見慣れた街が闇へ染まる頃、辺りは静寂に呑まれていた。そこに響く一つの足音。遠くに照る街灯がぼんやりと見慣れた背中を照らす。暗がりの中橙色を束ねた頭の青年は、月の光の下で怪しく輝いた鋭利な剣を振り上げた。その振り下ろされる先には――

私がいた。





今日は随分と嫌な夢を見た。食器を洗いながらぼんやりと記憶に残る夢見た映像を思い出している。小さな部屋には水の流れる音と食器のこすれる音のみが響いていて、そこでひとつ、大きなため息を零した。

手をひたすら動かしながら、夢の中に出てきた青年の姿を思い浮かべる。あの姿には心当たりがあった。オレンジ色の髪の毛を横に束ねている男性、その条件が合う人物を私は1人しか知らない。彼の名前をそっとつぶやいてみる。

「……レオ」

彼は今頃何しているのだろう。部屋には相変わらず水がシンクで跳ねる音が響いているて、ざわざわと騒ぐ胸に不安がおさまらない。ぬるい水が流れ出る蛇口を締めて、次は部屋の掃除でも始めようかときびすを返す。ところが一歩足を進めた途端

「ナマエー!!遊びに来たぞー!!」

扉が勢いよく開かれた。
バタンと音を立て後ろ手に閉められる扉、噂をすればなんとやら、ということだろうか。先程まで私が思い浮かべていた人物の突然の登場に、驚いて思わず硬直してしまう。それなのにレオは、目を点にして立ち尽くす私には見向きもせず、さも当然といったように家に上がり込んで、中央の机とセットになった椅子に腰を下ろした。机に向かい合わせに設置された2つの椅子、彼はいつも扉に近い方に座るのだ。

「レオ……また来たの?」
「あぁ!またお前が寂しがっているんじゃないかと思ってな!!」
「寂しくない」
「おおー!!クッキーの臭いがする!!」

彼の嗅覚は一体どうなっているのか。思わず頬が引きつった。確かに彼の言う通り、昨日クッキーを作り、袋詰めにしたものが残っている。袋詰めにして恐らく臭いが零れていないであろうものが、だ。

「ナマエのクッキー久しぶりだなー」
「……食べる気なの?」
「んあ?当たり前だろ?」

こてんと不思議そうに首を傾けた彼。当たり前……なのだろうか。彼といると、自分の中の常識が間違っているのではないかと自信が無くなってしまう。

「美味しい保証はないからね?」

水でいい?ため息をつきながらも準備しだす私は、なんだかんだ彼に甘い。シンクに向かうべく背を向けたとき、不意に椅子に座りくつろいでいるはずの彼から妙な視線を感じる。不意によぎるのは夢のこと。反射的に振り返ると、にこにこと緩んだ笑顔の彼と目があった。

「ナマエの作ったものはなんでも美味いからな!!」
「あ、ありがとう」
「はは、俺が保証してるんだ!間違いないぞ!!」

その言葉に自然と頬が緩んでしまう。どうやら杞憂だったようだ。まるで子供のようにウキウキとしているその様子が可愛らしくて、サービスに多めに出してあげようか、と考えながら向き直った耳に慣れない金属音が届いた。

再度今朝見た夢が脳裏を過ぎり、ヒヤリとして勢いよく振り返ると、そこには腰の剣に手をかけた彼がいて。今にも抜かれてしまいそうな剣に、背中に悪寒が走り抜ける。

「……んぁ?どうしたんだ、そんな怖い顔して」
「え、あぁ……いや、なんでもない」

彼の言葉で我に返り慌ててごまかす。私の強張った顔をみて、彼はいつものように「変な奴」と笑いを零した。

なんだ……私の気にし過ぎか。

再度踵を返し透明な水をくむべく蛇口へと足を進める。どうにも胸に渦巻くもやもやを払拭できずに、夢のことばかりが頭から離れない。まさか、そんなわけない。剣を見つめた彼の目が殺気を帯びていたなんて。再度レオは自身の右手を剣にかけ細められた目からは鋭い殺気が込められていた。それも知らない私は、勘違いだと自分に言い聞かせて足早にクッキーを取り出しに向かった。





「おぉお!!やっぱり美味いな!!」
「そうかな?」
「うん!!ナマエは天才だな!!」

そうしてモグモグとクッキーを頬張る彼は、なんだか犬のようで可愛らしい。その姿を反対側の椅子に腰かけながら眺める。そんなにがっついて喉に詰まらせでもしなければいいのだが。もうとっくにキャパオーバーしていそうなリスのように膨らんだ頬。それでも口にクッキーを運ぶ速度は変わらないので少し心配になり、水を飲むように促すべくコップを前にスライドさせれば、それに素直に従うレオはコップに手をかけた。

「ナマエはいい奥さんになるんだろうな」

にっこりと笑いながら彼が言う。突然の思いがけない台詞に言葉が詰まった。

「どうなんだろ……」
「俺は幸せ者だな」
「え?今なんて……」
「あ!ナマエ!水がなくなった!!」
「あ、はい」

聞き返そうとした私の言葉を彼の言葉が遮る。なんと言ったのか疑問に思いつつも、コップを差し出す彼からそれを受け取り、まあいいかと立ち上がる。さっきから私の扱いがいつもより荒い気がする。私を離そうとしているというか、私に背中を向けさせるというか……。

「ナマエーどうした?」

急にレオの声が遠くなったみたいだった。まるで私にスキをつくらせようとしているみたいだ。嫌な想像をしてしまい思わず足を止める。まさか、そんなわけ。にわかには信じがたいことなのだが、今日の朝見た夢、それが妄想を現実的な想像に変えていた。

「ねぇ」
「ん?」

振り返ると相変わらず夢中にクッキーを頬張っている彼がいる。ごくん、効果音が付きそうなほどはっきりと喉を上下させた彼がこちらを向いて、翡翠色の瞳と視線がかち合い心臓が一瞬不規則に動く。

「今日は何しに来たの?」

一瞬、ほんの一瞬の出来事だった。翡翠色の瞳が大きく揺らぐ。にこにこしていつも飄々としている彼。しかし一見見えにくい心情の変化が分かるくらいには彼と時間を共にしてきた。そのおかげなのか、一瞬の彼が動揺している証拠を私は見逃さなかった。私に隠し事している、察してしまった。

「れ……レオ?」
「……」
「いつも通り巡回中抜け出してきたんでしょ?サボってるだけでしょ?」

そうだと言ってよ、ねぇ。縋るような気持ちで声をかけるも、レオの唇は僅かに開いて震えるで、肝心な言葉を紡いでくれない。それがひどくもどかしくて、とてつもなく怖かった。

「……っレオ!!」

気が付いたら大声をあげていた。何か言いたそうにしながらも、その口を開いてくれないレオにしびれが切れてしまったのだ。気まずそうに目を逸らされて、先程の妄想が増々現実味を帯び始める。

「答えてよ、何しに来たの?」
「それは……」
「……すの?」

心臓が飛び出てしまうんじゃないかってぐらい荒々しいリズムを刻んでいる。恐る恐る絞り出した言葉は、予想以上にか細いもので、自分でも呆れてしまう程だった。震えだしそうな足を落ち着かせようとスカートの裾をぎゅっと握る。

「ナマエ、今なんて……」
「私を……殺すの?」
「っはぁ!!?んなわけないだろ!!」

今度はレオが大声を出す番だった。ガタンと音を立てて立ち上がり、思わずびくりと肩が跳ねる。私の方に今まで見たことない怖い形相で向かってくる彼、瞬間頭を過ぎるのは彼が剣を振り上げる姿で。

「っ来ないで!!」

自分でも驚くぐらい強い拒絶の言葉にレオは目を丸くして足を止めた。思わず話してしまった手から落下した透明のコップがパリンと無機質な音を立てて砕け散る。床に散らばっているであろう鋭利なガラスに目を向けないのは、レオへの不信感の現れなのだ。今度こそ震え始めてしまった手のひらを守るように手の平を抱いている私に、レオの顔が苦痛に歪み、いつもは人懐っこく笑うはずのつり目が悲し気に伏せられる。そこに僅かな矛盾を覚えた。

「……レオ?」

彼の瞳には一ミリの殺意も感じられなかったのだ。悔しそうに拳を握りしめているレオにそっと歩み寄ろうと足を踏みだす。

「ごめん、怖がらせるつもりじゃなかった。俺はただお前を――」




その刹那耳を劈く様な女性の叫び声がこだました。

勢いよく開かれた……否、蹴り飛ばされた扉が大きな音を立てる。油断していた私の肩は大きく跳ねて思わず口を手で覆う。家に侵入してきた見慣れない大男の姿に心臓が早鐘を打つ。

「ナマエ下がれ!!!」

キンと高い音を立てて、レオの腰にある剣が抜かれる。戸惑う私を庇うように素早く大男と向き合ったレオ。対立する2人の身長差は明らかなものだった。焦りや動揺が一切ないレオの後姿。冷静な様子はまるで、目前の敵が来るのを待ち構えていたかのようにも見えた。

「な、なにっなんなの!?」
「……お前か?ここ最近、町から若い娘を拐っていたのは」

くくく……と不気味に笑っている男。膨れ上がっているように大きい腕の筋肉にゾッとした。どう見たって男の身長も体格も、レオよりはるかに大きい。そんな大男の手に引きずられている重そうな鈍器。人間があんなものに殴られようものならきっと骨折どころじゃすまない。

「レオ!!っ逃げて……やめて!!」
「なに言ってんだ!!」
「レっ、レオが……!!」

死んじゃう、これ以上はもう声が出なかった。頭の中が恐怖や不安に支配されている。向き合っている彼らは、戦闘をはじめようとしていて、鋭い目をして互いににらみ合っている。逃がさなくちゃ、逃げなくちゃ、それだけは明白にわかる。それなのに、一向に動く気配のないレオを前に、私は服の裾を強く握りしめることしか出来ない。

「……くっく、確かにあんたは弱そうだ、俺には勝てない。……だが男のお前に用はねぇ。女置いてくんなら逃がしてやってもいいぜ」

そう言ってまた低い声で不気味に笑う男、その言葉に粟肌が立つ。どの道私は助からないのか。

それでも、彼が生きられるのなら。
それでいいと思える。
逃げて。そう彼に向かって言おうと唇を動かした時。

「っふざけんな!!!」

レオの怒声が響いた。地に震わすほどの強い叫びには今まで聞いたこともない、凄まじい怒気が込められていて、私は声を出すことができなかった。レオは怒っているときこんなにも怖いんだ。知らなかった。彼はいつも優しい姿しか私に見せていなかったのだ。ようやく気が付く、彼は今まで私に優しさばかりを向けていてくれたんだと。

「俺はコイツを守るためにココに来たんだ!!」

なのに私は。相変わらず背中しか見えないが、レオの声は真剣そのもので。ようやく彼の行動全てに合点がいく。私の家に来た理由も、感じた殺気も剣を見ていた理由も、大男の来た時の冷静な対応も何もかも。私はなんて勘違いをしてしまっていたのだろう。にやりと大男の口がいやらしく弧を描く。

「ナマエ目を塞げ!!」

それとレオが床を蹴るのは同時だった。思わず言葉通り両手で覆いしゃがみこむ。今までに聞いたことのない生々しい血の飛び散る音。ゴロンと重い音を立てて落ちたものが何かわからなくてこれが夢だったらいいのに、強くそう思った。

コツコツ……静かに足音が近づいてくる。それが最早どちらの足音かもわからなくて目が開けない。しかし戦闘が終わった、それだけは確かで身体から力が抜けてへたりと膝をつく。恐怖一色に染まってしまった思考が、目を覆う両手を動かさせてくれない。





「ナマエ……?」

そっと腫物に触れるように何かが私の手に触れる。ゆっくりとした優しい動作で両手が除けられる。まぎれもないレオの声を聞いた瞬間、胸に溢れた安堵に思わず涙が溢れそうになった。涙目になりつつゆっくり顔を上げると、そこには心配そうに細められたレオの目があった。

「……ごめんな」

怖かっただろ、そんな言葉が続くかのように薄く唇が開いていて、繊細な手つきで、堪えきれず零れ落ちてしまった涙がそっと拭われる。

「勝った……の……?」
「あぁ、でも部屋汚れちゃって……あ!!見ない方がいい!!」

瞬間視界が塞がれる。瞼を覆っている暖かい手のひらがレオの手だと理解するのにそう時間はかからなかった。心臓が未だにドクドクと早鐘を打っていて、そっとレオのぬくもりを求めてその手に触れる。

「外で奴らの仲間と騎士団が闘ってると思うから、暫くはここにいるぞ」
「レオも行くの?」
「ハハッ、今俺を必要としてるのはアイツ等じゃなくてお前だろ?」

まるで私の心の中を見透かしているみたいだ。図星の台詞にふと笑いが零れた。行かないで、その言葉はいらないらしい。遠くの方で金属がぶつかり合うような音が聞こえる。未だに脈打つ速度は早いが、それでも近くにレオがいるせいか気持ちはとても落ち着いている。

「元々、俺はお前を守りに来ただけだしな」
「ごめんなさい………」
「そうだぞ、俺が来なかったらお前今頃連れ去られてたんだぞ」

その言葉にそのもしもを想像すると全身から血の気が引いていく。想像しただけでも身体が震えてしまいそうだ。ふと身体を大きな何かがそっと包み込む。いつも可愛らしいと思って見つめていた彼のたくましい腕で何も見なくていいようにと閉じ込める腕の中。

「……まぁそんなこと俺が一生させないけどな」
「レオ……」
「ずっと俺が守ってやるから安心していいぞ」

ああ、なんて心地が良いんだろう。グローブ越しでも伝わる彼の温もりに、これが夢ではなく現実なのだと教えられる。頬が緩んでいることはきっと彼には見えていないのだろうけど。彼の言葉に、さっきから心臓が今度は別の意味で音を立ててかなわない。

「ねぇレオ」
「ん?」
「ありがとう、守ってくれて」

すごく格好良かったよ。彼の腕の中、花がくっつくような距離で真っすぐと彼の瞳を見つめて言えば、彼はみるみると頬を赤くしていった。紅潮しながらも八重歯を出してはにかんだその愛しい彼の姿は、きっと私しか知らないのだろう。