
暗闇染まる窓の向こうで、緑色の木の葉がざわざわと揺れていた。それはまるで真っ暗な夜の冷えた風に震えるように見えて、思わずそっと自らの肌を摩った。透明なガラスの向こうの闇が、まるで世界全てを呑み込んでしまうような気がして、怖いのに、恐ろしいはずなのに。何故か窓から目を反らせない。
「……情けない」
つい自嘲気味な笑いが零れた。そんなこと有り得るはずないのに、一体私は何に怯えているというのだろうか。本当に馬鹿馬鹿しい。
「ナマエ様、いらっしゃいますか?」
「えぇ」
「やはり此方にいらしたのですね、探したのですよ」
「……そう、入ったら」
ガチャリ、と音を立てて部屋のドアが開く。「失礼いたします」背筋を正して会釈をして現れた人物に、私は不機嫌をあからさまに眉を寄せ、睨むような視線を向けた。
「声をかける前にノックをしろと命じたの、お忘れ?」
「申し訳ございません。しかし、突然音を立てればお嬢様が驚くと悪いと思いまして」
彼の腰には、いつもさしている剣が見当たらなかった。職務怠慢か、大事な剣も持たずに城の中を歩くなんて不用心だ。呆れて冷めた目をしている私に、彼は口角をあげて妖艶に微笑んだ。慈しみとかよりは、台詞のせいか小馬鹿にしたように見えたその笑みに、私は顔を背ける。
「……そう、ありがとう」
「ふふ、お嬢様のためですから」
「それより、その話し方……やめたら?」
「何故でしょうか」
「私の前で化けたって意味ないでしょう?」
横目に部屋の入り口でたたずむ彼を見ながら声をかければ、彼はくつくつと肩を揺らしてそこに立っていた。そっと口元に伸びた筋肉質でがっしりとした腕が、しなやかな動きをしながら口元へと運ばれる。やっと本性を出したようだ。
「やっぱり、お姫様には敵わないわぁ」
「そんなこと微塵も思ってないくせに」
「あら、ひどいじゃない」
「ひどい?」
「あたしは何時でも、お嬢様に嘘ついたことなんてないわよ」
そうしてふふっと女性らしい吐息を漏らした彼に、私は歪んだ笑みしか向けることができなくてそっと視線を外した。ふっかふかのベッドに腰を沈めて長いドレスをガサツにめくりあげて足を組む。
「そうかしら」
「そうよ〜」
「まぁ……どちらにしろ今日で最後だから」
別にどっちでもいいや。最後まで言う気にはなれなかった台詞は心の中で溶けて消えてゆく。大きな窓をそっと押し開けて、暗闇の中で彷徨う冷たい空気を迎え入れる。肌を刺す凍えた風が、1人用にしては大きすぎる部屋に流れ込んできた。
「で、探してたって何か用なの」
「いえ、ただ会いたかっただけよ」
「そう……」
夜、というのはどうも苦手だ。静かすぎて気味が悪いし、暗くて恐ろしい。眠ってしまえば、起きた頃には朝になっているのだ、とっとと寝てしまえば楽になれるのに、目を閉じることさえ、今は怖く思えてしまうのだ。
「見回りの途中に抜け出してきたの?」
「やだわ、お嬢様の安全を確認するのだって、立派な見回りよ」
「ふふ、確かにそうかもしれない」
「……やっと笑ったわね」
口許を手で覆って小さく笑っていると、不意にかけられたその言葉に、びくりと肩を跳ねさせてアラシを見る。慈しみを込めた暖かい眼差しでこちらを見ているアラシに、勢いよく顔をそむけた。なのに彼は、彼はまたふふ、と声を漏らす。
「心配してたのよ、貴女が落ち込んでるんじゃないかって」
「……うん」
それはなんとなくわかっていた。私が泣けば真っ先に飛んでくる。私が寂しいと思う時には誰よりも先に気づいてそばにいる。私が助けてほしいって思った時に唯一手を差し伸べてくれる。いつだって、私を助けてくれたのは、私を守ってくれていたのはアラシだった。今日だって、わかっていた。貴方が私の元に駆けつけるって。でもそれが
「ねぇ、アラシ……」
「どうしたの?」
「私、やっぱりわからないんだ」
どうしようもなく怖かった。今日アラシに会ってしまえば、私はきっと貴方から離れる決意もできないまま、さようならをしなくてはいけなくなると思ったから。透明で冷たい窓に、自身の傷一つない手のひらをそっと添えた。
「この国の姫として生まれてきた私の役目が、隣国に嫁いで両国を繋ぐことだというのなら。この判断は間違っていないと思う。お父様たちが喜ぶのなら、それで国が平和のままなら、私は嬉しい……。それに、それが一国の公女として生まれた私の生きる意味でもあると思うから」
ざわざわと怪しい音を立てて窓の向こうにある大木が揺れている。半ば自分を諭すためでもある台詞を、アラシは黙って話を聞いてくれる。背後の彼がどんな顔をしているのか、私には見えないけれど。時折聞こえる相槌はとても優しい音だった。
「でも……どこか腑に落ちないの。これで良かったのか、わからなくなってしまうの」
「……貴女は、行きたくないの?」
「……どうなのかしら」
落ち着いた彼の声が耳に入るたび、切なくなって胸が締め付けられる。もうこの声を聴くことはない、この国に残る彼とはもう会えない、そう考えると息苦しくて堪らない。
この国を去って両国をつなぐ橋となりこの国を守ることが私の役目だとするのなら、この国に残り、この国を闘い守ることが彼の役目。お互いに違う形でこれからもこの国を守り続けていく。寂しいことなんてない。私たちは離れていても同じものを共に守り続けるのだから。それでいいのだ。それでいいはずなのに。
「アタシはね、ナマエ」
「……」
幼い頃、まだ身分もなにも知らずに2人で笑いあいながら遊んでいた頃の懐かしい呼び方に、引かれるように振り返える。振り返る先、そこにいるのはあの時より背も伸びて、男らしくなった彼がいるだけ。
「貴女に幸せになってほしいのよ」
「しあわせ?」
「そう、笑って過ごしてほしい、ずっと……」
ゆっくり歩み寄ってきた彼が、後ろの透明なガラスに添えていた私の手の上に、硬い手のひらを重ねる。私の手のひらをすっぽりと覆い隠した大きな手のひらは、元来色白で美しい手だったはずなのに。今ではところどころに赤い線が走り傷だらけ。それはとても痛々しい。
「……そっか」
「そうよ……だから――」
「ごめんなさい。私眠たくなっちゃった」
彼の言葉を食うようにして、ベッドにだらしなく転がり込む。その先を聞いてしまったら、きっと私は泣いてしまう。深くに押し込めた感情が出てきてしまわないように、更に奥へと閉じ込めるように目を閉ざす。
「アラシも、そろそろ見張りの仕事に戻って」
「……かしこまりました、お嬢様」
ガチャンと扉が閉まる音を、閉じた瞼の奥で聞き届けた。その瞬間、堪えていたものが決壊する。抑えていた感情が涙と共にあふれ出して抑えられない。嗚咽を零しながら、のろのろとした足取りで彼の去っていった扉へと歩み寄る。閉ざされている扉。アラシに会いたい。そばにいてほしい。そう願えども、それが叶うことなどきっとない。
「……アラシっ」
ぼろぼろと涙が零れる。扉へとそっと触れるが、そこが開かれることは二度となかった。
「……本当はわかってるの……自分の気持ちぐらい……」
わかってた、離れる決意だなんてどうしたってできやしない。わかっていた、私はアラシが大好きだということも。気づいていた、アラシは私を何よりも大事にしてくれているということも。気づいてしまった、私たちが両思いであるということも。でも知ってしまったのだ、私たちがここにいる意味を。決して結ばれてはいけないのだと、そんなこと、ずっと前から知っていた。
「ねぇ、戻りたいよ。お互いが宝石も剣も持っていなかった子供の頃に。何も知らないあの頃に」
貴方の隣で笑って過ごせるあの頃に。私が吐き出すか細い声が、嗚咽と一緒に部屋の冷たい空気へと溶けていく。泣いている私の元にアラシが来ないことは初めてだった。冷風が髪を攫って、ああ、そういえば窓開けたままだったなと振り返る。開いた窓から吹き込む風に、どうか私が彼を愛する気持ちだけでもアラシに届けてくれないかな、なんて馬鹿な願いを投げてみた。
そんなこと、有り得るわけないのに。
*
誰もが眠りにつく時刻。私はまだ眠りにつけないでいた。相変わらず、あれから窓は開けっ放しで。夜風に揺られる上質なカーテンがふわふわと波打つのを、ぼんやりとみつめていた。
その時だった。
夢を見ているのだと思った。なんで。全開に開かれた窓に突如現れたのは、間違いない、アラシだ。大きな樹から飛び移るようにして現れた彼、元々身のこなしは軽いのは知っていたが、何がなんで彼がそんなところにいるのだろう。思考停止して泣くことすらも忘れて呆然と彼を見つめる。
「一緒に逃げて」
呟かれた言葉に、心臓が跳ねる。ドドドッと早鐘を打ち始める心臓を抑える。果たしてこれは現実なのだろうか。予想だにしていない非現実的な光景に、いよいよめまいがしてしまいそうだ。早まる心臓を抑えた手が震えそうになる。逃げちゃいけない、そんなこと許されない、彼の差し出す手を取りたい気持ちにブレーキがかかる。
「そんなことしたら私は…私は……」
「ナマエ……」
「生きる意味が無くなってしまう、私の存在価値は隣国に行くことで初めて生まれるの……そしてやっと何かを守れるの……ここで逃げたら――」
「それは、違うわ」
いつもよりトーンの落ちた低い声にぎくっと肩が跳ねる。ふと窓の向こうで揺れる木の葉の合間から明るい月が見えた。桔梗色の瞳が真っすぐこちらを見据えている。どうしてだろう、逃げるだなんて彼にとっても苦しいはずなのに、アラシの瞳は一切揺るぐことはない。
「ナマエが隣国に行かないから存在価値がない、そんなことは言わない、いや、言わせない」
「でも……」
「ねえ聞いて……?」
グローブを噛んで、そこから腕を引き抜いたアラシ。部屋の隅っこで怯えるように丸まっている私に、ゆっくりと近づいてくる彼を、ひたすらにじっと見つめることしかできなかった。
「アタシは貴女を守るために今までなんだってしてきたわ。この綺麗な瞳が純粋に笑い続けてくれるように、この小さな可愛い手が怪我されることのないように……」
「アラシ……ごめんなさい……」
そっと手を取られる。腫物を扱うように絨毯に投げられていた手を持ち上げて、大事そうに、慈しむ様にして撫でているアラシの瞳は、あの頃と変わらない優しいままだ。
「違うの、謝ってほしいわけじゃないの。それだけ貴女を大事に思っていることを知ってほしかったのよ」
「……っ」
「優しいしハンサムだし、貴方を幸せにする力はあの国の王子さまにはあると思うわ。だから貴女がいいならアタシもそれでいいと思ってたの。でもね……」
そっと顎を持ち上げられる。涙でぐちゃぐちゃな顔をそらそうとするが珍しく力のこもったアラシの手がそれを許さない。未だに嗚咽を零す情けない顔を、ひどく悲し気なアラシが目をそらすことなく見ている。
「泣く貴女を送り出すことなんて出来ない」
「でもアラシ、それでみんなが幸せになるんだよ?」
「皆なんてどうでもいいのよ、アタシはナマエが笑っていればそれでいい、そうじゃなきゃ嫌なの」
夜風が部屋に吹き込んで、彼の髪を揺らした。揺れる金色はまるで後ろでに輝く月のようだ。そっと持ち上げられた顎に、そっとアラシの顔が近くなってゆく。押しのけるのが正解なのか、受け入れるのが正解なのか、最早鈍った思考ではわからないが。
「私のために生きてほしいのよ、ナマエ」
「それってどういう……」
「ナマエを愛した男のために、生きてはくれないかしら」
静寂の夜の風はどうも冷たい。分からなかった、どうすればいいか。でもはっきりとわかることがあって、私はアラシのことが好きで、私もアラシと同じようにアラシの隣で笑っていたくて、世界で一番アラシを幸せにしたいのだ。
「アラシ……貴方は私と一緒で、幸せになりますか?」
まるで夢を見ているようだ。唇が触れ合うまで残りわずか。吐息のかかるような距離にも拘らず私たちは互いの瞳から目をそらさない。触れ合う数センチのところで質問を投げれば、彼は「もちろん」と迷わず言った。その瞳は相変わらず真っ直ぐで。
「禁断の恋をしてしまった愚かな騎士に、攫わせてちょうだい」
現実味を帯びないこれは、本当に夢なのだろうか。彼と初めて口づけをする。夢か?幻なのか?この選択であっているのか?疑問を宛もなく浮かべては見るが、当然答えなんて帰ってこない。それでも、ただひとつはっきり本当だとわかること。瞳から零れた雫は、どうしようもなく暖かかった、ただそれだけだった。
*
「ナマエ、今、幸せ?」
その問いに小さく笑いを漏らした。こんな狭い家は2人じゃ少し窮屈で。整った顔に、不似合いに泥をつけているアラシは、全然綺麗じゃなくてかっこ悪い。それでも心の中は驚くくらい清々しいのだ。
彼の頬を伝う汗ごと泥を、自身の親指で拭う。あかぎれのある私の手だって、痛々しいものなのに。
「すっごく、幸せです」
「……そっか」
アタシも幸せ。アラシは満面の笑みを浮かべていた。剣で戦う騎士の彼はもういないのだけれど、真っ先に私を助けてくれる私の騎士は相変わらずアラシだった。夢のような出来事の延長線にある今。この幸せは、どうか現実でありますようにと、澄んだ青空に願いを投げた。
