03

ぴちょん、と水の落ちる音がした。

「何か落ちてるんだぞ!」
「グリム!拾い食いはダメだって!」

 音は騒がしい声にかき消される。後ろの方からバタバタと廊下を走る音が響いてきた。

「なんだよグリム。また拾い食いか〜?」
「あんまり監督生を困らせるなよ」

 エースとデュースの声にトレイがなんとなくそちらを見れば、監督生に抱えられたグリムが腕の中で暴れていた。

「何が落ちてたの?あ、これ?」

 暴れるグリムを上手く抑え込みながら監督生は床から何かを拾い上げた。エースとデュースも監督生が指先で摘まむように持つそれを覗き込む。

「……なんだこれ?」
「鱗じゃね?」
「鱗?どうしてこんなところに?」
「いや知らねーし」

 三人の会話にトレイはまたかと思った。トレイの行く先々で鱗が落ちている。これじゃあ近々、学園七不思議入りしてしまう。騒がれるのは勘弁して欲しい。
 最初は水があるところでしか聞こえなかった音が今はどこでも聞こえる。その音がする時には必ずアレがいた。そして鱗を落としていく。恐怖がないと言えば嘘になるが、それと同じくらい面倒くさい気持ちがあった。平穏な日常が崩れるのはごめんだ。トレイの購買部へと向かう足取りが少しだけ早くなる。
 トレイが購買部へ入るといつものように笑うサムと、同じように笑うジェイドに出迎えられた。まさかジェイドが先に来ているとは思わなかったトレイは一瞬呆気に取られる。

「奇遇ですね、トレイさん」

 白々しく笑うジェイドにトレイは苦笑しつつ、サムの立つカウンターへ近づく。カウンター前にいたジェイドは少しだけ横にずれ、トレイへ場所を開けた。
 不思議なことに放課後の購買部にはサムとジェイドとトレイ以外に人はいない。けれどトレイにとって今の状況はこれ以上ないほど好都合だ。

「何をお求め?」

 サムの決まり文句を聞いたトレイはジェイドに目配せをする。ジェイドは制服のポケットから白い貝殻を取り出した。それを見たサムは目を細める。

「サムさん、以前いただいたこの貝殻について知りたいんです」

 ジェイドの手から貝殻を受け取ったサムは人差し指と親指でそれをつまみ上げ、目の前にかざすように持ち上げた。トレイはサムが触っても何も起こらないことに驚き「え?」と声を上げる。

「触れるんですか?」

 トレイの問いにサムはひとつ頷くと、ジェイドへ貝殻を返す。ジェイドは受け取った貝殻を右手でぎゅっと握った。

「この貝殻をフロイドやアズール、監督生さんや監督生さんの近くにいた一年生の方々に持っていただいたのですが何事もありませんでした」
「俺だけがその貝殻を持てない……のか?」
「そのようです。サムさん、何かわかりませんか?」

 何かを考え込むようように顎に手を当てていたサムはトレイへ視線を合わせた。静かだが鋭い視線にトレイはたじろぐ。

「君は嫌われているみたいだね」
「嫌われてる?」

 サムの言葉をトレイは繰り返した。貝殻に嫌われているというのはどういう意味なのか検討もつかない。トレイはジェイドと顔を見合わせた。

「彼女は君を守りたいらしい」
「彼女?」
「その貝殻を君に渡した人じゃないかな?」

 サムに笑いかけられたジェイドがはっと息を飲む。トレイにはわけがわからなかったが、ジェイドには身に覚えがあるようだった。

「でもそっちの君はよくないものに好かれているね」

 今度は顔から笑みを消したサムの言葉に、トレイは脳裏に長い髪から水を滴らせる全身鱗に覆われたアレを思い浮かべた。好かれている?アレに?トレイは思わず眉をひそめる。ちらりとジェイドの様子をうかがえば、ジェイドも険しい顔をしていた。

「……ああ、でも連れてきたのはこっちの小鬼ちゃんだ」
「僕ですか?」

 ジェイドは自分の左手で自分を指差しながら目を丸くした。サムは真顔で頷く。トレイはカウンターに両手をつき、身を乗り出すようにしてサムに詰め寄った。

「どういうことなんですか!」
「ごめんね、小鬼ちゃんたち。俺の秘密の仲間にもこれ以上はわからない」

 首を振るサムにトレイは肩を落とした。何もわからない。アレが何なのか。自分に何が起こっているのか。サムすら知らなければ、他に誰にわかるというのか。

「でもその貝殻はそのよくないものから身を守る力がある。いつでも持ち歩くことをオススメするよ」

 サムはいつもの調子でウインクした。ジェイドは困ったように眉をさげ、トレイを見つめてくる。トレイも内心困り果てていたが、笑みを浮かべるしかなかった。
 その時、購買部に何人かの生徒が入ってくる。サムはその生徒たちへ笑いかけた。トレイはジェイドへ目配せし、一緒に購買部から出る。トレイもジェイドも何も言わなかったが、半ば当然のように二人は植物園へと向かった。

 植物園へ入ると、出ていく生徒とすれ違いはしたが、それ以外に人はいなかった。トレイとジェイドは普段とは違い自分が育てているものの前を素通りし、奥にあるテーブルへ直行する。
 真夜中のお茶会のような紅茶はない。放課後に同じ場所で紅茶もお菓子の用意もなくただ会話をする日もあったが、今日のように二人とも苦い顔をして沈黙することなどなかった。

「……何もわからなかったな」
「いえ、わかりましたよ。少なくとも原因が僕ということは」
「ジェイドが悪いだなんて微塵も思ってないさ」
「……はい」

 トレイはイスから少し腰を浮かせ、顔をうつむかせるジェイドの頭をぽんぽんと軽く叩いてからくしゃっと髪を混ぜるように撫でた。ジェイドは「僕は稚魚ではありませんけど?」とでも言いたげに不満げな目をトレイに向ける。トレイは笑いながらジェイドの頭から手を離し、イスに座り直した。

「……この貝殻は夢の中で人魚の女性からいただいたのです」
「夢の中で?」

 ジェイドは握りしめていた右手を開き、トレイへ貝殻を見せた。

「はい。サムさんの話ではその方が僕を守るために渡したのかと思うのですが……」
「うーん……狙われてるのは俺だよな?」
「ですが嫌われていると言われていましたね。この貝殻にはトレイさんを守る力がないということでしょうか」

 ジェイドはどこか悲しそうに目を伏せる。トレイは眉間にしわをよせた。
 貝殻をジェイドへ渡した人魚が何者なのかわからない。けれど守るために渡したのだとしたらジェイドも危険なのではないか?今のところアレに付きまとわれているのはトレイだが、もし矛先がジェイドへ向き、ジェイドに何かあったら?そう考えただけで胸がざわつく。

「ジェイド、ここ最近どこか出かけなかったか?」
「え?」
「サムさんはジェイドが連れてきたって言ってただろ。つまりアレはこの学園に元々いた訳じゃない」
「なるほど。僕が出かけた先にアレの手がかりがあるかもしれませんね」

 ジェイドは最近の行動を思い出そうと考え込む。トレイは静かに答えを待っていた。

「薔薇の騎士!ムシュー・計画犯!」

 明るい声と共に突然現れたルークにトレイだけでなくジェイドもギョッとして体を揺らした。ルークはそんな二人を気にした様子もなくニコニコと笑っている。

「二人で難しい顔をして、何かあったのかい?」
「いや、その、」
「モストロ・ラウンジで提供するためのデザートを考えていたのです。ねぇ、トレイさん」
「あ、ああ。そうなんだ」

 歯切れの悪いトレイを遮り、ジェイドがキレイなな微笑みを浮かべながらそう言った。同意を求められたトレイも笑って頷く。ルークは「それは素晴らしい!」とより笑みを深くした。

「ルークこそ、どうしたんだ?」
「部活のことで君を探してたんだ。クルーウェル先生からの伝言だよ」
「わざわざ悪いな」
「次の部活動の日は顧問不在になるから三年が後輩たちをよく見ておくように。終わり頃に顔を出すと言っていたよ」
「わかった。ありがとうな」

 トレイが礼を言うと、ニコニコと笑っていたはずのルークがすっと目を細めた。口元は笑っているが目付きは鋭い。狩人と言うだけのことはあるなと場違いなことを考えながらトレイはルークを見つめ返した。

「薔薇の騎士、ここに誰かもう一人いるかい?」
「え?いや、ルークが来るまで俺とジェイドの二人しかいなかったはずだ」
「……誰かの気配がしたのだけどね。気のせいだったのかな?」

 アレが近くにいたのかもしれないとトレイはぐるりと辺りを見回した。けれど今のところ何も見えない。ルークに視線を戻せば、その顔には笑顔が戻っている。

「おっと、ヴィルにも呼ばれているんだった!それでは失礼するよ!」

 ルークはトレイとジェイドにひとつお辞儀をすると颯爽と植物園からいなくなった。静まり返った植物園にトレイとジェイドは数秒だけ呆然とする。

「……ルークさんらしいですね」

 ぽつりと呟かれたジェイドの言葉にトレイは同意しながら少しだけ声を出して笑った。ジェイドもつられたようにくすりと笑う。

「そういえば部活動で気づいたのですが」
「なんだ?」
「最近、活動の一環で山へ行きました」
「山、か……」

 トレイは夢の中で繰り返している神社へ貝殻を供えるための道のりを思い出した。山登りとまではいかないかもしれないがそれなりの山道を歩いて行く。ジェイドが行った山がもし、夢の中に出てくる山と同じたったら?

「その山に行ってみるか……」
「ええ、行きましょう」
「いや俺ひとりで行くよ」
「なぜです?」

 まるで大きな衝撃を受けたかのようにジェイドは目を見開いた。

「狙われてるのは俺だしな。ジェイドを巻き込むことないだろ」
「この貝殻を持っている僕が無関係なわけないじゃないですか。一緒に行きます」
「おいおい……」
「僕がどこの山に行ったのかご存じなのですか?それに僕を置いて行くというのならリドルさんを始め、教員の方々へ全て報告しますよ」

 その脅しにトレイはうっと言葉につまった。リドルどころか学園に知れ渡れば、アレの存在を信じようと、信じなかろうと大騒ぎになるだろう。リドルの不安そうな顔に、面白がる友人たちと、事態をややこしくしそうな後輩たちが頭に浮かぶ。騒ぎになることは避けたい。トレイは片手で眉間を抑えた。

「……わかった」
「ふふ、よかったです。こんな楽しそう……いえ、危険かもしれないことにトレイさんをひとりで立ち向かわせるわけにはいきません」

 ジェイドの表情からワクワクと好奇心で胸を膨らませていることがわかる。トレイは諦めとジェイドのかわいらしさに大きく息を吐いた。

「それにこの貝殻に本当に守る力があるというのなら一緒に行動した方が賢明だと思いませんか?トレイさんはこの貝殻を持てませんし」
「……そうかもしれないな」
「いくらトレイさんのユニーク魔法でも出来ることは限られるでしょうし、やはり一人より二人の方がいいでしょう?」
「わかった、わかった。明日の放課後、一緒に山に行ってみよう。そのかわり誰にもアレのことは言うなよ?」

 「はい!」とジェイドは心底嬉しそうに返事をした。頬をほんのり上気させるジェイドにトレイはついつい表情を緩める。

「山を愛する会の活動として僕から外出申請しておきます」
「助かるよ。ありがとう」
「いいんですよ」

 それから上機嫌なジェイドから動きやすい体操着で来るようにと指示を受け、ひとまずトレイとジェイドはそれぞれの寮へ戻った。トレイは部屋に着いてからジェイドはもしかしてデートのつもりなのではないかと思い至る。周囲に秘密にしてることもあり、堂々と学園の外へデートに行ったことはない。それであんなに喜んでいたのだと思うと、トレイは嬉しいような、気恥ずかしいような、そんな場合じゃないだろというような複雑な気持ちになった。


・・・


「今日はハイキング日和ですね!」

 昨日と同じように機嫌のいいジェイドが闇の鏡の前に立ちそう言った。体操着姿のトレイとは違い、ジェイドはアウトドアメーカーのウェアやシューズを身につけ、背中にはリュックを背負い、右手にも同じようなリュックを持っている。これはデートに喜んでいるのではなく純粋に山に行けるのが嬉しいのだな、とトレイは乾いた笑いを溢した。

「こちらトレイさんの分です。必要になりそうなものは全て入れておきました」
「ありがとう。楽しそうでなによりだが目的を忘れないでくれよ」
「もちろんです!」

 ジェイドからリュックを受け取ったトレイは素直にそれを背負った。見た目ほどは重くなく、アウトドア用のためかがっしりとしていて背負いやすい。

「ところでどこの山に行くんだ?」
「輝石の国の東の方にある小さな山です。山頂から街や海が一望でき、道がある程度舗装されていて歩きやすいので初心者からも人気の山ですね」
「そうなのか」
「楽しみですね!早速行きましょう!」

 闇の鏡へジェイドが行き先を告げる。トレイが鏡を通り抜ける瞬間、ぴちょん、と水の落ちる音がした。


・・・


 鏡を通り抜けると、木で造られた小さな部屋の中に立っていた。部屋というよりは物置小屋と言った方がしっくりくるほど中は狭く、鏡を置くためだけの建物のようだった。小屋の中に窓はひとつもなく、引き戸になっている扉だけがある。

「トレイさん、おかしいです」
「え?」

 ジェイドの声には戸惑いが滲んでいた。トレイは小屋の中を見回す。トレイとジェイドと鏡だけしかない。

「どうしたんだ?」
「鏡を通る前、トレイさんは体操着を着ていましたよね?」
「そうだ……は?」

 トレイは視線を自分の体に落とす。体操着を着ていたはずがなぜか制服姿だった。ジェイドから渡されたリュックもなくなっている。しかしジェイドは鏡を通る前と全く同じ服装だった。

「何が起きた!?」
「あのリュックはフロイド用にと買ったのですが使う機会がなく……やっと使えると思ったのですがどこに行ってしまったのでしょう?」
「いや他にもっとあるだろ?」
「ふふ、わかっています」

 慌ててトレイはマジカルペンがあることを確認する。しかし目を細めて笑うジェイドにトレイは脱力した。とりあえず体に異変はない。ただ服装が変わっただけだ。それだけでも大変なことだが、腕や足が引きちぎれていないだけましだと思うことにする。

「他にも残念なお知らせがあるのですが」
「なんだって?」
「ここ、僕が以前来た場所と違います」

 トレイは気持ちを落ち着かせるために大きく息を吸った。ジェイドは困惑してはいるもののどこか楽しそうに小屋の中を見回している。ソワソワとしていて今にも外へ飛び出して行きそうだった。

「以前は観光案内所に設置された鏡から出ました。こんな小汚ない小屋ではなく、キレイな場所でしたよ」
「……まず落ち着こうジェイド」
「ええ」
「一度戻るぞ」
「探索していかないのですか?」

 小屋の扉に手を伸ばしていたジェイドは驚いたように動きを止めた。トレイはそんなジェイドに背を向け、鏡に向き直る。けれど鏡は黒く濁り何の反応もない。指先で鏡に触れてみても、コンコンと軽くノックしてみても、変化はなかった。

「……最悪だ」
「探索していくしかないようですね」
「……念のためにきくんだが、行き先を言い間違えたわけじゃないよな?」
「心外ですね。一字一句間違えてなどおりません」

 むすっとした顔でジェイドはトレイを睨んだ。トレイは謝りながらジェイドに扉を開けるように促す。ジェイドは仕方ないというように肩をすくめると、木の扉に手をかけゆっくりと開け放った。
 外に出ると潮の香りがした。ぐるりと周囲を見渡せば、小屋と同じような木造の建物が砂利道に沿うように並ぶ小さな村の中に立っていることがわかる。トレイは見覚えのある風景に絶句した。家屋は壊れておらずしっかりと建っているが、毎夜見る夢の中でトレイが歩く村そのものだった。

「夢の中と同じだ」
「話していただいたあの夢と?ですがトレイさんの話では廃村だったはずでは?」
「そうなんだよな。俺の夢の中だと朽ち果ててるはずなんだ……」
「ここに突っ立っていても仕方ありませんし、歩いてみます?」

 ジェイドの提案にトレイは頷き、歩き出した。村には前に監督生と共に見た極東の本に載っていたような家が建ち並んでいる。さらに行き交う人々も和服と呼ばれる極東の服を着ていた。しかしトレイはそれらが昔の古い文化のものだと監督生から聞いている。制服姿のトレイと、ハイキング用のウェアを着たジェイドはこの村でかなり浮いた存在のはずだ。けれどすれ違う人々はトレイたちに見向きもしない。

「……場所どころか時代も昔に飛ばされたかもしれないな」
「……そうかもしれませんね。僕らとは違う文化で詳しくはありませんが、ここが極東の国だとしても現在の極東の国はもっと発展しているはずです」
「だよな。それにここの人たちは俺たちを無視しているというか、そもそも見えてないのか?」
「やはり何もかもが不自然ですね。ですが鏡があの状態では学園に戻ることもできませんし」

 どうしたものかと二人で頭を悩ませながら歩き続けていると、村の中でも一際大きい家がトレイの目に入った。場所からして夢の中でぺしゃんこに潰れていたのはこの家かもしれない。村の権力者が住んでいるのか、立派な造りの家だった。

「もし」

 家を見上げていたその時、後ろから声をかけられ、トレイとジェイドは身構えながらも振り返った。そこには腰まである黒髪の、顔立ちの整った女性が優しく微笑みながら立っている。女性は他の人々とは違う、見るからに仕立てのいい和服を着ていた。

「どうぞ、これを」

 女性はトレイに向かって何かを握っている右手を差し出した。トレイとジェイドは顔を見合せ、互いに首を傾げる。明らかにおかしい。他の人々は見向きもしなかったトレイとジェイドに声をかけたあげく、何かを渡そうとしている。トレイは受けとるか悩んだ。

「どうかいたしましたか?いつもと同じ、人魚の貝殻でございます」
「人魚の貝殻……?」

 思わず口を開いたトレイに女性は笑みを深くする。朗らかに笑う女性の顔はどこか幼げにも見えた。

「ええ、ええ、海神様へお供えすればご利益があるのです。どうぞ、受け取ってくださいませ」

 もう一度、トレイとジェイドは顔を見合せた。これはトレイが夢の中で行っていることと同じことなのかもしれない。だが、やはり受け取るには抵抗感がある。

「……どうして、受け取っていただけないのですか。これは本物の人魚の貝殻でございます」

 女性の声が徐々に冷たくなる。受け取るべきか?トレイは悩みながらも差し出されている女性の右手に目をやった。そして女性の手首の辺りに鱗があることに気がつく。はっとして女性を見れば、たった今、頭から水を被ったかのように髪の毛がびっしょりと濡れていた。毛先から水滴がぴちょんと音を立てて地面に落ちる。ジェイドも女性の異変に気づいたらしくマジカルペンに手を伸ばすのが視界の隅で見えた。トレイもゆっくりと自らのマジカルペンに手を伸ばす。

「どうして、どうして、どうして」

 トレイとジェイドは後ろに飛び退き、様子のおかしい女性から距離を取った。みるみるうちに女性の体は鱗に覆われていく。

「トレイさん、まさか……」
「……アレだな」

 鱗に覆われた女の手から見慣れた赤い貝殻が落ちる。やっぱりなぁ、とトレイはどこか他人事のように思いながらマジカルペンを構えた。

「どうして!」

 女が金切り声を上げたのを最後に顔も全て鱗で覆われる。トレイとジェイドの目の前でいつも見るアレが怒り狂った様子で濡れた髪を振り乱していた。シャリシャリと音を鳴らしながら鱗が落ちていく。

「気味が悪いですね。トレイさん、こんなものにストーカーされていたのですか?」
「この前説明した通りだよ」
「やはり話で聞くのと実際に目で見るのとは違いますね」

 ソレがトレイに飛びかかった。トレイはマジカルペンを振る。しかし何も起こらない。

「は!?」

 とっさに飛び退きトレイはソレを避け、ずれた眼鏡を片手でおさえながらもう一度マジカルペンを振った。ジェイドはただマジカルペンを振っているだけのトレイを怪訝そうな顔で見ている。
 魔法が使えない。トレイの額に冷や汗が滲んだ。ブロットが溜まっているわけではない。けれど、なぜか魔法が発動しない。トレイは役に立たないマジカルペンを握り締め、「走れ!」とジェイドに向かって叫んだ。トレイとジェイドは同時に走り出し、ソレの横をすり抜ける。

「どうしたんですか!」
「魔法が使えない!」
「え?」

 トレイと共に走り出したジェイドは後ろを振り向き、追いかけてくるアレに向かってマジカルペンを振った。何も起きない。もう一度振る。魔法は使えない。
 ぽかんと口を開けたジェイドは自分のマジカルペンとトレイの顔を交互に見る。とりあえず走って逃げるしかない。トレイとジェイドはいつの間にか誰もいなくなった道を鏡のある小屋に向かって走った。

「どうしましょうね」
「どうするかな」

 何もアイデアが出ないまま、小屋にたどり着いた。ジェイドが勢いよく引き戸を開けるが、鏡はここへ着いた時と同じように黒く濁ったままだ。小屋に入ってしまえば逃げ場が無くなる。トレイはジェイドの手を引き再び走り出そうとした。その時、ぐんっと物凄い力で背中を引っ張られる。

「トレイさん!」

 いつの間に真後ろにいたのか、トレイはソレに背中を捕まれていた。シャリシャリと鱗が擦れる音が耳元で聞こえ、トレイは全身に鳥肌が立つ。しかし頭の片隅では魚から鱗を取る時の音に似ているとぼんやり思った。
 ぐいっともう一度後ろに引かれ、トレイは体制を崩した。それとほぼ同時にジェイドの長い足がトレイの視界を横切り、ソレの体を蹴り飛ばす。

「トレイさんに触らないでください!」

 ジェイドの怒りに満ちた怒鳴り声を聞きながら、バラバラと飛び散る鱗に視界が埋め浮くされ目の前が真っ白になるとトレイは意識を失った。


・・・


 今までずっと呼吸を止めていたのかと思うくらいの息苦しさに目を見開き、トレイは思いっきり空気を吸い込んだ。はぁはぁと荒い呼吸を繰り返しながら闇の鏡を見つめる。鏡に映るトレイの隣には、同じように肩で息をしているジェイドがいた。
 トレイとジェイドはお互い唖然としたままのろのろした動きで顔を見合せた。トレイが瞬きをするとつられたようにジェイドも瞬きをする。呼吸が落ち着くまで無言で見つめ合い続けたが、トレイの頭の中はずっと混乱していた。

「……俺たち鏡を通ったよな?」
「そう思いますが……」
「アレに追いかけられたよな?」
「はい」

 体を確認すれば、トレイはきちんと体操着を身につけ、ジェイドから渡されたリュックを背負っていた。姿は鏡を通る前と同じだが、走った後のように呼吸は乱れ、汗もかいている。それだけでなく確かに疲労感もあった。
 トレイはマジカルペンを手に取り、ペンの先に小さな火を灯した。問題なく魔法が使える。ジェイドも同じようにマジカルペンの先に火を灯し、確認を行っていた。

「夢にしてはリアルでしたね」
「夢だったのかわからないけどな」
「トレイさん、体に異変はありませんか?アレに捕まれた所は?」
「背中か?特に何もないが……」

 トレイがリュックを降ろしたとたんにジェイドは体操着の上からペタペタとトレイの背中を触った。くすぐったさにトレイは身をよじる。

「痛みなどありませんか?大丈夫ですか?」
「大丈夫だって!くすぐったいぞジェイド!」
「何もないのなら……よかったです」

 トレイの体から手を離したジェイドが安心したようにほっと息を吐く。

「ジェイドこそどこも怪我してないか?足は?」
「特にありませんよ」
「本当か?隠すなよ?」
「ふふふ、そんなことしません」

 楽しげなジェイドにトレイも胸を撫で下ろした。恐らく異変がないことは本当だろう。もし何かがあれば対価として何かを要求してくることをトレイは経験上知っていた。そのほとんどはケーキやクッキーなどの食べ物の要求だったことも覚えている。

「……今日はもう寮に戻るか」
「それには賛成ですが、トレイさんをひとりにするわけにはいきません」
「それは大丈夫だろ。魔法も使えるし」

 「ほら」とトレイはもう一度マジカルペンの先に火を灯した。それでもジェイドは腑に落ちないと言いたげな顔をしている。トレイはポンポンとジェイドの肩を叩きながら笑いかけた。

「大丈夫だって。何かあったらすぐ連絡するから」
「約束ですよ?」
「ああ」
「約束を破ったりしたらどうなるかわかりすね?」

 今度は逆にトレイが両肩をジェイドに両手でがっしりと抑えられた。どうして脅されているのかとトレイは笑いながら優しくジェイドの手を振りほどく。ジェイドは渋々といった様子でトレイから離れ、軽く頭を下げるとオクタヴィネル寮へ続く鏡に向かった。

「ジェイド!これ!」

 トレイはずっと手に持ったままだったリュックを持ち上げながら慌ててジェイドを呼び止める。ジェイドも忘れていたのか「あっ」と声を出したがすぐに笑みを浮かべた。

「トレイさんが持っていてください。また必要になるかもしれませんから」

 そう言ってジェイドは鏡へ入って行く。必要にはならないで欲しいと心の隅で思いながらトレイもリュックを抱え直し、ハーツラビュル寮へ戻った。

 寮へ入るとちょうど談話室から出てきたケイトと廊下で鉢合わせた。ケイトはトレイの姿を見て驚いたように目を見開く。

「あれ?出かけるんじゃなかったの?」
「え?」

 ケイトの問いにトレイも目を丸くする。混乱するトレイの答えを待たずにケイトは悲しげに眉を下げた。

「もしかしてジェイドくんとケンカでもした?さっき寮から出て十分くらいしか経ってないのに何したの?」

 周囲に配慮してか小声でそう言ったケイトの言葉にトレイは訳がわからず一瞬思考が止まった。ケイトは十分しか経っていないと言ったが、少なくともトレイの体感では短くとも一時間は経っている。村の中を歩き、アレに追いかけられたのだから十分しか時間が進んでいないのは明らかにおかしい。

「トレイくん?」
「……あー……出かけた先の天気が悪かったから今日はやめたんだ」
「あ、そうなの?ジェイドくん絶対悲しかっただろうなぁ。今度は天気のいい日に行けるといいね」
「……そうだな」

 「それじゃあね」とケイトはひらひら手を振りながらトレイの横を通りすぎて行った。トレイはまだ混乱しながらも自室へと向かう。廊下を歩きながら携帯で時間を確認すると、ケイトの言う通り十分程しか時間は経っていなかった。
 トレイは勘弁してくれと心の中で文句を言いながら自室へ入る。リュックをベッドの横に置き、部屋着に着替えようとクローゼットを開けた。部屋着を手に取るとハンガーに吊るされている制服のブレザーに目が止まる。
 ブレザーの背中にはなぜかぐしゃっとシワが寄っている。ハンガーを手に取りよくよく見てみれば、まるで誰かの手で力任せに捕まれたようなシワの寄り方をしていた。トレイは微かに震える手でシワを引っ張ってみると、パラパラと何枚か鱗が床に落ちる。

「……勘弁してくれ……」

 思わず悲痛な声が口から出た。


・・・


 生臭さに目を開けば、トレイは洞窟の前に立っていた。前に人魚の死体を見つけた所だ。けれど今回は血生臭さではなく、腐った魚のような生臭い臭いが立ち込めている。トレイは顔をしかめながら手で鼻を覆った。
 嫌な予感がした。しかしトレイはそうすることが当たり前だというように洞窟の中へ足を踏み入れる。中は以前来たときとほとんど変わらない。だからこそトレイは違いがすぐわかった。人魚の死体が隠されていた岩の後ろから、見覚えのある長い尾びれが飛び出ている。少しだけ心臓が冷えた心地がしながらもトレイはゆっくりと尾びれに近づき、その体をたどるように岩の後ろを覗き込んだ。

「……ジェイド……」

 敷き詰められた白い貝殻の上、岩の後ろに隠されるように人魚姿のジェイドが横たわっていた。両目は白濁し、口は力なく開いている。死体を見慣れているわけではないのに、死んでいるのだとはっきりと見て取れた。
 トレイの胸の動悸が激しくなり、それとともに呼吸も荒くなる。ジェイドの体に外傷は見当たらない。それなのに死んでいる。そんなことをしてもどうにもならないとわかってはいても、トレイはジェイドに向かって震える手を伸ばした。とにかく静かに横たわるジェイドに触れたかった。
 ぴちょん。水の落ちる音。瞬時にトレイが後ろを振り向けば、真後ろにソレがいた。