんていくつもある。凛月の傍にいたい、みんなと一緒に笑ってたい、北斗にアイスをおごってほしいなどエトセトラ。数え切れないほどたくさんあるのだ。湿った空気や降ってきた水滴が肌にまとわりついて、徐々に体温を奪っていく。
(ねぇ、まーくん眠い。おんぶして)
最初は、彼の傍にただ入れるだけで幸せだった。もちろんそれは今でも変わらない。それでも、私という人間は貪欲なようで、それだけでは足りなくなってしまったのだ。
「凛月……っ」
前が見えないのは、冷たい雨のせいなのか、それとも感情と共にせり出す涙のせいなのか、最早どちらなのかわからない。私はいつしか、凛月に女の子として見てほしい、そんな贅沢な願望を抱いていた。道端で女の子がハンカチを落としたとき、幼馴染の真緒と一緒にいるとき、彼は私といる時とは明らかに異なる反応をする。それでいいのだと思っていた、なのにそれではダメになっていた。私は貪欲だったのだ、道行く女の子のように紳士的な態度で接されてみたいし、真緒みたいに親し気に甘えてほしい。気が付いたら女の子として特別な存在になりたいと思ってしまっていた。
“いえ絶対ないんで”
先程の言葉が再び脳裏を過ぎる。ああ、勝手に1人で舞い上がってバカみたい。彼女になんて私ごときがなれるわけないじゃない、なるわけないじゃない、わかっていたのに。凛月が私を好きになんて、冷静に考えてみればわかることなのに。思い出せば出すほど、自分が情けなくなって胸が締め付けられる。浮かれていた馬鹿な私は何故気が付けなかったのか。最初から分かっていたのに、アイドルとして生きるあの人が私みたいな凡人がどうやったって手の届く存在じゃないなんて。どうしようもなく怒りだとか後悔だとか、いろんな感情がぐちゃぐちゃに混ざって喉元まで登ってくる。
「……ばか」
小さく吐き出した言の葉は、相変わらずバシャバシャと音を立てて容赦なく降り注ぐ雨の音に飲み込まれていった。公園には無様に立ちすくむ私だけがいて、他に誰もいなかった。ずぶ濡れになってしまい冷えてる身体、なのに相変わらず目頭だけが異様に熱い。
「……名前っ!?」
聞こえるはずの無い声に、遂に幻聴まで聞こえたのかと振り返る。バシャバシャと水の上を走る音。現れた黒い頭に目を思わず見開いた。それはどっからどう見たって。
「……凛月」
「馬鹿」
「凛月、なんでここに…?」
鎖を飛ぶ勢いで超え、こちらに駆け寄ってくる凛月。傘もささずに目の前まで来た彼は再度冷めた声で「馬鹿」と短く呟いた。水分を含んだ重そうな前髪を退けた凛月の怒気の宿る紅い瞳と目が合う。相当走ってきたようでその肩が上下に揺れていた。
「なんで……?」
「なんではこっちの台詞……。なんで、逃げたの」
「……」
思わず言葉に詰まる。雨の打たれ続けた身体はすっかり体温を失っていて、握りしめた指先が氷のように冷たかった。気まずさのあまり伏せた顔、だんまりを決め込むつもりだった。
「黙ってたって、わからないでしょ?」
「っ……私」
なのに凛月が優しい声で囁くから、その意思は簡単に打ち砕かれてしまう。縋りつきたいと伸ばしかけた手をぐっと握りしめて我慢しようとしたのに、それを目ざとく見つけた凛月が濡れた手でぎゅっと握るから、増々胸が苦しくなる。
「私は、凛月が好きなんだよ」
「知ってる」
「凛月の、彼女になりたかったの」
言った後から後悔の念が押し寄せる。もう元には戻れない。そんな考えがふと脳裏を過ぎり、胸が苦しくなる。完全に嫌われてしまえば、きっと彼はもう私をその視野にすら入れてくれない。常時眠たそうに伏せられている紅い瞳も、へらりと微笑む大好きな顔ももう見れなくなる。恐る恐る合わした視線、そこには仰天の眼差しをした凛月がいた。
「……名前って馬鹿なの?」
「そう……だね」
「……そっか、じゃあ」
行動で示さないとわからないね、言うや否や掴まれた腕をぐいっと引かれて、傾く身体。不意に後頭部を引き寄せられて驚く間もなく唇が重なり合う。触れるだけ、そう思っていたら力の入っていない唇をこじ開けて侵入してくる舌に今度は私が目を丸くした。
「まっ…んっ……ちょ、凛月?!」
「……うるさい黙れ」
押しのけたと思えば、低い声で一喝されて再度塞がれてしまえばもう抗えない。停止した思考でなされるままに熱を持った凛月のキスを受け入れる。貪るようなキスに冷え切ったはずの身体が再熱していく。そっと離され濡れた唇をそのままに、熱っぽい瞳をした凛月が口を開く。
「……俺はねぇ、名前が好きなの」
「な、なんで」
「わかってる?名前を彼女にしたいの。俺は、他の誰でもない、あんたに惚れてんの」
吐息のかかりそうな距離に息をのむ。今度こそ夢かと思うが、彼の黒い髪がらぽたりと雫が落ちて、紅い瞳がギラリと燃えているように揺れていて、そのリアルな景色に本当なんだと雨のせいで濡れた頬に涙をこぼす。
「わかった?」
「でもさっき……絶対ないって」
「……」
絶句した凛月の口からため息が零れた。
「一応俺アイドルなんだし……映るわけにいかないでしょ」
「……あ」
「忘れてたんだ……」
どうやら私は浮かれたついでに根本的なことを見逃していたらしい。そうか、本心じゃなかったのか。振り切るための口実だったのか。そんなことすら気づけなかった自身の愚かさに火が付いたように顔が熱くなる。口から零れた素っ頓狂な声に、凛月が呆れたように眉を下げて微笑んだ。
「本当に名前はバカだねぇ、早とちりもいいとこ」
「ご、ごめんなさい」
「ああいう輩は、ああするのが一番いいの」
「……はい」
慈しむ様に優しく頬を滑る大きな手。
いつの間にか止んでいた雨、暗雲の裂け目から僅かに優しい光が差し込んで視界が少し明るくなった。するりと凛月の手が離れて背中を向けて歩いていく。
「凛月、どこ行く……」
「名前」
少し進んだ彼が、私の問いかけを食い気味に振り返り様に私の名を呼ぶ。
「……こっちにおいで、名前」
振り返って交わる視線。凛月は優しく慈愛を込めた笑みを浮かべて、手のひらを私に向けて差し出した。身体はびしょ濡れで肌寒いが、胸の中がポカポカと温かさに満ち溢れている。大きく頷いて駆け寄り差し出されていた手を握ると、指と指の間に凛月の長い指がするりと忍び込んでくる。それは大事な女の子にしかできないことで。
「こんな格好じゃ映画館行けないよなぁ」
「うぅ……」
「いつでも連れてってあげるから」
取りあえず俺の家来る?兄者いるけど。なんだかいつの日かの私と正反対な台詞に、思わず吹き出した。そうすると、ずぶ濡れの凛月も肩を揺らして笑うので、胸の中に沸き上がる幸福感に頬を緩ませる。冷たい風が濡れた衣類を更に冷やして身体が震えそうになる。早く帰って着替えた方がいいのかもしれない。
*
朝の日が眩しい教室の、一席で黒髪の青年に普段通り絡みつく少女の姿があった。背中にべったりと覆いかぶさってくる少女を煩わしそうに睨んでいる青年。きっと誰も彼らの関係が変化してるだなんて気が付かない。
「凛月」
「なに」
「お嫁が嫌ならお婿さんでもいいんだよ」
そんないつも通りの朝のこと、みんなまたかと呆れた視線を向けていた。大好きな思い人の背中はいつも通り暖かくて心地が良い。教室の窓の向こうに見えた赤い紅葉はいよいよ満開になっていて、それはまるで凛月の瞳のように綺麗な赤色だと彼女はふと思った。
「そこはあんたがお嫁に来るんじゃないの」
「もらってくれるんです?」
「実家にお返しします」
イスにもたれかかって上を見上げた凛月と視線がかち合う。目を細めて口角を上げた彼。その悪戯な子どものような表情が堪らないほどに愛しくて、そっと黒い艶のある髪を撫でた。
「ねぇ、凛月」
「今度はなに」
「私のこと好きですか?」
煩わしいとでも言いたげに顰められた顔。覗いた真紅の瞳にはにんまりと口角をあげるだらしのない自分の顔が写し出されていた。
「大好きだよ、変態」
器用に首裏に回された手に引き寄せられて、瞼の上にそっとキスを落とされる。公共の場でこんなこと、一瞬の出来事に頬を染める名前であったが、名前と凛月が仲が良いのはいつものこと、運の良いことにその様子を見ているものは誰もいなかった。凛月の唇は柔らかくて、ぷるっとした感覚が瞼にダイレクトに伝わる。こんなこと本人に言えば、気持ち悪いと言われてしまうのだろうけど。いじらしく口角を上げて笑った凛月。それを見ただけで、もうお腹がいっぱいだ。
教室の窓の向こう、赤く染まった紅葉がひらひらと踊るように揺れていた。