02

ジェイドは面白くなかった。せっかく二人きりだというのにトレイはどこか上の空で、ジェイドが淹れた紅茶を無言で飲んでいる。じーっとジェイドが見つめていても、その視線にトレイが気づくことはなかった。

「トレイさん」

 名前を呼ぶとようやくトレイはジェイドと視線を合わせる。ジェイドはにっこりと笑ってみせた。

「お疲れのご様子ですが、今日はお開きにいたしましょうか?」
「あ、ああ。悪い。なんでもないんだ」

 真夜中の植物園だからかいつもよりトレイの顔色は悪く見える。副寮長の仕事が忙しいのだろうか。しかし副寮長会議があったわけでもなければ、ハーツラビュルで騒ぎが起きた話も聞いていない。来週末のなんでもない日のパーティーの準備は滞りなく進んでいるようだし、サイエンス部が特に忙しいということもないはずだった。ジェイドは自分が調べた事柄の中にトレイが疲れる要素が見あたらず困惑する。

「何かあったんですか?」
「前にも話した夢をまだ見るんだよ。だから寝不足で時々ぼんやりするんだよな……本当に悪い」

 ぷくっと拗ねたように頬を膨らませてみれば、トレイは笑いながら両腕を伸ばしジェイドの頬を摘まんだ。それから揉むように手で頬を押され、ジェイドの口からぷすっと空気が漏れる。それがなんだか可笑しくてジェイドとトレイは声を出して笑った。

「そんなにかわいいことするな」
「僕は怒っているんですよ」
「そんな顔で言われても説得力ないぞ」

 頬を揉まれ続けながらジェイドは眉を吊り上げたが、トレイに笑い飛ばされるだけだった。そのことにムッとしてジェイドもトレイの頬に手を伸ばす。

「ズルいです。僕にも触らせてください」
「俺の頬を触っても面白くないだろ」
「そんなことありません」

 ジェイドは両手でトレイの左右それぞれの頬を摘まんだ。それほど柔らかくはない。触っていて気持ちいいかと聞かれればそうでもない。けれどトレイに触れていることに満足したジェイドはふふっと小さく笑った。
 お互いに頬を触り合い、気が済んだところで残っていた紅茶を飲み干し、いつもと同じようにティーセットを片付けた。毎回お茶会の度にジェイドがラウンジから持ち出している物だ。
 ジェイドはティーセットの入った籠を左手で持った。それから植物園から鏡舎までの道のりをトレイと反対側の手を繋いで歩く。真夜中のお茶会の時だけ出来るちょっとした贅沢のようでジェイドはこの時間が特に好きだった。


・・・


 植物園でトレイとお茶会をして以来、今回の週末は珍しくトレイに一度も会わないだけでなく、メールでのやり取りすらなかった。ジェイドはラウンジの仕事で忙しく、ハーツラビュルも次の週末になんでない日のパーティーがあるため忙しいのだろう。仕方がないとは思いつつ、なんとなく寂しいような気持ちでジェイドは寮の自室のドアを開ける。

「ジェイドお帰り〜」

 そこには既にシャワーを終えたのか髪から水を滴らせているフロイドがいた。のんびりした声でジェイドを出迎えたフロイドは半裸のままベッドに腰かける。

「ただいま戻りました。フロイド、頭を拭かないと風邪をひいてしまいますよ」
「めんどくせ〜」
「仕方ないですね」

 ジェイドは寮服の上着を脱ぎ、ハンガーにかけてからフロイドの首にかかっていたタオルで髪の毛を拭いてやった。わしゃわしゃとかき混ぜるようにするとくすぐったいのかフロイドが笑う。ジェイドが頭を拭き終わると、フロイド
はそこらへんにあったTシャツを着てベッドに仰向けになった。ジェイドも自分のベッドに腰を下ろす。

「今日はたしか部活動の日でしたね」
「そー。でも飽きたから途中で抜けた」
「ふふふ、そうでしたか」
「ねえ、ジェイド。腹へったんだけど」
「おや。でしたらまだラウンジにいるアズールにたかりにでも行きますか?」

 アズールはそれはそれは嫌な顔をするだろうと想像するだけで笑えた。おそらく料理を振る舞うことはしないだろうがキッチンの使用くらいは許可してもらえるはずだ。

「えー、アズールのことだから働けって言われそう」
「確かにそうですね」
「せっかくシフト入ってねーのにヤダ」
「でしたら購買部にお菓子でも買いに行きますか?」
「いいじゃん」

 その言葉と共にフロイドはベッドから降りると、急かすようにジェイドの腕を引いた。ジェイドは抵抗することもなく腕を引かれるままフロイドについていく。

「購買部に行くのなんか久々〜」
「最近は賄いばかりでしたからね」
「キノコ出なかっただけましだけど」
「おや、キノコ食べますか?育ててるキノコがそろそろ……」
「絶対やめて」

 二人でじゃれ合いながら購買部に入ると、サムが笑顔で迎え入れてくれた。閉店時間ギリギリでもサムが客を嫌がることはない。いつも同じ声量、いつも同じ笑顔で「何をお求め?」と聞いてくる。
 フロイドはスナックが並ぶ棚であれでもない、これでもないと吟味している。ジェイドはそんな兄弟を微笑ましく思いながら、視線を雑貨の並ぶ棚へ向けるとぽつんとひとつだけ白い二枚貝が置いてあった。商品にしては値札もなく、ひとつだけ棚に置かれているというもの不自然だ。

「サムさん、こちらの貝殻は……?」

 好奇心からその貝殻を手に取りサムへ見せると、サムはすっと顔から笑顔を消し真剣な表情でジェイドの右手の掌に置かれている貝殻を凝視した。一分程じっくりと貝殻を見ていたサムは納得したようにうんうん頷き、ジェイドへ向き直るとにっこりと笑う。

「それは小鬼ちゃんにあげるよ」
「え?」
「肌身離さず持っているといい」

 サムの目が笑っていないことに不気味さを感じつつもジェイドがどうしてなのか問うために口を開きかける。それとほぼ同時にスナックを吟味していたフロイドがカウンターに両手一杯のスナックをどさどさと置いた。はっとしてサムを見れば、既にいつもと同じ笑顔でフロイドと会話している。

「ジェイドそれなに?」
「これですか?サムさんからいただきました」

 唐突にフロイドがジェイドの持つ貝殻を指差す。ジェイドがそう言えば、フロイドはむすりと不満げな顔でサムに向き直った。

「えー、ウミウマくんオレには?」
「それじゃあ君にはこれを」

 サムは笑いながらフロイドへ棒つきキャンディーを差し出す。フロイドはそれに満足したのか受け取ったキャンディーを早速口の中へ放り込んだ。ジェイドは貝殻をとりあえずスラックスのポケットに入れ、スナックの入った紙袋を持ち上げる。もうひとつの紙袋をフロイドが持ち、来たときと同じようにじゃれ合いながら寮へ戻った。

「またね、小鬼ちゃん」


・・・


 ざざん、と波が浜辺へ打ち付けられる音にジェイドは目を開いた。満月が空に浮かぶ、夜の浜辺にジェイドは立っている。辺りを見回すとすぐ近くに小さな村があった。月の位置からして深夜だからか村の家に明かりはほとんどなく、静かに闇が辺りを支配している。
 夢だろうとジェイドは思った。今までに何度も夢は見たがこんなに鮮明な夢は初めてかもしれない。せっかくだから村を見て回ろうとジェイドが足を踏み出すと、後ろから久しぶりに聞く人魚の言葉で呼び止められた。

「どなたですか?」

 ジェイドは後ろにある海を振り返ると、目を開けたときは誰もいなかったはずの波打ち際に悲しげな顔の女の人魚が佇んでいた。人魚はジェイドに呼び掛けながら手招きをする。
 それは人間が人魚と聞いてすぐに想像するような人魚だった。長く美しいブロンドの髪に、上半身は人間と同じ形をし、さらに肌は白くきめ細かい。腰から下が魚のように青く輝く鱗に覆われている。雌の人魚はその姿にふさわしい可愛らしい声で再びジェイドを呼んだ。

「どうかいたしましたか?」

 人魚は「これを」と言って右手を差し出す。ジェイドは何が出てくるかと少し胸を高鳴らせながら右手を出した。
 そっとジェイドに渡されたのは白い二枚貝の貝殻だった。どこかで見た気がするそれは月の光に照らされていっそう美しく見える。

「どうかあなたが持っていて」

 懇願するような人魚の言葉を最後に、ジェイドは目を覚ました。鳴り響いているアラームを止め、体を起こすと右手に何かを握っていることに気がつく。手を開いてみれば、白い貝殻が握られていた。
 それは昨日、購買部でサムにもらったものと同じ貝殻だった。しかし購買部から部屋に戻ってすぐに机の上に置いたはずだ。それに貝殻を握って寝ることなどしない。寝惚けて机の上の貝殻を握り、またベッドへ戻ったのか?それとも本当に夢の中で人魚から渡されたのかもしれない。ジェイドは不思議な夢と貝殻が嬉しくて朝からにんまりと笑った。

「朝から何笑ってんの……こわ……」

 珍しく時間通りに起きたフロイドに寝起きの掠れた声でそんなことを言われてもジェイドは笑うのを止められなかった。

「聞いてくださいフロイド。面白い夢を見たんです」
「え、なに?キノコとか?やめて話さなくていいから」
「キノコではありませんよ」
「それでもやめて」

 悲しいですねと泣き真似をしてみてもフロイドには通じない。顔面に枕が飛んできて軽く避けると盛大に舌打ちをされた。ジェイドの片割れはまだ眠くて機嫌が悪いらしい。授業をサボると言い出す前に準備させなければとジェイドはベッドから抜け出した。


・・・


 休みが開けた今日こそはどこかでトレイに会えるだろうと思っていたが予想は外れどこにいてもトレイを見かけることはなかった。昼食を終えた後にでも学園内をしらみ潰しに見ていくしかないと、食堂でジェイドは山のようなチャーハンを無心で食べる。隣に座っていたフロイドは既に食べ終わり、知人が近くを通る度にちょっかいをかけていた。アズールは次の授業の準備があると言って早々に食事を終えたためここにはいない。

「あ、金魚ちゃんだ」

 フロイドの楽しそうな声にジェイドもチャーハンを咀嚼しながらハーツラビュル寮生が集まるテーブルへ意識を向けた。そこではリドル、ケイト、騒がしいハートとスペードの一年二人とグリムがそれぞれの食事をしながら談笑している。その中にトレイは居らず、なぜかオンボロ寮の監督生の姿も見えなかった。
 ジェイドは残りのチャーハンを大口を開けて口の中へ納め、もぐもぐと口を動かしながらトレーを持って席を立った。トレイがこの場にいないのなら可愛い子ぶる必要もない。同じように席を立ったフロイドが「この前見たハムスターに似てる」と言って笑っていた。
 トレーを返却口に置き、そのままハーツラビュル寮生のテーブルへと向かう。フロイドはジェイドを追い越し、リドルに覆い被さるように抱きついた。ぎゃー!と悲鳴を上げるリドルの後ろを通りすぎ、ジェイドはケイトへ微笑みかける。ケイトはひきつった笑みを浮かべてジェイドを見上げた。

「こんにちはケイトさん」
「……ジェイドくんどうしたの?」
「少しお尋ねしたいことがありまして。今よろしいですか?」
「どんな返事でも聞きたいこと聞くまで逃がさないって感じだよね……」

 ジェイドが笑みを深くすると、一年生たちの怯えた空気が伝わってきた。フロイドにからかわれてリドルが顔を真っ赤にしているからか、ケイトがオクタヴィネル副寮長に詰め寄られているからか、それともその両方か。普段だったら面白い状況だが、トレイがいないとなるとどこかつまらない。

「トレイさんがどこにいるかご存じですか?」
「あ〜……そういうことね……トレイくんはたぶん図書館だよ」
「図書館……」
「調べたいことがあるんだって。たぶん監督生ちゃんも一緒なんじゃない?」

 ジェイドがチラリと一年生たちを見ればコクコクと大きく頷いている。隠しているとはいえ恋人とは会わないのに、後輩のために時間を割くのかとジェイドは腹の底が冷えていくような感じがした。
 
「ジェイド!フロイドを止めろ!」
「おやおや」
「それに君がトレイになんの用だい」

 フロイドと攻防を繰り広げながらリドルがジェイドを下から睨み付けた。ジェイドは綺麗な笑みを作ってどうしたものかと考える。恋人だからと暴露してしまってもいいが、ここで大きな騒ぎになるのは面倒だと思った。

「二人とも副寮長だし、次の会議のこととかじゃない?ね、ジェイドくん」

 ケイトからの思わぬ助け船にジェイドは微笑みを崩しはしなかったが内心少し驚く。トレイとの関係を知る数少ない人の一人だが協力的だとは知らなかった。だが今はありがたく話に合わせることにしようとジェイドは「ええ、そうです」と頷いてみせる。

「そういうことですので。では」
「待てジェイド!フロイドを連れて行け!」

 背中に「ジェイド!!」とリドルの叫び声を受けながらもジェイドは図書館に向かって歩き出した。長い両足を存分に使えばものの数分で図書館に到着する。昼休みだからか図書館にはそこそこ生徒の姿があったが、ページをめくる擦れた音やたまに聞こえる微かな話し声以外は静かだった。
 ジェイドはさっそく背の高い棚の間の通路をひとつひとつ覗いていく。トレイらしき人物は見当たらない。ならばテーブルかと入り口手前から順に回っていくと、ついにトレイを見つけた。トレイは図書館の奥の方にあるテーブルに本を広げ、それを監督生と共に読んでいるようだった。

「こんにちは」

 小声で二人に挨拶すると本から顔をあげたトレイと監督生は驚いたのか少しだけ目を見開きつつも挨拶を返してきた。テーブルに広げられている本は東の方にある国についてのようだ。海の中ではもちろん、陸でも見たことのない建造物の写真が開かれたページを埋め尽くすように載っている。

「お二人は昼食を済まされたのですか?」
「いいやまだだ。午後の授業の合間にでも何か食べるよ」
「自分もまだです。でもトレイ先輩にクッキーもらったのであとで食べます」

 ジェイドは「そうですか」と相づちを打ちながらテーブルを挟んでトレイの向かい側に座った。トレイと監督生は顔を見合わせる。その様子に無性に腹が立った。けれどジェイドは笑みを顔に張り付けたまま本を指差す。

「こちらの本は?お二人で何を?」
「これ、この世界の極東の国のことが書かれた本なんです」

 にこやかに監督生が口を開いた。監督生はどこか懐かしむような目で木造の家と畑の写真を見つめている。

「自分の故郷に似てるからよくこうやって眺めるんですけど、トレイ先輩も極東の国に興味があるらしくて一緒に見てるんです」

 確認するように監督生がトレイに顔を向けると、トレイは「ああ」と頷いた。極東の国に興味があったとは。ジェイドは初めて知るトレイのことがなんだか不思議だった。知らないことが寂しいような気さえする。

「僕もご一緒しても?」
「お前が極東に興味があるなんて意外だな」
「ふふ、陸の文化は興味深いですからね」
「みんなで見ましょう。興味を持ってもらえて嬉しいです」

 監督生が本のページをめくった。そこには石造りの階段の先に、赤い門のような物が建つ風景の写真が載っている。門は二本の柱の上に横向きの柱が二本、水平に固定されていた。何かの出入口だろうか。

「監督生、これは?」

 トレイが門の写真を指差す。食い入るようなトレイの様子にジェイドは首をかしげた。

「これは鳥居ですね。神様を祀る神社ってとこにあって、神域との境目なんです。こっちにも神社の写真がありますよ」

 監督生の言葉に隣のページへ視線を移すと、木造の建物が写っている。建物の前に大きな鈴と太い縄のような物がぶら下がり、その下には四角い箱が置いてあった。トレイが監督生に「これは?」と先程と同じように問いかける。

「ここで神様に挨拶とお願いをするんですよ。この箱にお金を入れて、鈴をならして。作法もちゃんとあります」
「へえ、どんな作法なんだ?」
「二礼二拍手一礼です」
「にれいにはく……?」
「二回お辞儀をして、二回拍手をして、挨拶とお願いをしてから最後に一回お辞儀をするんです」

 神社という場所について監督生とあれこれ話しているトレイをジェイドはじっくり眺めた。トレイの視線はずっと本に落とされ、目が合うことはない。すうっと胸の辺りが冷たくなる。
 なんとなくこの場から離れたくなってジェイドはもう次の授業の教室へ行ってしまおうかと考えた。しかしタイミングよく昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴る。

「興味深かったよ。ありがとう」
「いえいえ!楽しかったです。こちらこそありがとうございます」

 故郷のことが話せて嬉しかったのか監督生の声は弾んでいた。監督生は満面の笑みを浮かべたまま、さっと本を棚に戻し、ジェイドとトレイにぺこりと頭を下げ、小走りで図書館を出ていく。
 立ち上がったトレイはどこか困ったように笑いながらまだ席に座っているジェイドへ向き直った。生徒が居なくなりしんと静まり返った図書館でジェイドはトレイを見上げる。

「浮気ですか?」
「今のがか?」
「僕には会ってくださらないのに」
「いつでも連絡してくれていいんだぞ?俺の連絡先知ってるよな?」

 まさにトレイの言う通りだった。ジェイドはトレイの連絡先を知っていて、いつでも連絡することが出来る。けれど今まではそんなことせずとも会えていたのにと思うと、ジェイドは自分から連絡する気分にはなれなかった。

「……僕には会ってくださらないんですか」
「そんなことない。今夜、植物園でどうだ?」
「そこでどうして極東の国について熱心なのかお話しいただけるなら」
「……わかったよ。ほらもう行こう。授業に遅刻するぞ」

 ご機嫌とりなのかもしれない。だがトレイと会う約束をしただけでジェイドの冷えた胸には熱が戻ってきた。自分のことながら単純だと心の中でジェイドは笑う。特別な紅茶を用意してもいいかもしれないと考えるほど充足感に満ちた。
 ジェイドは立ち上がるように促してくるトレイに従い席を立った。機嫌の良さを隠しもせずトレイの隣に並び、それぞれの教室へ向かうために歩き出す。午後の授業もラウンジでの仕事も頑張れそうだ。


・・・


 今にもスキップしそうな足取りでジェイドは植物園へと向かう。夜の空気はひんやりと冷たい。寮の就寝時間を過ぎているとなれば出歩く人影はなく、暗闇がより寒々しく感じた。月明かりだけでは心もとない。けれど植物園に灯る小さな明かりにぽっと心が暖かくなる。いつもの奥まった場所にあるテーブルへ向かえば、既にトレイがイスに座っていた。テーブルに置かれたランプの火が小さく揺れている。

「すみません、お待たせいたしました」
「ほんのちょっとだけ俺が早かったな」
「お詫びというわけではありませんが、本日は特別な紅茶を用意してまいりました」
「おお、楽しみだな」

 トレイが目を細めて笑う。ジェイドはその反応にどこか満足感を覚えながら持ってきたかごからティーセットを取り出した。いつも通り手際よく二人分の用意をしていく。ポットからカップへ淡いオレンジ色の紅茶を注げば、ふんわりと薔薇の香りが広がった。

「薔薇の香りだな。いい香りだ」
「はい。最近の僕のお気に入りなんですよ」

 とりわけ珍しい紅茶ではない。高価な紅茶でもない。ただ、たまに寮でのお茶会やパーティーの後に会うトレイの甘いお菓子と薔薇の香りが混ざった匂いに少し似ている。たったそれだけの理由でジェイドはこの薔薇の香りがする紅茶を気に入っていた。

「ストレートでも美味しいですが、ミルクを入れても美味しいですよ」
「じゃあ今回はストレートで飲むよ」
「はい」

 トレイにはまたこの紅茶を飲むつもりがあるのだとジェイドは笑った。カップに口をつけるトレイを見つめていると不意に目が合い「どうした?」と微笑まれる。

「いえ、お口に合うか気になったので」
「苦味もほとんどないしさっぱりしていて美味しいよ。これならどんなお菓子にでもあいそうだな」
「何か作ってくださるんですか?」
「ああ。何が食べたい?」

 「そうですねぇ」とジェイドは頭の中にいくつかのケーキやタルトを思い浮かべた。パイもいいかもしれない。いや、最近はケーキばかりだからクッキーやマカロンでもいい。
 その時、微かに雨の降り始める音がした。植物園へ来たときは雨の気配はなかったが、突然天気が崩れたのかもしれない。しかしジェイドは亜熱帯ゾーンのスプリンクラーが作動したのだと思い至る。

「こんな時間にも雨が降るようになっているんですね」

 ジェイドがトレイに声をかける。トレイはじっとジェイドの後ろを凝視していた。正確にはジェイドの背後にある、亜熱帯ゾーンへ続く道を真顔で、カップを持ったまま微動だにせず見つめている。
 何を見ているのかとジェイドは後ろを振り返った。そこには二人がいるテーブルに置かれたランプでは照らしきれない闇が広がっている。しかし目視できる範囲に、特に何かがあるというわけではなかった。

「トレイさん?」

 ジェイドの呼びかけにもトレイは反応しない。瞬きしているのかすら怪しいほど、睨み付けるように闇を凝視し続けている。そんなトレイへジェイドは手を伸ばし、思い切り鼻を摘まんだ。
 一度びくりと大きく体を揺らしたトレイは真ん丸にした目で何度か瞬きをする。その表情にジェイドは笑い、トレイの鼻から手を離した。同時にスプリンクラーが止まったのか水の音が止む。

「何があるんです?」
「何がって?」
「何かがあるんですよね。話してください。図書館で熱心に見ていた神社というものもそれに関係しているのでしょう?」

 トレイは紅茶を一口飲み、諦めたようにふうと息をついた。

「夢を見るんだ」
「前にも聞きました」
「そうだよな。前は内容を覚えてなかった。でも最近は覚えてるんだ。以前見た夢の内容も思い出した」
「どんな夢ですか?」

 トレイはゆっくりと語り始める。









 浜辺に立つ全身が鱗に覆われたソレから赤い貝殻を受け取ると、トレイの足は自然と近くの村へ向かった。村はどうにか形を保っている木造の家が二軒ほどあるだけで、他は原型を留めていない。ぺちゃんこに潰れた家の残害のようなものもあった。人はいない。犬や猫や鳥、さらには虫などの生き物すら全くいなかった。
 トレイは瓦礫の散らばる村の砂利道を通りすぎ、山へ続く道の入り口へ立った。入り口には真っ赤な鳥居が建てられているが、村とは違い劣化は見られない。つい先程作られたばかりだと言われても信じてしまいそうなほど真新しく、赤い塗装は艶々と光沢を放っていた。
 山の道は緩やかな坂道になっている。当たり前だが舗装はされていない。しかしトレイは迷いなくその山道を登り始めた。ジャリジャリとトレイが土を踏みしめる音だけがする。木々は青々と葉をつけ、草花も道端に生えていたがトレイが歩く山道だけは雑草すら生えていない。ただ茶色い土の道が続いている。

 どれ程歩いたのか、トレイの呼吸が荒くなってしばらくした後、山の麓にあったものと同じ鳥居にたどり着いた。やはり真新しく傷や劣化は見られない。
 トレイはその鳥居をくぐり、水の枯れた手水舎の前を通り、小さな拝殿の前に立つ。拝殿の前に置かれた大人が一人寝そべることのできそうな程大きな石の台の上に、ずっと右手に持っていた赤い貝殻を置いた。台の上にはトレイが持ってきたいくつかの貝殻以外に、多くの白い貝殻と少しの赤い貝殻があった。白い貝殻の方が古いのか置かれている貝殻のほとんどにひびが入っている。
 しばらく石の台を見つめた後に踵を返し、トレイが再び鳥居をくぐると毎回決まって目が覚めた。






 


「その夢を毎日見ているのですか?」
「前は違った。けどここ三日くらいは同じ夢だ」
「だから監督生さんに神社のことを?」
「ああ。最初は極東の文化を自分で調べてたんだ。監督生が詳しくて助かったよ」
「夢の他には?先ほど何を見ていたのですか?」
「夢に出てきたアレだよ」

 どこか投げやりにトレイは答えた。ジェイドはアレが立っていたという亜熱帯ゾーンの方を振り返る。暗闇が広がるばかりで何もない。

「近くに行ってみましょう。何かあるかもしれません」

 ジェイドはそう言いながら立ち上がるとテーブルのランプを右手で掴み、空いている左手をトレイへ差し出した。トレイは呆れた様子でジェイドの手を取り、立ち上がる。
 二人で亜熱帯ゾーンへ入ると、雨を降らせたばかりだからか湿気た空気に包まれた。トレイはキョロキョロと辺りを警戒している。ジェイドはランプを出来るだけ高く掲げ、トレイが辺りを見やすくしてやった。

「ここだ。ここにいた」

 トレイが指差したのは、亜熱帯ゾーンの入り口すぐ近くの背の低い植物が植えられている辺りだ。ジェイドは手に持つランプをそこへ近づける。キラリと水滴ではない何か小さな物が光を反射して光った。

「トレイさん、何かあります」

 寮服のすそが濡れることもかまわずにジェイドは草をかき分け、トレイが指差した場所に屈む。より地面にランプを近づけると人差し指の爪ほどしかない小さな鱗が見えた。その鱗をつまみ上げ、ジェイドはトレイの方へ差し出す。

「鱗です」
「そうだな」
「驚かないのですね。すでに何度か見たことが?」
「お前も驚いてないだろう。その鱗は何度も見たことがあるよ」
「そうですか」

 ジェイドは寮服のポケットに鱗を入れ、トレイの手を取るとテーブルの方へ歩き出した。トレイは手を引かれるまま黙ってジェイドについて歩く。
 テーブルにランプを置き、イスに座ったジェイドはぬるくなった紅茶に口をつけながら、ひとつの考えが頭に浮かんでいた。おそらくトレイもその可能性を考えているに違いない。

「呪いでは?」

 ジェイドと同じようにぬるい紅茶を飲んでいたトレイが静かに顔を上げた。

「そうだろうな」
「呪われるようなことに心当たりがおありで?」
「いやそんなことはない」
「おや。何が恨まれるきっかけになるかなどわかりませんよ?」
「オクタヴィネルは恨まれる理由がたくさんありそうだもんな」

 トレイのその言葉にジェイドはふふっと笑った。だがトレイ本人の言う通り、トレイが呪いをかけられるほど恨まれるような何かがあるとは思えない。普通の友人として、普通の先輩として、普通の副寮長として人と接しているトレイのことを大体の人たちは「親切で優しい」と言う。
 しかし全く恨まれることがないかと言えばわからない。リドル寮長の幼馴染みであり、現副寮長だ。自寮の生徒からのやっかみや他寮の生徒からの的はずれな逆恨みなどがあるかもしれない。けれどそれらもトレイの己の不利益にならぬようたち振る舞う姿からはあまり想像できなかった。

「鱗、よく見せてくれないか」
「はい」

 ジェイドはポケットから鱗を取り出したが、その拍子にポケットから白い貝殻が落ちた。「あっ」という声がジェイドから漏れる。地面に落ちた貝殻を素早く広い、ジェイドは鱗と一緒にトレイへ見せた。

「これは?」
「先日、サムさんから頂きました」
「サムさんから?」
「商品の余りだったのですかね?」

 トレイはおもむろにジェイドの手のひらに置かれた白い貝殻に触れた。しかし弾かれたようにすぐさま手を引く。

「どうしました?」
「……いや……たぶん静電気だと思う。ジェイド、その貝殻を持っててなんともないのか?」
「え?はい。特にこれといって何もありません」

 どうしたのだろうとジェイドが首を傾げている間に、トレイが再び貝殻へ触れた。だが同じように弾かれるようにして手を引っ込める。

「トレイさん?」
「俺はこの貝殻に触れないらしい。触ると痛みが走る。お前本当に触ってて何も感じないのか?」
「その言い方ですと僕が鈍感だと言われている気がしますね」
「悪い」
「いえ、いいんですよ。本当に僕はなんともありません」

 今度は二人で首を捻った。この貝殻に何があると言うのだろう。

「サムさんからもらったんだよな?」
「はい」
「明日の放課後、購買部に行ってみようと思う」
「一緒に行きます。あ、心配はいりません。偶然はちあわせたように装いますので」

 トレイはふはっと小さく吹き出すように笑った。ジェイドはその反応に眉をよせる。

「何を心配するかと思えば、そっちか。得体の知れないアレの心配をしてくれ」
「僕らの関係を秘密にしておこうと言ったのはトレイさんでは?僕はバレてもかまいませんよ」
「じゃあ俺がフロイドに殺される前に止めてくれるか?」
「そうですね……さすがに死なれては困るのでトレイさんが死ぬ直前で止めます」
「もっと早く止めてくれ」

 今度は二人で小さく声を出しながら笑った。カップの中の紅茶はもうない。月の場所もずいぶんと変わり、そこそこの時間が経っていた。

「……帰ろうか」
「……ええ」

 ジェイドとトレイはティーセットを片付け、植物園を出た。暗闇の中、ランプの光だけで足元を照らし鏡舎まで歩く。
 鏡舎での別れ際、ジェイドは名残惜しさをトレイに伝えるようにキスを贈った。