05

ぴちょん。ぴちょん。ぴちょん。水の落ちる音が絶え間なく聞こえる。シャリシャリシャリシャリと鱗が剥がれる音も混じり、耳障りな音となっていた。生臭さと血生臭さが混ざり合う臭いと、不快な音に吐き気がする。だがそれでもトレイの足は洞窟の中へ進んでいった。
 洞窟の中にソレはいた。岩影から飛び出している尾びれに覆い被さるようにして忙しなく頭を動かしている。ソレが動く度に髪の先からは水が落ち、体からは鱗が剥がれ、そしてソレの足元にまでおびただしい量の血が流れた。トレイは嫌な予感に身体中にじっとりと汗をかく。けれど足は止まらない。ついにソレの横で立ち止まると、ソレが尾びれに噛みついているのがよく見えた。
 ソレは尾びれに噛みつき、首を大きく振って肉を噛みちぎっていた。噛みちぎられた肉を丸飲みにし、再び尾びれにかぶり付くと頭を振ってぶちぶちと音を立てながら噛みちぎる。噛みつかれた尾びれからは止めどなく血が溢れだし、地面に血溜まりが広がっていた。ソレが肉を噛みちぎった勢いでピシャッとトレイの制服にも血が飛ぶ。カタカタと体が震え始めたが、トレイは金縛りにあったようにそこから動けない。
 ソレはシャリシャリと音を立てながら顔を上げた。鱗に覆われて口が無かったはずのソレには確かに口がある。鱗と鱗の間を割くようにしてぱっかりと口を開き、歯を見せるようにソレは笑っていた。ソレの人間と全く同じ歯にトレイは戦慄する。ボタボタとソレの口から血が垂れ、トレイは不気味さと嫌悪感からえずいた。
 シャリシャリと音を立て鱗を落としながらソレは立ち上がると、岩影を指差した。トレイはソレの腕を辿るように岩影に横たわるジェイドの死体を見る。敷き詰められた白い貝殻の上、相変わらずジェイドの目は白濁しているが、どこかぼんやりと虚空を見つめているようにも思えた。しかしジェイドの喉元は大きく抉られ、赤い肉が剥き出している。
 不意に剥き出しの肉から鮮血が滲み出し、ジェイドの体を伝って白い貝殻を赤く染め始めた。気づけば、ジェイドの目から涙のように血が流れ、口からも血が溢れている。死体の下に敷き詰められた白い貝殻は瞬く間に真っ赤に染まった。むわっとより強く血の臭いがあたりに充満する。
 呆気にとられているトレイの横から腕を伸ばし、ソレは貝殻のひとつを掴むとトレイの目の前に手をつき出した。ソレの血が滴る手にはいつもトレイが神社へ供えていた赤い貝殻と同じ物が握られている。

「人魚の貝殻でございます」

 女の声だった。ソレの口が動いたのと同時に発せられたことから、ソレが話したのだとわかる。どくん、どくんと自分の心臓の音が頭の中に響いてくる。トレイはむせかえる程の血の臭いに眩暈がし、みるみる視界が真っ暗になった。

 ゆっくりと深呼吸しながらトレイは目を開いた。カーテンの隙間から朝日が漏れているのがわかる。嫌悪感からか気持ちが悪い。血の臭いがまだしている気がして吐き気がした。初めて夢の中で洞窟へ訪れたときも人魚の死体があった。その死体の下には赤い貝殻が敷き詰められていなかっただろうか?トレイが何度も神社へ供えたあの赤い貝殻は白い薔薇を赤く塗り直すように、白い貝殻が赤く塗られていた。しかも人魚の血で。あのほとんど白骨化した人魚も夢の中のジェイドと同じようにアレに食われ、血を染料にされたのだろう。気持ち悪さに胸を手でおさえながら思わず目をつぶるとジェイドの肉を食べるアレと、血を流すジェイドの顔が脳裏に浮かんだ。

「ジェイド……!」

 ハッとジェイドの安否が心配になり、携帯を掴んだ。時間帯が早すぎるわけではないが、昨日植物園でジェイドに「ただの夢ですよ」と言われたことを思い出すと電話をかけるのは気恥ずかしい。バカにされたわけでもなく、心配してもらったことはわかっていたがそれでも素直に電話することは出来なかった。
 代わりにトレイはメッセージアプリを開き、「おはよう」とだけ打ち込む。さすがに「生きてるか?」と朝から送るのはどうかと思った。ただジェイドのことだからトレイが悪い夢を見たことはすぐバレるだろう。そんなことを考えながらぼんやりと携帯の画面を眺めていると数分も待たずにジェイドからの返信がきた。

 「おはようございます」

 たった一言だがそのすぐ後にデフォルメされたキノコが笑っているイラストも送られてきてトレイは笑った。ジェイドのお陰でほんの少しだが気持ちを持ち直せたトレイは汗を流すためにベッドから抜け出す。しかしすぐに床に落ちている鱗が目に入り、小さく舌打ちをした。


・・・


 上の空でシャワーを浴びていたからかトレイが身支度を整え、寮を出たときには既に朝食の時間は過ぎ、授業開始の予鈴が鳴るまでそれほど時間はなかった。まだ少し時間はあるとはいえ、副寮長であるトレイが遅刻しようものならリドル寮長に何を言われるかわからない。トレイは急いで鏡を通り抜けた。

「うおっ!」
「わっ!」

 鏡を通り抜けた先にいた人物にぶつかりそうになり、トレイとその人物はほぼ同時に驚きの声を上げた。ずれた眼鏡の位置を直しながら顔を上げると、驚いた顔のジェイドが視界に入る。

「ジェイド?」
「トレイさん!よかった。心配していたんです」

 携帯を胸の前で握っているジェイドは柔らかく微笑んだ。その表情にトレイも顔を緩ませる。

「連絡したのですが返事がなかったので迎えに行こうと思ったのです」
「そうなのか?」

 トレイは慌てて携帯を確認すると、本当にジェイドからのメッセージがいくつか届いている。シャワーを浴びた後、急いで支度をしたため全く気付かなかった。心配してくれたジェイドに申し訳ない気持ちになりトレイは眉を下げる。

「気付かなかったよ。ごめんな」
「いいんです。トレイさんがご無事でなによりです」
「なあ、ジェイド……抱きしめてもいいか?」

 ジェイドは一瞬だけきょとんとしたがすぐに笑顔を浮かべると両腕を広げた。トレイはふらふらと吸い寄せられるようにジェイドの腕の中に収まる。
 トレイはジェイドの肩に額をおしあてながら深く息を吸った。微かにジェイドの心音が聞こえ、その心地好さにゆっくりと息を吐き出す。ジェイドはトレイの背中に腕を回し、ゆっくりと優しい手つきで撫でていたが校舎の方から聞こえてきた予鈴に手を止めた。

「おや、遅刻してしまいますね」
「ヤバい!」

 勢いよく体を離したトレイにジェイドは笑った。しかしそんなジェイドの手を掴み、トレイは走り出す。トレイは笑い続けているジェイドを急かしつつも、鏡舎から校舎までの道を走り抜けた。


・・・


 ぴちょん、と水の落ちる音がする。教室の扉の前にソレは立っていた。ソレの顔はずっとトレイの方を向いているが目がないためあまり見られている感覚はない。ただ、ずっと水の落ちる音が聞こえている。

「何かあるのかの?」

 急に視界に入ってきたリリアにトレイは一瞬息が止まった。リリアはトレイの顔と教室の扉を交互に見ている。トレイは「何でもない」と頭を振った。

「なんじゃ。熱心に見とるから何かあるのかと思ったんじゃがの」
「ぼーっとしてただけだな」
「それにしても今日はいっそう顔色が悪いの」
「そうか?」

 うんうんとリリアは何度か頷いた。トレイは無意識に顔を触るがそれで何かがわかるわけではない。そんなトレイにリリアはにぱっと笑いかける。

「次の授業が終われば昼食じゃ。腹が満たされれば元気も出るじゃろ」
「そうだといいな」

 ぴちょん、と水が落ちた。


・・・


「トレイくん大丈夫?リリアちゃんも心配してたけど」
 
 放課後、植物園で育てている苺やハーブの水やりを終え、寮へ戻ったとたん怪訝そうな顔のケイトに声をかけられた。そんなにひどい顔かと首をかしげる。

「何でもない日の準備もあるんだから今日は早く寝た方がいいよ」
「……そうだな。少し寝てくるよ」
「ずっと寝てていいって。お腹が空いちゃった時のために何か用意しとくからさ」
「悪いな」
「パーティー当日に副寮長がいない方が困るし」
「自分の仕事が増えるからだろ?」

 ケイトはペロッと舌を出しておどけるように笑った。しかしすぐに真面目な顔になる。

「本気で心配してるんだからね。いつもみたいにリドルくんに知られたくないって言うならちゃんと休んで」
「……わかったよ」

 どこか怒っているようなケイトに見送られ、トレイは大人しく部屋へ戻った。部屋に入るとどこからか流れてくる冷たい空気に身震いする。窓は閉まっているし、そもそも凍えるほど空気が冷える季節ではない。トレイは静かにドアを閉め、マジカルペンを手に持った。
 バスルームの周辺だけ異様に暗い。トレイはゆっくりと足音を立てないように歩き、バスルームのドアノブに手をかける。ドアノブは氷のように冷たい。気持ちを落ち着かせるため一度深く吸い込み、ゆっくり吐き出すとトレイはドアを開けた。
 目の前には闇が広がっている。その暗闇の中からぴちょんと水の落ちる音が聞こえた。しゃりしゃりとアレが動く音も聞こえ、トレイはマジカルペンをかまえる。ソレは唐突にぬっと暗闇の中に浮かび上がるようにして姿を見せた。トレイはマジカルペンを振る。しかし何も起こらない。

「またか……!」

 トレイは後ずさりながらペンをしまい、部屋の中に何か使えるものがないか探した。その間もソレはしゃりしゃりと音を立て、鱗を床に落としながらトレイへ近づいてくる。
 部屋の中で役に立ちそうな物はなく、トレイは携帯でジェイドへ向けて一言、「きた」とだけ送った。そしてドアに向かって駆け出そうと足を踏み出した瞬間、心臓の辺りに鋭い痛みが走る。膝から崩れ落ちるように床に倒れたトレイは携帯を掴んだままの手で胸を抑えた。
 呼吸が苦しくなりぜぇぜぇとあえぐように息をするが、心臓はギリギリと絞めつけられるように痛む。吐き出す息が真っ白になるほど部屋の気温は低くなり、手足が冷えていく。しかしトレイの額からは汗が垂れ、クローバー型のラグに染みを作った。ぴちょん、ぴちょんと水の落ちる音がやけに頭に響く。トレイは視界が徐々に暗くなるのを感じながらも、立ち上がることもできず体を丸めた。その時、手に持っていた携帯が着電を知らせ、震動する。きっとジェイドだ。トレイはほとんど力の入らない指でなんとか携帯の画面に触った。









 ジェイドが携帯を手に取ったのは完全に気紛れだった。ラウンジの仕事の休憩時間に手持ちぶさたになり、なんとなく手に取った携帯は着信を知らせるランプが光っている。画面にトレイの名前が表示され、ジェイドはふふっと小さく笑った。また怖い夢でも見たのだろうか。しかしメッセージアプリを開いたジェイドはその言葉を見て動きを止める。

「きた」

 たった一言。きた、とは。ジェイドは真っ先に鱗に覆われたアレを思い出した。まさか、襲われているのか。
 ジェイドはがたんと大きな音を立て勢いよく立ち上がり、そのまま走り出した。テーブルに置いていた帽子が落ちるのが見え、休憩室にいた寮生たちが驚きの声をあげる。だがそんなことにかまってはいられない。
 走りながらトレイへ電話をかけるが、手元が揺れうまく画面が押せない。ラウンジを飛び出した時、「ジェイド!?」とフロイドに呼び止められたが振り返らず走り続け、ようやく電話をかけることが出来た。その時に寮服のストールもどこかに落としてきたことに気づく。それでもジェイドは鏡に飛び込むようにして鏡舎へ出た。
 コール音が響く。走ったことで上がった息を落ち着かせようと呼吸を繰り返すが、焦りから全く落ち着くことはなく、むしろコール音を聞くたびに心臓がバクバクと激しく脈打った。

「……ジェイドか……?」
「トレイさん!今どこですか!?」

 苦しげなトレイの声に、ジェイドはほとんど叫ぶようにして言った。ぜぇぜぇと喘ぐような呼吸が電話越しに聞こえジェイドは胸が焼けるような焦りを感じる。額から汗が吹き出し、こめかみを伝っていくのがわかった。

「へ、やに……」
「部屋ですね!すぐに行きます!」
「ジェイド、」

 トレイの言葉をさえぎるようにぶつんと電話が切れる。不自然な電話の切れ方により不安が募りジェイドはハーツラビュル寮への鏡へ飛び込み、全速力で走った。寮の扉を音を立てて開け放ち、何事かと状況を飲み込めていないだろうハーツラビュル寮生たちを突飛ばし、トレイの部屋へ向かう。

「ジェイド!何事だい!?」

 階段を駆け上がるジェイドの前に顔を真っ赤にしたリドルが立ちふさがった。マジカルペンをかまえ、今にも首をはねそうなその形相にも怯むことなくジェイドは走る。

「トレイさんが危ないんです!」
「え?」
「失礼します!」

 必死に叫んだジェイドにたじろいだリドルの横をすり抜け、ジェイドはトレイの部屋にたどり着いた。ドアノブを掴むとあまりの冷たさに一度手を離してしまう。けれどジェイドはすぐさまドアノブを掴み直し、ガタガタと扉を揺らした。しかし鍵がかかっているのかドアが開くことはない。

「ジェイド!どういうことだい!」
「なに?どうしたの?」

 ジェイドに追い付いたリドルと騒ぎを聞き付けたらしいケイトがトレイの部屋の前に集まって来た。その瞬間、ばんっ!と音を立てドアが開き、ジェイドは転がるようにして中へ入る。ジェイドが素早く身を起こすと目の前で再び音を立ててドアが閉まった。とりあえずドアはリドルがどうにかしてくれるだろうと、ジェイドは立ち上がる。
 トレイの部屋の中は明かりがついているのにも関わらず、薄暗かった。部屋の端の方は闇に包まれ、部屋の中は真冬のように異様に冷えきっている。何度か訪れたことのある部屋と同じだとは思えない奇怪な雰囲気にジェイドはごくりと固唾を飲んだ。

「トレイさん、どこですか」

 トレイからの返事はない。ジェイドはマジカルペンを握りしめながら、一歩足を踏み出す。ぴちょん、と水の落ちる音がした。すぐさま音のした方へペンを向けるが何もいない。ジェイドはペンを握り直し、部屋の中をじっくりと見回した。クローバー型のラグの上に何かがいる。よく目を凝らして見れば、それは体を丸めるようにして床に倒れているトレイだった。

「トレイさん!」

 ジェイドはトレイに駆け寄り、その体を仰向けにした。トレイの顔は白く、唇は紫色へ変わっている。心臓が凍るような心地がした。息が荒くなり、手が震え、全身から汗が吹き出してくる。

「トレイさん?」

 名前を呼びながらジェイドはトレイの口元に震える手をかざした。微かに息がかかる。まだ呼吸をしているのだとわかり、涙が滲んだ。けれど早く処置しなければ死んでしまう。
 ぴちょん、しゃりしゃり、ぴちょん。部屋の至る所から音が聞こえた。けれどアレの姿は見えない。とにかく今はトレイを部屋から出そうとジェイドはトレイを肩に担ぐように抱え上げる。

「えっ」

 しかしジェイドは立ち上がることが出来ずに床へ倒れ込んだ。その拍子にマジカルペンとポケットにいれていた貝殻が飛び出し、床の上を滑っていく。ジェイドはとっさにトレイを庇うように下敷きになったため、打ち付けた体が痛んだ。それでもすぐさま上半身を起こし、なぜ立てなかったのか確認するため自分の下半身を見下す。
 ジェイドの下半身は尾びれへと変わっていた。薬が切れたにしては上半身が人間のまま下半身のみが元の姿に戻るなんてことはおかしい。ジェイドは変身薬を持ってきていないことに舌打ちをした。
 水の落ちる音と鱗の擦れる音がし、音がした方を見るとアレが横たわるトレイの真横に立っていた。ジェイドはとっさに仰向けに倒れているトレイに覆い被さり、ソレを睨み付ける。ぴちょん、ぴちょんと水の落ちる音がしたかと思えば、ジェイドの尾びれは激痛に襲われた。

「ぐうっ!」

 うめき声が漏れ、あまりの痛さに呼吸が止まった。引きちぎられるような痛みにのたうち、尾びれが床を叩く。それでもなおジェイドはトレイに抱きつきながらソレを下から睨み付けた。今度は激しい頭痛に襲われる。トレイのシャツを掴んでいる手にも力がこもり、ジェイドは痛みからトレイの胸に頭を押し付けた。弱々しいトレイの鼓動が聞こえる。今にも消えてしまいそうなその音にジェイドは目の前が真っ白になっていく気がした。
 しゃりしゃりと鱗を落としながらソレはジェイドの目の前でしゃがみ、トレイへ手を伸ばす。ガンガンと鈍器であたまを殴られるような痛みに、尾びれの痛みも相まって訳がわからなくなる。ぐにゃぐにゃと世界が歪んでいるような感覚さえした。それでも、ただ得体の知れないソレにトレイを奪われたくなかった。怒りにまかせてジェイドは力を振り絞り、頭を持ち上げる。ソレの指先がトレイに触れる寸前、ジェイドは鋭い歯を剥き出しにして叫んだ。

「僕のトレイさんに触らないでください!」

 ピシッと何かがひび割れるような音が部屋に響いた。ソレはジェイドの勢いに怯んだのか手の動きを止める。頭が痛い。そろそろ頭のどこかが割れて血が噴き出してもおかしくないだろう。尾びれも相変わらず痛みは消えない。尾びれ全体が何かに噛みつかれて、むちゃくちゃ引きちぎられているようだ。

「あなたにはトレイさんの髪の毛一本だって差し上げません!頭の先から爪先まで全て、全て僕のなんですから!」

 バリン!っと何かが砕ける音がした時、ジェイドも限界を迎えた。どさりとトレイの体の上に力なく倒れ、意識を手放す。意識が途切れる寸前、口の中に血の味がしたような気がした。


・・・


 暖かい水の感覚に目を開くと、ジェイドは海の中にいた。太陽の光が射し込む明るい海の、射し込む日の光を目で追うように下を見れば海底に沈んでいく人影があった。辛うじて届いている日の光で顔が照らされるとジェイドはひゅっと息を飲む。慌ててその人を追いかけようと尾びれを動かすがまともに前へ進まない。その間にもその人は沈んでいく。焦燥感からより強く尾びれを動かしてもジェイドはまともに泳ぐことができなかった。
 絶望感に打ちのめされ、心が沈んでいくのがわかる。もうその人の姿は見えない。ジェイドは自身の唇を強く噛んだ。小さな痛みと共に赤い液体が海水に混じって消えていく。あの人は奪われてしまったのだろうか。目の奥がツンと痛くなってジェイドは固く目をつぶった。

「ねえ!」

 遠くから聞こえたその声に目を開けば、海の底からあの人を抱えた人魚がジェイドに向かって泳いで来ているのが見えた。人魚はどこか晴れやかに笑っている。

「手伝ってちょうだい」

 ジェイドは尾びれを動かした。今度はちゃんと泳ぐことが出来る。ジェイドは今度こそ存分に尾びれを動かし、ものの数分で人魚の元へ着いた。

「ほら、ちゃんと捕まえてなきゃ」

 そう言いながら人魚は抱えていた人間をジェイドへ渡す。ジェイドは何度も大きく頷きながら人魚から受け取ったトレイの体を強く抱き締めた。

「海面に向かって泳ぐのよ」

 人魚は日の射し込む明るい海面を指差す。「あなたは?」と問おうとしてジェイドは声が出ないことに気がついた。困惑しながらも人魚を見つめると、人魚は満面の笑みを浮かべながらジェイドの背中を押す。

「早く行かなくちゃ」

 ジェイドはゆっくりと泳ぎだし、徐々にスピードを上げた。ちらりと人魚を振り返れば、まだ満面の笑みで笑っている。

「もう大丈夫よ!」

 ジェイドが海面に顔を出す瞬間、嬉しそうな人魚の声が聞こえた。