今度の休みにデートしようか

好きになってしまったから手を繋ぎたいし、それ以外だってしたいけれどもたつくトレジェイの話。
※やたら照れて恥ずかしがるトレイとジェイドしかいません。





「お前のことが好きみたいなんだ」
「はい?」

 誰もいない植物園。ついさっきまで他愛もない会話をしていたはずだとジェイドは首をかしげた。トレイは先ほどまで葉の剪定をしていた手を止め、ほんのり頬を赤く染めながら真っ直ぐにジェイドを見つめている。

「恋人になってくれないか」
「それは僕と交際したいということですよね?」
「ああ」

 緊張した様子のトレイをジェイドはじっくりと眺める。微かに赤くなった顔と、額にじんわりと汗をかくその姿にくすりと笑いが零れた。

「いいですよ」
「ほ、本当か?」
「なぜ疑うんです?」
「いや……ジェイドのことだからてっきり断られると思ってたんだ」

 安堵した様子で深く息を吐くトレイにジェイドはくすくすと笑う。トレイの過去の交際については既に調べてある。十中八九、この顔が好みだったのだろう。以前に苦労性で可哀想な、かわいい後輩ではないと教えたはずだが、まさか交際を申し込まれるとは。それとも自称普通の男の心を惹き付けるようなことを自分は無意識にしたのだろうか。

「これからよろしくな、ジェイド」
「ええ、こちらこそ」

 何はともあれ、これからの毎日が今より少しでも楽しくなればいいとジェイドは思っていた。


・・・


 付き合い始めた翌日から明らかにトレイと会う時間が増えた。付き合う前からお菓子の味見や紅茶の試飲、植物園で偶然会った時、他にも何かと理由をつけて顔を合わせる機会はあったが数えるまでもなく会う回数は多くなった。
 それはトレイがジェイドにわざわざ会いに来てくれるからだということはわかる。昼食は何か理由がなければ二人で食べるようになった。朝と夜だけはラウンジの仕込みや仕事があるのでさすがに一緒には食べることはない。
 けれど授業と授業の合間に「腹が減っただろう」と毎日のようにお菓子を持ってきてくれる。時々、そのお礼を持ってジェイドが会いに行けば、トレイから喜びを隠しもしない笑みを向けられた。

「ウミガメくん、ほんとにジェイドのこと好きだよね」

 今日もわざわざお菓子を届けに来て、朗らかに笑い手を振りながら去っていくトレイを見送ったあと、フロイドがぽつりとそう呟いた。ジェイドは手の上にあるマフィンを見つめながら首をかしげる。
 好き、なのだろうか。まあここまでしてもらっているのなら好かれてはいるのだろう。しかし、ジェイドが陸に上がってから学んだ人間の恋人たちが行うようなことをトレイとほとんどしていない。それこそ食事を一緒にとるくらいだ。そういえば手を繋いだことはあっただろうか?

「ジェイド嬉しくねーの?」
「いえ……嬉しい、のでしょうか……」

 煮え切らない答えにフロイドもジェイドと同じように首をかしげた。トレイと過ごすことに嫌悪感はない。むしろ心地いいと感じるが、それは恋情なのだろうか。

「ウミガメくんとちゅーするのとか嫌なわけ?」
「どうでしょう。したことないので」
「えっ?まじで?デートは?」
「デート……校外へ出かけたことはありませんが休日にケーキを食べたりはします」
「それだけ……?」

 ぽかーんと呆然としているのかよくわからない表情でフロイドは固まっていた。そんなフロイドにジェイドは苦笑する。

「課題を見てもらうこともありますよ」
「ウミガメくんとほんとに付き合ってんの?」

 付き合っているのだとは思う。トレイがジェイドにここまで良くしてくれるのは後輩だからではない。それはさすがにトレイの他の後輩たちへの接し方を見ていればわかる。
 それでも僅かにジェイドの胸がざわめく。トレイと付き合い出してもうすぐ一ヶ月が経とうとしていた。

「……ただ、人魚がどういうものなのか気になったのかもしれせんね」
「ウミガメくんそんなことする人間には思えねぇけど?」
「あの人は普通ではないのでわかりませんよ」
「ふーん?」

 次の授業開始を知らせる鐘が鳴ったのと同時にトレイの話に興味を無くしたのかフロイドは気だるげに自身の教室へ向かう。ジェイドも遅れぬように足早に歩き出した。

 自分で言ったことではあるものの、トレイは興味本意で自分と付き合っているのではないか?と考え出すと止まらなくなった。むしろ興味を持ってもらえているだけいいのかもしれない。けれど好意は既に無いが外聞がよくないからと惰性で関係を続けられていたらと思うと気持ちが沈んだ。
 しかしなぜ自分がこんなにも悩んでいるのだろうか?ともジェイドは思った。興味本意で付き合ったのは自分の方だ。ただ日々のほんの少しの刺激を期待していただけなのに、これじゃあまるで、自分がトレイへ恋をしているような……。

「はぁ……」

 不意に出てしまったため息は思いの外キッチンに響いた。ラウンジの開店準備のために忙しくなく動いていた寮生たちが一瞬だけ止まったのがわかる。ジェイドが黙ったままでいると様子をうかがいながらもそろそろと動きだし、数分後には全員が先程のように黙々と準備を進めていた。

「お前も働け」

 突如かけられた声にジェイドはうつ向かせていた顔を上げる。しかめっ面のアズールと目があった。

「キッチンの隅に立って陰鬱な空気を撒き散らさないでください」
「アズール……トレイさんはなぜ僕と付き合っているのだと思います?」
「僕の話は無視か?」

 アズールはわざとらしく大袈裟にやれやれと首を振った。いつもならばすんなりと出てくるはずの嫌味すら浮かばず、ジェイドはそんな自分に内心驚く。トレイに振り回されていることが少しだけ腹立たしかった。

「そんなこと僕が知るわけないじゃないですか。トレイさんのことですから好意はあるのでは?」
「……そうですかね」
「全く好意のない相手と付き合うとは思えませんが。むしろお前の方が興味から付き合ったのでは?」

 ジェイドは言葉につまった。それは確かにそうだ。日々が少しでも楽しくなればと交際を受け入れた。しかしどうだろうか。楽しくなるどころか気分が沈んでいる。

「本心が知りたいのならお前には全く方法がないわけではないでしょうに」
「……ええ、そうですね」

 そっと自分の左目に触れる。うまく魔法にかかってもらえれば知りたいことを聞き出せるだろう。けれど、魔法を使うのは何か違う気がした。契約違反者との話し合いではそんなこと微塵も思わないのに。いや、そもそもトレイと契約違反者は前提が違いすぎる。

「とにかく!もうすぐ開店ですよ。表には出なくていいのでしっかり働いてください」

 黙ったまま考え込むジェイドの顔の前で手を叩いたアズールは踵を返し、颯爽と去っていった。再びジェイドはため息を吐き出す。とりあえずは夕食時の腹を空かせた客たちを満足させなければ。

「ジェイド〜!アズールが機嫌悪かったけどなんか知ってる〜?」

 のろのろとジェイドが動き出したタイミングでフロイドがキッチンへ入ってきた。心底不思議そうな顔で頭の後ろをかいているフロイドに、ジェイドは少しだけ申し訳なくなり眉を下げる。

「すみません、僕のせいです」
「ジェイド何したの?」
「トレイさんが僕と付き合ってる理由は何だと思うか聞きました」
「まだそんなこと考えてんの?」
「ええ、まあ……」

 アズールの機嫌が損なわれた理由に納得したのかフロイドは「はぁ……」と小さく息を吐いた。ジェイドはのったりとした動作で準備を進めるが、集中は出来ない。

「そんなんで仕事できんの?指切んなよ」
「……もし僕が怪我をしたらトレイさんは心配してくれますかね」
「えぇ?ウミガメくんのことだししてくれるんじゃね」
「そうですよね……」

 だがそれは恋人に対するものだろか。トレイは副寮長だ。それを抜いてもあの性格では誰が怪我をしても「大丈夫か?」と声をかけるに違いない。

「……もうさぁ、確かめてきたら?」
「え?」
「ジェイドが自分で確かめたらいいじゃん。そんでもしウミガメくんに嫌なこと言われたらオレが絞めてきてあげる」

 優しさというより、今のジェイドへの面倒くささが勝ったがゆえの発言だとは思ったが、それでもジェイドはフロイドの気づかいに感激した。だがやはり魔法を使う気にはなれない。

「ありがとうございます、フロイド。ですが、トレイさんに魔法を使って本心を吐かせる気にはならないんです」
「はぁ?じゃあ魔法使わないでジェイドがやって欲しいこととかやりたいことすればいいじゃん」
「僕がやりたいこと……?」
「ちゅーとかしたことないんでしょ?」

 ジェイドはフロイドの言葉にはっとした。してもらえないのならば、こちらからすればいい。恋人なのだから許されるはずだ。いや許されるも何も、恋人が恋人らしいことをして悪いことがあるか?キスはまだ早い気もするが手を繋ぐくらいならば出来るかもしれない。

「そうですね……ふふふ、早速明日やってみます」
「あはっ、頑張ってねジェイド」

 暗かった気持ちはどこへ行ったのか、明日が楽しみでたまらなくなりジェイドは笑みを浮かべた。フロイドも笑顔を見せ、足取りも軽くキッチンから出ていく。ジェイドは先ほどとは打って変わっててきぱきと食材の下ごしらえに取りかかった。


・・・


 手を繋ごうと思った。しかしトレイを目を前にすると上手く体が動かなくなる。朝食や昼食、授業の合間にさえチャンスはあったがジェイドは手を強く握りしめたまま、トレイに触れることすら出来なかった。
 トレイを目の前にするとばくん、ばくんと激しく脈打つ心臓の音が頭の中にこだまするように響く。それに気を取られ、不自然に見られないようにと気にかければかけるほど、いつもと同じように振る舞えなくなった。
 トレイに変だと思われはしなかっただろうか。そんなことばかり考えていると、いつの間にか放課後を迎えていた。その事にほんの少し絶望しながらジェイドは校舎を出て寮に向かって歩く。

「ジェイド〜!ウミガメくんと手繋げたぁ?」
「……フロイド……」

 明るく声をかけられ、ジェイドは立ち止まる。もごもごと口を動かしたものの、はっきり出来なかったと言葉にするのは悔しく感じ、何も声にはならなかった。

「ダメだったんだぁ」

 口元を歪め、面白がるフロイドへジェイドは何も言わなかった。無言のままジェイドが再び歩き出すと、フロイドも隣に並んで歩き出す。

「さっきカニちゃんとサバちゃんがウミガメくんは植物園にいるって言ってたけどぉ?」
「え?」

 足を止め、勢いよく振り返るとにんまりと笑うフロイドと目があった。ジェイドの頭の中ではトレイのこと、今日のラウンジのこと、仕事をすっぽかした後のアズールの顔まで一瞬にして思い浮かんだ。しかし、既に体は植物園の方へ向き、一歩どころか大股で五、六歩進んでいる。

「アズールに謝っておいてください!」
「えー!?やだー!」

 背後のフロイドへ叫ぶと、そう叫び返され、ついでに大きな舌打ちまで聞こえた気がしたが無視して走り出した。これが最後のチャンスだと、絶対に手を繋いでみせると自分へ言い聞かせながら植物園へとたどり着く。
 とたんに心臓が騒がしく脈を打ち始めた。そろりと入り口から中を覗いてみるが、植物の葉や花に視界を遮られ奥まで確認することはできない。ジェイドは息を殺しながら中へ入った。
 放課後だからか、植物園の中程まで進んでも誰もいなかった。もちろんトレイの姿も見えない。ジェイドはどこかホッとしたような、落胆したような気持ちからつめていた息を吐き出す。その時、

「ジェイド」

 後ろから名を呼ばれ、文字通り肩が跳ねた。肩越しに後ろを見ればそこには制服姿のまま、植物園の備品である軍手を着けたトレイがいる。

「驚かせないでください」
「あはは、悪いな。キノコの様子でも見に来たのか?」
「……いえ、トレイさんがここにいると聞いたものですから」
「会いに来てくれたのか」

 そう言いながらトレイははにかむように笑う。その表情に気恥ずかしさを感じながらジェイドはトレイへ歩み寄った。

「トレイさんは何を?」
「部活で使う植物の球根を植えに来たんだよ。ついさっき終わったけどな」

 トレイの言う通り作業は終わっているらしく、身に付けている軍手には土が付着していた。ジェイドは道具を片付けていくトレイの後につき、じっと手元を見つめる。トレイが汚れた軍手を外していく様子を黙って見ながら、何度か手を伸ばそうとしたがやはり出来なかった。

「俺はもう寮に戻るけど、お前はどうする?」
「……僕も戻ります」
「じゃあ一緒に行くか」

 煩い心臓と、焦燥と、どこか温かい気持ちを抱えながらジェイドはトレイと共に歩き出した。ちらり、ちらりと様子をうかがいながら手を繋ぐタイミングを計る。そしてトレイの話へ曖昧な相づちを返し、歩き続け、気がつけば鏡舎は目の前だった。

「ジェイド」
「は、はい」

 ジェイドは名を呼ばれ、慌てて返事をしたが声が裏返ってしまった気がして顔が熱くなった。なぜ、トレイと一緒にいると何もかも上手くいかなくなるのだろう。

「さっきから俺の手を気にしてるみたいだが何かあるのか?」

 すっと目の前に差し出されたトレイの右手にジェイドは息を飲んだ。もうこんなチャンスはないかもしれない。今日の中でも一際大きく心臓が音を立てた。

「あの!」

 ジェイドは思わず両手でトレイの手を掴んだ。すぐにこれは手を繋ぐとは言わないことに気がついたが、やっと触れることのできたトレイの手を離すことは簡単には出来ない。
 トレイは素手だが、ジェイドはいつも通り手袋をしている。それだというのに、触れあっているところが燃えるように熱い気がした。この熱がトレイへ伝わってはいないだろうか。想像ではもっと自然に手を繋ぐことを想定していたが端から見れば不思議な光景だろう。もしかしたらトレイにはジェイドがしたいことすら伝わってはいないかもしれない。

「あ、あの、手を……トレイさんと手を、繋ぎたくて……だから、あの」

 呂律まで回らなくなってしまったのか上手く言葉が出てこないことに苛立ちよりも焦りが勝り、どんどんとまともに話せなくなっていく。心臓が破裂してしまうのではないかと思うほど苦しく、血液が沸騰しているのではないかと思うほど体が熱い。ジェイドは息苦しさにあえぎながら、なんとかトレイの顔を見た。

「あ……」

 これでもかと言うほど眼鏡の奥で大きく見開かれたマスタード色の瞳。呆然とした表情。ジェイドと同じような照れは見えない。トレイはジェイドの両手に握られた右手を何も言わずに唖然と見つめ続けていた。
 数秒前まで感じていたはずの体の熱さが嘘のように引き、代わりに心臓のあたりが氷のように冷たくなった。その冷たさは瞬く間に身体中に広がり、指先の感覚が無くなる。あんなにも煩かった心臓の音はもう聞こえない。

「……突然、すみませんでした。ラウンジの開店時間なので僕は行きますね」

 あんなにも離したくなかった手を離し、鏡舎へ駆け込み、その勢いのまま寮の鏡へ飛び込んだ。ジェイドは置き去りにしたトレイを振り返らず、トレイも走り去るジェイドを呼び止めはしなかった。


・・・


 ジェイドは昨日、思わず逃げるように寮へ戻ってしまったが、今は悲しみよりも怒りを抱えていた。一途な気質の人魚を捕まえておきながら、あの反応はなんだ。もし、別れるなどと言い出された日にはどうしてくれよう。
 確かにショックは受けた。悲しくもなった。ラウンジの仕事はフロイドに任せきったため文句を言われ、アズールにも小言を言われ、事務仕事を一人でやるはめになったが、もはやそんなことはどうでもよかった。それほどまでに頭にきている。こうなったらトレイの心を手に入れてしまおう。

「おはようございます、トレイさん」

 早速、ジェイドは教室に向かう途中の廊下でトレイを呼び止めた。トレイはいつもと同じようにぱっと目を輝かせる。
 それが親しい間柄の者にしかわからない変化なのだとジェイドが気づいたのは付き合い始めて少ししてからだった。だから本当に好かれているのだと思っていた。ただ今は、トレイにとって他人とよく顔を合わせる人物との対応が違うだけかもしれないと思う。

「ジェイドか。おはよう」

 ごく自然に伸ばされたトレイの手がジェイドの手を掴んだ。ぎゅっと握られた感覚はあるものの、何が起きているのかジェイドには理解出来ず、無駄に何度も瞬きを繰り返してしまう。

「昨日はごめんな。嬉しかったよ」

 頭が真っ白になると言うのはこういうことなのか。ジェイドは呆然とトレイの手と繋がれた自身の手を眺める。じわりじわりとようやく血が通い始めたかのように熱を持ち始めた手で、ゆっくりとトレイの手を握り返した。

「昨日のトレイさんも……驚いていたのですか?」
「まあな」
「……僕と手を繋ぐのが嫌なのかと、思いました……」
「え?そんなわけないだろ。こんなことだってしたいさ」

 トレイにぐっと手を引かれ、ジェイドはバランスを崩し前のめりになる。突然のことにジェイドは目を白黒させた。その隙にとでもいうのかトレイはジェイドの頬に顔を寄せ、リップ音を立ててキスをする。

「は……」

 トレイの唇が触れた感覚だけが鮮明に伝わり、逆に他のことは何もわからない。ジェイドは前のめりになった体勢のまま呼吸すら忘れて固まってしまった。何かトレイに声を掛けられたような気がしたが、音は聞こえても言葉が理解できず、返事すらままならない。
 そんなジェイドが正気を取り戻したのは授業開始を知らせる鐘の音が響いたお陰だった。息を止めていた苦しさから大きく息を吸うと、途端にドッドッドッと激しく脈打つ心臓の音までもが聞こえてくる。
 すぐさま体勢を直したジェイドは火がついたかのように熱い顔を隠すように口元を手で覆いながらトレイへ一言告げる。トレイが笑いながら頷いたのはわかったが、自分が何と言ったのかわからない。わからないまま教室へ走り、どうにか遅刻にはならなかったものの、最後にトレイへ何と言ったのか思い出すことは出来ず、変なことを言ってはいないかと心の中で頭を抱えた。心臓の音が煩かった。


・・・


 昼食の時間を迎え、食堂でトレイはジェイドの姿を捜していた。
 朝に頬とはいえキスしてしまったことを思い起こすと気恥ずかしさから誰に向けるでもなく苦笑してしまう。手を繋ぐだけで顔を真っ赤にしていたジェイドには少し可哀想なことをしたかもしれない。

「トレイさん!」
「おっ、ジェイ……」

 パタパタと小走りで駆け寄ってきたジェイドに片手を上げて応えたところまでは普段通りだった。だが、突如ジェイドに胸ぐらを掴まれ、強い力で引き寄せられる。驚く間もなく、ジェイドの顔が近づいて来たかと思った瞬間には口の端に柔らかいものが触れた。

「驚きましたか?」

 ジェイドは得意気に笑いながらシワになったトレイの首もとを直している。トレイは呆けたままジェイドにキスされた場所を指先で触れた。
 やられっぱなしは気にくわないと、朝のキスへの意趣返しなのだろう。唇でもなく、頬でもない。だが口の端という微妙な場所へのキスなのは不思議だ。

「驚いたよ……」
「それはよかったです」

 朝の照れて動揺し慌てふためくジェイドの姿を脳裏に思い浮かべながら、目の前のジェイドとの違いに驚愕する。しかし、よく見ればジェイドの耳は朱色に染まっていた。

「ジェイド、お前恥ずかしくなったな?」
「……顔を赤くしているトレイさんには言われたくありません」

 トレイの言葉に悔しそうに顔を歪めたジェイドの頬はみるみるうちに赤くなった。リンゴみたいだ、とぼんやり思いつつもトレイ自身も顔どころか体の中まで熱くなっている。

「……手を、繋ぎたくて」
「うん?」
「トレイさんに触れたくて、触れて欲しくて……やってもらえないならばと僕からしてみましたが……こんなにも胸がいっぱいになるんですね……」

 頬を赤く染めたままはにかむジェイドの可愛らしさにトレイは無意識に奥歯を噛み締めた。胸の奥からの衝動に突き動かされるようにトレイは、もじもじと自分の指を絡ませているジェイドの手を取り、ぎゅっと握る。するとジェイドは一瞬驚いたものの嬉しそうに目を細めるため、トレイはより強く歯を噛み締めることになった。

「俺もジェイドと手を繋ぎたかったんだ。キスとか、それ以外も」
「……待ってたんですよ?」
「ごめん。俺も照れ臭かったんだよ」

 ふっと笑いだしたジェイドに釣られてトレイも小さく笑った。けれど二人に近づいてくる人影に気づくと、トレイとジェイドは同時にその人へ顔を向ける。

「すっごいいい雰囲気なのにごめんね……でもここ食堂だからさ……」

 困りきった顔のケイトの消え入りそうな声を聞き、トレイははっと周囲を見回した。無視して食事をする者、興味深そうに見てくる者、遠巻きにしている者、様々な注目を集めていたがとりわけハーツラビュルとオクタヴィネルの生徒たちは気まづそうに隅の方で固まっているのが見える。トレイは申し訳なさと決まりの悪い思いから思わず乾いた笑いが零れた。

「悪い。ありがとな、ケイト」
「リドルくんまだ来てなくてよかったね」
「本当にな。行こう、ジェイド」

 さすがにこの空気の中で食事をする勇気はない。トレイは繋いだままのジェイドの手を引き、歩き出した。

「僕は気にしませんよ?」
「俺が気にするんだよなぁ」
「お昼ご飯はどういたしましょう?」

 ぐぅ、と空腹を主張するジェイドの腹の音にトレイはくつくつと笑った。手を引かれるままトレイについて来ているが、ジェイドはトレイのその態度へむっとした顔で口を尖らせる。

「タルトならたくさん焼いてあるんだ」
「でしたら早く行きましょう」

 ぱっと顔を明るくしたジェイドに手を引かれ、トレイはその態度の豹変ぶりに小さく声を出して笑った。

「なぁ、ジェイド」

 ジェイドはどこか期待のこもった目でトレイを振り返る。トレイは愛しさに目を細めながら口を開いた。