06

焚き火のパチパチと火が爆ぜる音に耳を澄ませる。ジェイドが小さく鼻歌を歌いながら紅茶の準備をしていた。既に日は落ち、頭上には満天の星空が広がっている。

「トレイさん、どうぞ」

 ジェイドから差し出された紅茶はいつものティーカップではなく、ステンレス製のマグカップに入っている。白い湯気が立ち上るマグカップを受け取り、トレイは礼を言った。ジェイドは自分のマグカップを手に持ちながら笑顔を見せる。

「星が綺麗だな」
「こうしてトレイさんと見ることが出来て嬉しいです」
「つい数週間前、死にかけたのに今はこんな場所に居るなんて信じられないな」
「ええ。あのような体験はしばらく遠慮したいですね」
「俺は今後一切体験したくないぞ」

 トレイとジェイドは互いに苦笑し、マグカップに口をつけた。ほんのりと薔薇の香りがする、何週間か前に植物園で飲んだ紅茶と同じだ。紅茶を一口飲んだトレイはほうっと息を吐いて空を見上げる。


 アレに襲われ意識を失ったあと、目を覚ましたのは学園の医務室だった。真っ白な天井と壁、カーテンやシーツも眩しく感じ何度も瞬きをしたあとトレイは体を起こす。眼鏡はベッドのすぐ横のサイドテーブルに置いてあり、それをかけると隣のベッドでジェイドが眠っているのが見えた。一瞬体が強張ったが、ジェイドの穏やかな寝顔に肩の力が抜ける。
 医務室にはトレイと眠るジェイド以外に誰もいない。誰かを呼びに行くべきか少し悩んだが、ベッドから抜け出す気にはなれず、トレイはぼんやりとジェイドの寝顔を見つめた。

「ふなっ!トレイが起きてるんだゾ!」

 しばらく静かな時間が続いたが、その騒がしい声にトレイは医務室の入り口に顔を向けた。そこには監督生と監督生に抱えられたグリムがいる。監督生は寝ているジェイドに気づいたらしくグリムに静かにするよう合図をしながらトレイのベッドへ歩み寄った。

「トレイ先輩、もう起きて大丈夫ですか?どこか痛むところはありませんか?気分は?」
「大丈夫だ。ありがとうな」
「お前たちが倒れてるって聞いてさすがの俺様も驚いたんだゾ」
「迷惑かけたな」

 トレイは監督生たちに笑いかける。しかし監督生はふるふると首を振った。

「迷惑なんかじゃありませんよ。あ、今ハーツラビュルはなんでもない日のパーティーやってて……誰か呼んできますか?」
「いや、パーティーやってるなら邪魔しちゃ悪い。リドルのことだから完璧にパーティーをやり遂げたらこっちに来るだろ」

 監督生もそう思ったのかこくりと頷いた。グリムだけは不満そうに「それじゃあケーキが食えねぇんだゾ」とぼやいている。トレイはそんなグリムと監督生への礼に作るケーキは何がいいかと考えた。
 隣のベッドでシーツが擦れる音がし、続いて寝起きの掠れた声でジェイドがトレイの名を呼ぶのがわかった。トレイはジェイドに向き直りながら「おはよう」と返事をする。すると、とろんとした寝起きの顔から一瞬にして覚醒したジェイドが飛び起き、トレイのベッドに乗り上げるようにしてトレイの顔を覗き込んだ。

「トレイさん!」
「な、なんだ?どうした?」

 両手でがっしりと顔を固定されたトレイはやんわりとジェイドの体を押し返しながらも、ジェイドの顔を見つめ返すしかなかった。ジェイドは必死な様子で、苦しげに眉を寄せている。

「生きてますよね……?」
「もちろんだ。ジェイドは?体は大丈夫か?俺のこと助けに来てくれたんだろ?」
「……僕は大丈夫です」

 安心したのか体から力の抜けたジェイドがトレイにもたれかかる。トレイはそんなジェイドの頭や背中を慰めるように撫でた。あの時、トレイにはほとんど意識はなかったが、ジェイドがトレイに抱きつきながら叫んでいたことは覚えている。きゅっと胸が締め付けられるような感覚にトレイは笑った。

「俺様たちのこと忘れてるんだゾ!」
「グリム!シッ!」

 トレイの肩に頭をのせていたジェイドはいつもの綺麗な笑顔を浮かべながら監督生たちを振り返った。トレイからはジェイドの後頭部しか見えないが、監督生とグリムが顔を青くするのは見える。トレイはジェイドの背中をポンポンとなだめるように叩いた。

「あ、あの誰か呼んできますね!」
「ふなぁ〜!」

 慌てて走っていく監督生の背中が見えなくなるとジェイドはトレイの上から降りた。しかし隣のベッドに戻る様子はない。

「つめてください」
「は?」
「つめてください」

 そう言いながらジェイドはぐいぐいとトレイの体を押した。トレイが困惑しながらもベッドの端によるとニコニコと笑いながらジェイドはベッドに乗り上げてくる。トレイの隣に座ったジェイドは笑いながら狭いと文句を言った。さらにジェイドに体を押され、トレイはベッドから落ちそうになりとっさにジェイドの手を掴む。

「落ちる落ちる!」
「んふふ、ふふふ……ふふ……」

 ジェイドはトレイの手を握り直し上機嫌で笑っている。トレイはそんなジェイドが可愛く思え、大人しくしてるならいいかと自由にさせた。
 数分後に何人かの足音が聞こえてきたかと思えば、困惑した「は?」という声が数人分重なり、医務室は一気に騒がしくなった。ハーツラビュルの見知った顔たちとオクタヴィネルの二人と監督生とグリム、そして学園長がトレイとジェイドのいるベッドを取り囲むように立つ。

「何やってんすか!?」
「そうだよトレイくん!何やってんの!?イチャついてる場合じゃないでしょ!?」

 エースに続いてケイトが喚くように言った。その隣ではリドルとデュースが頭の上にクエスチョンマークを浮かべたような顔でトレイとジェイドを交互に見ている。オクタヴィネルの二人はニコニコと笑い続けているジェイドをつつきながら「お前は全く……」「心配したんだから〜」と愚痴っていた。学園長は怒気をまといトレイとジェイドを睨み付けている。そして監督生とグリムが学園長をなだめようと声をかけていたが、そんな周りのことは気にもとめずジェイドはトレイの手を強弱をつけて握ってきた。お返しとばかりにトレイも握り返すとジェイドから笑い声が漏れる。

「いいですか!二人とも!怪異に襲われて生徒が死亡する事件が起きたら私が!ゴホン、この学園がどうなることか!」
「どうして黙っていたんだい?」
「もートレイ先輩の部屋、そこらじゅう鱗だらけでヤバかったんですよ!」
「トレイ先輩とジェイド先輩は仲がいいんですね!」
「デュースちゃん、あのね、そうだけどそうじゃないの」
「ジェイド、どうして寮長の僕に報告しなかったんです?」
「半分人間のジェイドはちょっと面白かったけどさぁ、もう二度とやらないでよね」
「全員がいっぺんに話すから何言ってるかわかんねーんだゾ!」
「グリムこそ静かに!」

 もう医務室は阿鼻叫喚だった。「みなさんお静かに!!」と学園長が怒鳴り付け、一瞬静かになってもすぐに誰かしら口を開き、続いて別の誰かが口を開く。そしてまた全員が一斉に喋りだす。トレイはひきつった笑みを浮かべるが、ジェイドは機嫌よさげにニコニコと笑うばかりだ。

「とにかく!何があったのか全て話してもらいますからね!!」

 学園長のその一言にはこの場にいた全員が同意したらしく、九人の視線が一気にトレイとジェイドへ向けられた。トレイは一度大きく息を吐き出し、笑っているジェイドの代わりに話始める。
 夢を見たこと。サムに助言を求めたこと。ジェイドの持っていた白い貝殻のこと。村に迷い込んだこと。夢の中でジェイドが死に、アレに食われていたこと。現実でアレに襲われたこと。気がついたら医務室に寝かされていたこと。トレイが全てを話終えるとその場にいた全員が何か言葉を発したが、声が重なりまともに聞き取ることは出来なかった。

「監督生さん!サムを呼んできて下さい!」

 学園長がそう叫び、監督生はグリムを連れ医務室から出て行く。サムを待つ間にもトレイとジェイドはその場の全員に取り囲まれていた。

「そもそもトレイとジェイドはどういう関係なんだい!?」
「え!?寮長これ見てわかんないんすか!?」
「エース、何がわかるんだ?」
「デュースちゃんもわかってないの?えぇ……?」
「ジェイド、隠すのやめんの〜?」
「今さらという気がしますが気づいてない方々もいらっしゃるみたいですね」
「君たち!今はそんな話をしている場合ではありませんよ!」

 再び学園長が声を張り上げた。その直後、明るいサムの明るい声が医務室に響く。全員に視線を向けられたサムはいつもと同じ笑顔を浮かべた。サムの後ろにいた監督生の方が気まずそうにグリムを腕に抱きながら床を見つめている。

「小鬼ちゃんたち無事で何よりだ」
「サム!」

 学園長がサムの胸ぐらにつかみかかる。サムは両手を肩と同じ高さに上げながらもにんまりと笑い、トレイとジェイドに視線を向けた。

「秘密の仲間も驚いてるよ。まさかアレを退けるなんてね」
「サム!まず学園長である私に説明してください!危険とわかっていながら私に報告せず、生徒をけしかけるとはどういうことですか!」

 トレイは乾いた笑いをこぼしながらも、フロイドに頬をつねられているジェイドの手をもう一度握る。ジェイドは頬を引っ張られながらも満足げにふふっと笑った。
 その後、飄々とした態度のサムにキレ散らかした学園長によって約二時間ほどの説教が続き、罰としてトレイとジェイドには二週間の雑用、サムには一ヶ月間全ての商品を半額にすることが課せられた。罰としては軽い気もしたが、学園長からしてみればトレイたちが生きていたことや、その場にいた学生たちから口々に文句を言われたこともあり、投げやりになったのかと思う。トレイは罰が軽くなるのならまあいいかと口を挟まずにいた。


 そして今日、晴れて二週間の学園長の雑用から解放されて初めて迎える休日にトレイはジェイドに連れられて、以前使うことのなかったリュックを持ってキャンプに来ている。まだサムには半額期間が残っているが、先日購買部を訪ねたとき客足が増えたと喜んでいた。おそらく学園長は罰にならないと頭を抱えているだろう。

「生きててよかった……」
「ええ、本当に」

 トレイが空を見上げながら言ったぼやきにジェイドが頷く。トレイは焚き火を挟んで向かいに座っているジェイドの顔を真っ直ぐに見つめた。

「あの時、来てくれてありがとうな」
「そういえば対価をいただいておりませんね」
「え?」

 トレイは予想外のジェイドの反応に目を見開いた。ジェイドは対価をどうするか悩んでいるのか、小さくうーんと唸っている。どんな要求が飛び出すか予想もつかないがこればかりは仕方ないとトレイは苦笑した。

「……一緒に昼食が食べたいです」

 トレイはそのささやかな要求に「えっ」とまた驚きの声を上げた。そんなことでいいのだろうか?とジェイドを凝視してしまう。

「それから、お茶の時間も増やしたいですし植物園だけでなくて中庭や他の場所でもしたいです。挨拶も笑い合うだけでなくてきちんと声をかけたいですし、かけていただきたいです」
「ん?」
「学園の中でも手を繋ぐくらいはしたいですし、合同授業の時は積極的にペアを組みたいです。あ、お泊まりだってもっと堂々と……」
「待て待て、要求が多くないか?」

 要求を指折り数えていたジェイドはきょとんとした顔をトレイへ向けた。

「僕はトレイさんの命の恩人でしょう?このくらいはしていただけるのでは?」
「いや、まあ、そうなんだけどな」
「何かご不満でも?」

 ジェイドが拗ねたように不満げな顔をした。トレイは「そうじゃない」と笑いながら手に持っていたマグカップを傍にある折り畳み式の小さなテーブルに置き、立ち上がった。そのままジェイドの横まで移動し、怪訝そうな表情で見上げてくるジェイドの手からマグカップを取り上げ同じようにテーブルに置く。

「どうして僕は紅茶を没収されたのですか」
「まあまあ」

 文句を言いたげなジェイドの隣に腰をおろしたトレイは右手でジェイドの手を握り、左手でぎゅっとジェイドの体を抱き寄せた。ジェイドの顔が赤くなったのか、焚き火に照らされているから赤いのかトレイには判別がつかない。けれど、握っているジェイドの手が熱くなったことはわかった。

「もう付き合ってることを隠してないんだから、いつでも出来るぞ?それが対価でいいのか?」

 隠していないというよりも、そもそもほとんど隠せていなかったという方が正しい。医務室に集まった生徒の中でリドルとデュース、グリムだけがトレイとジェイドが付き合っている事実に驚いていた。他は「いや知ってた」と口をそろえて言い、どこか呆れている様子だった。
 ジェイドは口をもごもごさせ、返事に困っている。トレイはそんなジェイドの頭にちゅっとキスをした。びくっとジェイドの体が揺れたことにトレイも驚いたが、手は離さない。

「……急に積極的になりすぎでは?」
「ははは、隠す必要もなくなったし遠慮しなくていいと思うとな」

 「それに」とトレイが言葉を続けると、ジェイドは首を傾げながら続きを待つ。

「俺は頭の先から爪先までジェイドのものなんだろ?」
「聞いていたんですか!?」
「あんな熱烈な言葉を聞き逃せるわけないよ」
「え、でも、トレイさん死にかけてました……」

 ぶわっとジェイドの顔が真っ赤になった。焚き火に照らされているからなどではなく、耳も首すら赤くなっているのがわかる。トレイは慌てるジェイドの様子に吹き出すように笑った。

「俺がジェイドのものなら、ジェイドも俺のものだよな?」
「……そうですよ。あなたは僕のもので、僕はあなたのものなんですからよそ見は許しません」
「こんな素敵な人魚が恋人なのによそ見なんか出来ないさ」
「嫌味ですか?誉め言葉ですか?」

 トレイがむっと眉を寄せるとジェイドは「冗談ですよ」と言って笑った。クスクスと笑うジェイドは甘えるようにトレイへ頭を擦り付けてくる。その仕草にトレイも思わず頬が緩んだ。

「人魚は嫉妬深いのですからね。肝に命じてください」
「わかった」
「本当にトレイさんがあんな化け物に奪われなくて……生きていてよかったです」
「俺もジェイドが生きていてくれて嬉しいよ」

 トレイとジェイドは顔を近づけお互いに小さく笑った。アレは結局何だったのだろう。学園長が調べると言っていたがまだ何もわからないらしい。もしかしたらずっとわからないままかもしれない。あの白い貝殻に守りの力があったのかすらわからない。ジェイドが夢で見たという人魚が二人を守ってくれたのだろうか。トレイが医務室で眠っている間に後始末をしてくれたエースたちによれば、トレイの部屋は鱗が飛び散り、粉々に砕けた貝殻の残骸があったのだという。相討ちしたのかもしれない。全て憶測でしかない。それでも良かった。アレの影に怯えることなくこうしてジェイドと触れあえるのだから。

「トレイさん、対価に欲しいものがあるのですが」
「お、なんだ?」
「甘いケーキが食べたいです」
「そんなことでいいのか?」
「まさか一度でいいとでも?これからずっと、僕のために焼いてください。ケーキだけでなくてタルトやクッキーや色んなお菓子を」
「プロポーズか?」

 思わずトレイの口から飛び出した言葉にジェイドは目を丸くした。その様子にそこまで考えていなかったのかとトレイはくつくつと笑う。ジェイドは眉を吊り上げてキッとトレイを睨み付けてきた。

「プロポーズならトレイさんからもっと素敵な言葉を贈っていただかないと」
「そうか……ちゃんと準備をしなくちゃな」
「ええ、期待してますからね」

 自分たちは何の話をしているのかと、トレイとジェイドはほとんど同時に吹き出した。コツンとお互いの額をくっつけて笑い合う。トレイは幸せをかき集めたような顔で笑うジェイドに胸が締め付けられ、その唇にキスを贈った。ジェイドはそれに応えるようにトレイの手を強く握り返す。



 どこかでぴちょん、と音を立てて水が落ちた。


END