“良い子に待っているのよ、大人しくしていなさい”
“こら、あっちへ行ってなさい。いい子だから”

何時の台詞だっただろうか。耳にタコができる程に聞いてきたその言葉は、鮮明に記憶に残っている。いつのまにか当たり前になってしまっていた、退屈なことで埋め尽くされた日々。籠の中の鳥、そんな言葉を、閉じた視界の中で思い出す。

緑色の葉と葉の間をすり抜けてきた風が、不意に頬を撫でる。予想以上の冷たさに、短い袖から丸出しの二の腕を摩った。そこで手のひらが温かく感じたのは、手が暖かいからなのか、それとも腕が冷えてしまっているからなのか。

「お嬢様ー!!お嬢様ー!!!」

そよ風に木の葉が掠れる音に交じって、聞こえてきた声。その声に嬉々として地上へと視線を落とした。あぁ、やっと来た。どうせ見つかることは無いだろうと高を括り、堂々と顔を木々の合間から覗かせながら、彼の姿を見守る。

「お嬢様ー!!どこにいらっしゃるのですかー?」
「ふふ、どこでしょーうか!」

地上でキョロキョロと辺りを見渡している、赤みを多く含んだ艶のある髪の騎士。剣を腰に差し、上等な服を身に着けながらも、していることは保護者や女中と変わりない。悪戯に弾む声で返事をすると、彼は目を見開いて上方を見上げた。しかし、残念ながらそちらではない。私はそっちの木にはいないのだ。

「なっ、また樹に上られているのですか!?」
「正解、前より頭の回転が速くなったみたいね」
「ああ!そんなところに!!貴女という方は……」

ようやく、その藤色の瞳と視線が交わる。私の姿を捉えた瞬間、元来大きな目をさらに見開いたツカサは、本当に感情が表に出やすくてからかい概がある。予想通りの反応にほくそ笑んでいれば、怒ったように眉を顰めた彼が、私のいる大樹の元に近づいてきた。

「あれほど大人しくしていて下さいと言ったはずですが」
「あら?そうだった?」
「もうお忘れになったのですか?!」
「その割には監視の目が薄かったじゃない」

煽り文句にキッと目付きを鋭くさせたツカサ。しかし、彼のような童顔では、そんなふうに睨まれたとしてもあまり怖くない。

「いいですか!?この国の姫たるものこのようなことでは……」
「あぁもう!!そんな話聞きたくなーい」

その言葉にまたか、とうんざりする。わざとらしく両耳に手を当てて聞く気がない意志を示せば、彼は増々声を荒らげる。

「……っ、とにかく降りてきてください!」

その必死な形相に降りてやろうか、なんて一瞬思ってもみたが、やはり頬をかすめた穏やかな風は心地が良くて、ずっとここにいたいと私に思わせた。

「いやだ」
「お嬢様」
「嫌だ、戻りたくない」

ツカサはその目を一層険しいものへと変えて、こちらの様子を窺っていた。言葉を探しているのか、文句でも言いたいのか、私を見上げながらパクパクと口を開けたり閉じたりしているその顔は金魚のようだ。立派な騎士がなんて間抜けな顔をするのだと失笑する。

「お嬢様、馬鹿を言ってないで降りてきてください!!」
「嫌だといったでしょ?」

あんな歴史の勉強だなんて飽きてしまった。彼らも彼らだ、お父様の言うがままに動いて。それよりも私はここで、ただぼうっとしていたいのだ。しつこい彼に、ふいっと顔をそらして、鮮やかな色の青葉へと手を伸ばしたその時


「……っ、お嬢様!!」


彼から放たれた怒声に一瞬息が止まる。これほど強い彼の言葉初めて聞いた。驚いて視線を落せば、視線の交わった、痛いほどに鋭い瞳。いつもは優しい色の瞳が、今は敵意を帯びている、そんなふうにすら見える。木々がざわつきだして、空気が急に冷めたような気がした。

「あまり、我儘を言わないでください」

刹那、困ったように眉を下げて目を伏せる彼。その切なそうな表情と、“わがまま”その言葉が深く胸に刺さる。強張ってしまった体は、何故か動かせないで、辛そうな顔をしている彼に「ごめんなさい」それだけ、それしか言えなかった。

「……わかって頂ければいいのです。では早く降りてきてください」
「でも、いや」
「……お嬢様、いい加減……」
「ねぇツカサ」

いよいよ嫌気がさしたように白い目をしている彼に問いかける。胸の中に閉じ込めていた、隠していた感情がどろどろとあふれ出して止まらない。こんなこと、彼に言うなんてお門違い。そんなことだって頭の中では理解している。理解しているけど不満はもう止められなかった。

「私だって、遊びたいよ」

きっと今の私の顔は、見るに堪えない情けないものなんだろう。どうしてもわからないのだ。こんな広い庭があるのに。こんな広い場所は私のものでもあるのに。なぜ、そこで自由に走り回ることは許されないのだろう。

「まるで囚人みたい。ねえ、外にいたい。そう願うことは我儘なの?私は我儘?」

小さい頃からそうだった、みんなは私が羨ましいという。高貴な親の元誕生したことが幸運だという。なのになぜ、外で遊ぶ子供が、みすぼらしい格好で親と手をつなぐ子供が、こんなにも羨ましいのだろう。どうして私は、こんなに悲しいのだろう。なんで彼にこんなことを言うのか、頭の端で考えてみる。きっと私は彼に否定してほしかったのだ。こんなの違うって。

ねぇ、貴方は騎士なんでしょう?私を助けてくれる騎士なんでしょう?ならばなぜ、そうして黙っているの?問うてみても、彼の口から返答が返ってくることはなかった。

「そう……よね」

どうやら、自分が思っている以上にそんな彼の反応が堪えたらしい。締め付けられるように胸が苦しくなる。息が上手く出来ない程に、喉元がキュッとして苦しい。

「ツカサも、同じなんだね」

所詮、騎士なんて。私の立場という足枷を守る人であって。私が籠から逃げてしまわないようにと見張る番人であって。決して私を助けてくれる人なんかじゃないんだ。諦めにも似た感情と寂しさがこみ上げる。

「お嬢様……」
「もう消えてよ」

私を見上げるその整った顔も藤色の瞳もなにもかも、もう見たくない。

「お嬢様、私は……」
「聞きたくない」
「お嬢様、話を」
「もういいから!!どっかいって!」

彼の光沢のある上質なマントがなびいた。下にある困惑した彼を思いっきり睨み付ければ悲しそうに端正な顔が眉を下げていた。

「……かしこまりました」

聞こえてきた声にほっと息をつく。それと同時に増していく寂しさに心が冷たくなっていく。あぁ矛盾している。豪華なスカートの端をぎゅっと握りしめた。彼の言う通り私は我儘だ。彼を困らせてばかり、駄々をこねてばかり。自己嫌悪の念が胸にぐるぐると渦を巻く。

「今から、そちらに参ります」
「そう……え?」

がさり、台詞と同時に葉のこすれる音がする。そこには木の幹にしがみつく彼の姿があって、思わず小さな悲鳴を上げた。騎士の中でも、特にその気品を買われていた彼が、必死に木を登ろうと試みているのだ。そんな光景誰が予想できただろうか。

「な、なにしているの!?」
「お嬢様のっ、ところにむ、向かおうとしているのですっ!!」
「やめなさい、危ないし品のないっ」
「そんなところに、っく……いる貴女に言われたく、ないですね!!」

きっと今までに木なんて登ったことないのだろう。苦しそうに顔を歪めてながら、必死に幹にしがみついている。時折外れる足に肝を冷やした。

「……っツカサ!!」

咄嗟に手を伸ばす。グローブ越しに触れた彼の手はやはり他の騎士よりも小さくて、それでも握り返された手の強さは逞しく、私よりも大きい、男性のものだった。

「っはぁdangerous、死ぬかと思いました……、もう二度とこんなこと御免です」

へたりと座り込んだツカサの隣に腰を下ろし、宙に足を投げる。心臓を落ち着かせるように胸を抑えているツカサ、彼が落ちてしまうのではないか、そんな不安の余韻で、未だに私も心臓がバクバクしていた。ツカサの横顔はげっそりとしていた。そんな様子にクスリと小さく笑いを零す。彼は常時余裕そうに優雅にふるまうばかりだったので、それが新鮮だったのだ。

「だから来なきゃよかったのに」
「本当、毎日こんなところにくるお嬢様の考えは理解しかねます」
「……風気持ちいいでしょ?それにほら」

胸がチクリと痛む。大真面目な彼とこんな私はきっと相容れない存在なんだと痛感しながら、ゆっくり遠くの方を指差した。その先、そこには住宅街が広がっていた。少し高台の緑が広がる広場で、ちょこまか走り回る子供の姿。小さくてそれこそ表情なんて見えはしないが、あの子たちは笑っている、大勢で騒ぐ姿に自然とそんな気がしてくるのだ。

「これが好きなんだ」
「お嬢様はいつもこんな景色を見ていたのですね」

彼は遠くを見ながらゆっくりと口元をほころばせた。確かにこれは癖になります。呟かれた彼の言葉が、何故かとても嬉しくて私も自然と口角を上げた。

「でしょ!?この時間帯はあの子たちがいつもいて……あ、あそこなんか商人が良く来るみたいで頻りに人が集まって、あっちの大きな木の下には恋人がこっそりデー…っ」

思わず言葉を失う。住宅街の方を見つめていた彼が、いつの間にかその優しい笑みを私に向けていることに気が付いたからだ。近距離で交わる藤色の瞳。不意の出来事に胸が高鳴った。

「……つ、ツカサ?」
「ふふ、申し訳ありません。ナマエ様が余りにも嬉しそうに話すので……つい見惚れてしまいました」

そうして彼は口元を抑えて笑う。そのしぐさは、やはり私よりも品があって、美しくて複雑な心情になる。

「幸せですね」
「……幸せ?」
「こうしてナマエ様と肩を並べていること、ナマエ様の笑顔を見れること、ナマエ様の隣にいられること、私はとても幸せです」

風がいたずらに彼の赤い髪を攫って行く。さらさらと揺れる朱色は美しく、そっと耳元に添えられた手は、いつの間にかグローブが外されていて、華奢にも見える指先が露わになっていた。その小さな彼の仕草でさえ、私の胸が早鐘を打ち始める理由には十分すぎるものだった。

「たまには、お嬢様のお望み通り遊んでみるのもいいかもしれませんね」
「え?」
「先ほど申されましたでしょう?私だって遊びたい、と」
「う、うん。確かに言ったけど……」
「今度、こっそりあの住宅街に行ってみましょうか。2人でお城を抜け出して」

彼の突然の爆弾発言に目を見開く。いつもとは反対に私が彼に驚かされている、その事実が可笑しいのか何なのかわからないが、不意にニヤリと口角を上げた彼の表情はどこか悪いもので。

「ツカサ、なに言ってるの?頭打った……」
「お言葉ですが、私だって息抜きだってしたい時もあるんですよ」
「そうだったの……そうか……」

同じ気持ちだったんだ。そう思った瞬間、私の中で彼に対する親近感が芽生えた。相容れない存在などではなかった、それだけでなぜか胸の奥から満たされていくような気がした。少し拗ねたように言った彼の顔は、いつもより幼く見える。

「で、どういたします?」

お嬢様?そうしてツカサは首を傾げて、私の瞳をのぞき込んだ。その意地悪く弧を描いた彼の顔は、やはり悪い顔をしている。