04

「陸には何があると思う?」

 太陽の光すら届かない海の奥底で片割れが上を見上げながらそう言った。目の前を横切るようにたゆたうクラゲを目で追いながら、何があるのだろうと考えてみる。
 陸には大地があり、空があり、人間がいて、人間が暮らすための道や町がある。風が吹き、炎が燃え、水の音が聞こえるかもしれない。

「そうですね……きっと海にはない楽しいことがあると思いますよ」
「ほんとぉ?いつか行ける?」
「さあ、どうでしょう?」

 答えが気に食わなかったのか片割れは口をへの字に曲げ、ぎゅっと眉を寄せた。その顔に笑いを溢すとより眉間のしわが深くなる。

「二人ならどこでも楽しいはずです。それに今はあのタコの彼が楽しませてくれますよ」
「あはっ、あのタコちゃん面白いもんねぇ」

 まだ蛸壺に入れてくれないタコの人魚の顔を思い浮かべ、片割れと笑い合う。
 いつか陸に上がる時が来ても片割れと共に行きたい。共に陽の光を浴びて、足元を比べながら歩くのもいい。何があるのか想像するだけで楽しかった。

 ジェイドは目を開いた。
 墓穴に仰向けに寝転び、胸の上に帽子を置いて、それを押さえるように両手を添える。これが普段からジェイドが墓穴にいるときの体勢だった。
 墓穴から見える空は黒い雲が覆い尽くし、そこからいくつもの雨粒が落ちてきている。目を開いていると時々水の粒が入り込んでくるのが、痛くはなくとも鬱陶しく、また目を閉じる。だが、目を閉じると目蓋の裏にはもうどれ程昔の出来事なのか曖昧な記憶が浮かび、つい目を開いてしまう。そんなことを繰り返していた。
 雨の音、匂い、濡れる感覚。全て海の中にいた頃はわからなかった。海に帰りたいと思わないと言えば嘘になるが、陸で干からびてしまった今、海へ帰れるのかと自問するといつも答えに困ってしまう。

「……つまらないな」

 ここ最近は目を閉じていても昔のことはあまり思い出さなかった。思い浮かべるのはトレイが人を殺す瞬間や、墓地で穴を掘る時のことばかり。しかしそれもトレイが身を潜める必要が出てから無くなってしまった。

「なら、うちに来ないか?」

 頭上からかけられた声に、ジェイドは閉じていた目を開け、体を起こした。上を見上げると黒い傘を差しながら穴の中を見下ろしているトレイと目が合う。
 ジェイドは立ち上がって、手に持っていた帽子を被ると墓穴から出た。トレイはそんなジェイドへ傘を差し出してくる。

「僕には必要ありませんよ。トレイさんが風邪を引いてしまいますし、そもそも僕の服が濡れることはありません」
「そうは言っても、髪がびしょ濡れだぞ」
「でも僕は風邪を引くことはありませんから」

 ジェイドが傘を持つトレイの手を押し返すと、トレイは納得していなさそうな顔になった。それならば早く家に入ろうとジェイドに背を向けて一歩踏み出そうとするトレイの背に一言だけ「お待ちください」と声をかける。

「怪物を家の中に招くだなんて本気ですか?」
「お前は確かに怪物だろうが……ジェイドはジェイドだろ?」

 心の底から不思議に思っているような様子のトレイにジェイドは呆気に取られる。思わず黙り込んでしまったが、早く行こうと言うトレイに手を引かれるまま歩き出した。

「それにそういう話は迷信だろ」
「そうでしょうか?怪物はいますよ、ここに」
「でもお前は俺を騙して家に入ろうなんてしなかっただろ」

 だから、怪物を招いても大丈夫だとでも言うのだろうか。ジェイドは傘に隠れて見えないトレイの頭がある辺りをじっと見つめる。
 確かにジェイドは悪魔や吸血鬼ではなく、招かれなければ家に入れないという制約もない。だが、わざわざ怪物とわかっている者を招くのは酔狂だと思わずにはいられなかった。

「ほら、これを使ってくれ」

 家に入ってからさっそくトレイに手渡されたタオルを両手で持ち数秒見つめたあと、ジェイドは帽子を脱ぎ、水の滴る髪をがしがしと拭いた。トレイも同じように濡れたところを拭っていたのでそれが終わるのをぼんやりと立ったまま待つ。こんな人間のようなことをするのは久しぶりだった。
 無意識にトレイを凝視してしまったが、眼鏡をかけ直したタイミングで見られていることに気がついたらしいトレイはぎょっとした後、はにかむように笑った。その姿にジェイドも笑いながら、借りたタオルを返すために差し出す。
 だが、どこかそわそわしているように見えるトレイにジェイドは小さく首をかしげた。

「お前、食べ物は食べられるのか?」
「さあ……どうでしょう。この体になってからは食べたことがありませんから」
「なら試してみるか?ケーキを焼いたんだ」

 トレイに座るようすすめられ、ジェイドは大人しく椅子に座った。するとすぐに冷蔵庫から取り出されたホールのショートケーキがテーブルの上に置かれる。綺麗に塗られたクリームと均等に並べられた苺の美しさに感嘆の声が漏れ出た。

「ケーキは食べたことあるのか?」
「一度だけ。ですがこんなに綺麗ではなかった気がします」
「綺麗だって思ってくれたなら嬉しいよ」

 手際よく切り分けられたケーキと、同時にフォークを差し出され、ジェイドはわくわくとした気持ちでそれを受け取った。
 昔、片割れと食べたケーキは甘かった気がする。だが記憶は曖昧で定かではない。どんな味がするのか早く味わいたいとはやる気持ちをおさえながら、ジェイドはフォークで一口サイズに切ったケーキを口に入れた。

「どうだ?」
「……おいしい……トレイさん、おいしいです」
「よかった」

 ケーキを食べるジェイドにトレイが紅茶を用意していたのは視界の端で見えていた。しかし、それよりも食べることに夢中になってしまい、気がつけばトレイの分の一切れを残して、全てジェイドが食べ尽くしていた。
 さすがに食べすぎたかもしれない。ジェイドはどこか気まずい気持ちで紅茶に口を付ける。
 しかし、トレイは満面の笑みで「これも食べるか?」と最後の一切れを指差した。ジェイドがおずおずと頷くと、すっとケーキがのせられた皿が目の前に置かれる。

「実は他にもあるんだ。食べるか?」
「え?他にもあるんですか?」

 トレイはジェイドの反応に嬉しそうにしながら冷蔵庫からいくつかホールケーキを取り出してテーブルへ並べる。ジェイドはなんとなく見覚えはあるものの、どんなものか思い出せずにひとつひとつトレイに尋ねた。

「それはスフレチーズケーキ。こっちはガトーショコラ。そっちのは苺のタルトだ」

 ジェイドは両手で口元を覆いながら今日二度目の感嘆の声を漏らした。思わずトレイによって切り分けられていくケーキに釘付けになってしまう。
 切り終えたケーキのそれぞれ一切れづつ食べ終わる頃にはトレイが紅茶を淹れ直してくれていた。

「トレイさんにこんな特技があるなんて知りませんでした」
「実家がケーキ屋だからな」
「なるほど。納得のおいしさです。もう一切れいただいても?」
「好きなだけ食べてくれ」

 おかわりをしたガトーショコラにジェイドはフォークを突き立て、一口サイズに切る。トレイはそんなジェイドを微笑みながら見ているようだった。

「……ケーキを焼いて、人を殺せない鬱憤は晴れましたか?」
「なんだ、バレてたのか」
「僕を迎えに来たときから少し様子が変でしたし、趣味を禁止されるのはストレスでしょうから」

 ケーキをぱくりと口に含む。おいしさに笑うと、トレイは逆に浮かべていた笑みを消し、困ったように眉を下げると大きくため息を吐き出した。その様子にジェイドは笑みを深くしながら再びケーキを口に入れる。

「……前は原因を殺したから解決したが今回はそうもいかない」
「ずいぶんお困りのようですね」
「お前、面白がってるな?」
「ふふ、バレてしまいました」

 ジェイドは食べかけのケーキをそのままに椅子から立ち上がった。ゆっくりとした足取りでトレイに近づくと、不思議そうな目で見つめられる。
 ジェイドはトレイの片手を両手で掴み、にっこりと笑いかけながら胸の、ちょうど人間だったならば心臓がある辺りに触れさせた。

「僕でよろしければ刺してみませんか?」

 トレイはぱちぱちと何度か瞬きを繰り返す。困惑しているトレイに笑いかけながら、刺してもらえるよう心の中で祈るようにまた声をかけた。

「前も、そんなことを俺に言ったよな。死にたいのか?」
「まさか、違います。トレイさんに刺してもらいたい。それだけです」
「それがわからないんだけどな」

 手が微かに動かされたのを察してジェイドは両手をおろした。トレイは自由になった手をジェイドの胸から離す。困惑したような表情は変わっていない。
 どうして刺してもらいたいのか、トレイに関係あるのだろうか。トレイが刺す瞬間を、刺される側から見たい。たったそれだけなのに。

「僕は死ぬことはありませんが、その代わりに何度でも刺せますよ」
「なんだそれ」
 
 トレイは呆れたように笑った。だが、この誘いは今のトレイには魅力的なはずだ。

「刺すんですか?刺さないんですか?」
「……本当にいいのか?」
「ええ。何度も言っているじゃありませんか」

 ジェイドはトレイの目がぎらりと光ったのを見逃さなかった。気分が高揚し、うっとりと、鋭い目付きのトレイを見つめ返す。
 椅子から立ち上がったトレイはキョロキョロと家の中を見回した。擬似的とはいえ殺人を行うのにいい場所を探しているのだろう。しかしトレイの家は必要最低限の家具しかないとはいえ、それゆえに狭く、ジェイドが横たわるのに何も邪魔になる物が無い場所を探し出すのは困難だった。

「トレイさん」

 まだ場所を探しているトレイの手を取り、ジェイドはベッドへと向かった。トレイは一度、掴まれた手を引きかけたが何も言わずに大人しくジェイドについてくる。
 ベッドの傍まで行き、ジェイドは掴んでいたトレイの手を離してベッドの縁に腰かけた。トレイは未だに黙ったままそれを見下ろしてくる。無表情のはずがその両目だけ爛々と光らせ、興奮と狂気が入り交じったようなその視線に思わずジェイドの口角が上がった。
 天気が悪いためか外は暗く、キッチン以外の明かりは点けられていないためにベッドの周辺は薄暗い。けれどそんなことは気にせず、ジェイドはそのままぼすんっと音を立てながら背中からベッドの上に仰向けに倒れた。

「どうぞ。ナイフは既に持っているのでしょう?」
「それも気づいてたのか」

 パンツと背中の間に入れ、シャツで隠すようにしていたナイフを取り出しながらトレイは仰向けに寝そべるジェイドに跨がる。ジェイドの腹の辺りに跨がったトレイは両手でナイフを握り締め、大きく深呼吸をした。
 いつもナイフを刺す前にするトレイの癖だ。ついに刺してもらえるのだと、ジェイドも気持ちが昂ってくる。そんな高揚を抑えようとぐっと強く歯を噛みしめ、ベッドのシーツを握った。

「いくぞ」

 胸の飾りベルトを避けるようにナイフの切っ先がジェイドの胸にあてがわれる。ぐっと押し込まれ、ナイフの先が沈み込んだ時、トレイと目が合った。そのままお互いにそらすこともせずにじっと見つめ合う。
 その時にふと、死んだときのことを思い出した。ジェイドを押さえ付ける数人の男たち。そのうちの一人の手に噛み付き、指を数本引きちぎると男は激昂してジェイドの胸に鋭利な何かを突き刺した。恐らくジェイドが暴れた際に壊した何かの破片だろうとは思うが、熱を感じた後のことは覚えていないために詳しくはわからない。わかるのは、その後になぜかあの墓穴の中で怪物として目覚めたことだけだ。
 今はあのときのような苦痛は感じない。トレイへ意識を戻すと、ナイフが刺さっていくのに合わせて上半身を倒していたトレイの顔が目前にあった。
 距離が近すぎるためにトレイの輪郭がボヤける。それでも瞳の奥に熱が渦巻いているのは見てとれた。だが、何かが違う。何かに困惑したように揺れる瞳。その中で熱を孕んでいるのは確かだが、いつものトレイと何かが違う。
 もうすぐ鼻先が触れる、というところでトレイの動きが止まった。感覚からして恐らくナイフが柄まで刺さったのだろう。トレイは制止したまま動かず、ジェイドもトレイの瞳を覗き込み微動だにしなかった。
 体感にして数分間。時が止まったかのような錯覚を覚えたが、トレイが瞬きをする度に時が動いているのだと実感する。トレイの熱を孕んだ目は変わらず、戸惑いながらもジェイドを見つめていた。
 ジェイドはその目をもっとよく見てみたくなりトレイに手を伸ばす。その手が頬に触れた瞬間、トレイは跳ね飛ぶように体を起こした。

「……悪い」

 掠れた声でそう言い、トレイはジェイドの上から退いた。ジェイドは胸にナイフが刺さったまま、上体を起こしベッドの上に座る。

「どうでした?」
「……悪く、なかった……」
「それはよかったです」

 さっさとベッドから降りたトレイは片手で顔を隠すように覆い、軽くうつ向いている。ジェイドはそれをからかうようにニヤニヤと笑ながらナイフを胸から抜き取った。

「また我慢出来なくなったら言ってくださいね」

 トレイは返事をしなかったが、小さく、けれどはっきりと頷いたのがジェイドにはわかった。


   ▼


 見かけない顔が増えたなと、ジェイドは暗がりから町の様子を見て思った。全員が全員ではないだろうがもしかしたらトレイの様子を見に来た組織の者かもしれないと身構えてしまう。しかしそのことはトレイ本人もわかっているようで手出しするなよと既に注意されていた。
 その時はつまらない、と不満を漏らしたが今はそうでもない。ジェイドはトレイがどこか後ろめたそうにしながら「刺したい」と口にする瞬間が楽しくてたまらなかった。
 なんとなくいい気分で町の散策から墓地に戻ると、トレイが整備を行っていた。日課とはいかずとも墓守として数日ごとに掃除や除草を行っているのは知っていたが、日も暮れてきた時間帯にやっているのは珍しい。ジェイドは何かあったのかと期待しながらトレイに歩み寄った。

「お疲れ様です、トレイさん」

 握っていた雑草を抜き、それを地面に放るとトレイは顔を上げた。土のついた手で汗でも拭ったのか、頬に汚れがついている。
 ジェイドは笑いながらしゃがんでいるトレイへ手を伸し、親指で優しく汚れている頬を擦った。トレイは一瞬びくりと体を揺らしたが、それ以上の反応はせずにされるがままになっている。

「土でもついてたか?」
「はい。でももう綺麗になりましたよ」
「悪いな。ありがとうジェイド」
「いいえ。それよりもこんな時間にお仕事ですか?」
「ジェイドを待つ間の暇潰しだよ」

 僕を?とジェイドは首を傾げた。トレイは頷くと立ち上がる。それなりに長い時間待っていたのか足元には引き抜かれたたくさんの雑草が放られていた。

「アップルパイを焼いたんだが食べるか?」
「食べたいです」

 食いぎみにジェイドが答えると、トレイは少し声を立てて笑う。抗議するようにむっと口を尖らせると、さすがに笑うのは止めたが、笑いを我慢しているのは目に見えてわかった。
 それよりもジェイドはタルトを早く食べたい気持ちからトレイを急き立て、トレイの家に向かう。中に入ってからは早々にトレイがパイを出して紅茶の用意に取りかかり、その間にジェイドは二人分の皿など食器をテーブルに並べた。
 何度も食事に誘われるようになってから自然と分担されるようになり、今では何も言わなくともお互いに任せるようになったことだ。そのお陰で今回もすぐに準備が終わり、それぞれ椅子を座る。
 ジェイドはトレイの手によって切り分けられていくパイの様子を熱心に眺めた。

「今回も美味しそうです」
「ジェイドがいつも喜んでくれるから作りがいがあるよ」

 トレイがお菓子をよく作るようになった理由のひとつはそうだろう。だが、まだ殺しに行けない鬱憤をお菓子作りに没頭することで消そうとしている。ジェイドはそれをわかってはいても口に出すことはせず、静かに微笑んだ。
 お菓子を食べられるのは素直に嬉しい。けれどそれよりもお菓子を口実にジェイドを誘い、刺したいと懇願されるのかと思うと心が浮き立った。

「期待してたら悪いんだが、今日は話がしたくて呼んだんだ」
「おや……顔に出てましたか?」

 六等分に切り分けたアップルパイのひとつをジェイドの前に置きながらトレイは微笑した。ジェイドはトレイの目的がいつもと違うことは残念に思ったが、アップルパイを目の前にするとそれも気にならなくなる。

「話とは?」
「人魚はどうやったら人間になれるんだ?」
「トレイさんは人魚が嫌いではありせんでしたか?」
「嫌いとは言ってないな」

 でも好きでもないのだろう。
 もしジェイドの本当の姿を見たらトレイはどんな顔をして、何を言うのか知りたい。だが干からびた今のジェイドには人魚姿に戻るための術がなかった。

「人魚の中には魔法が使える者がいます。その方から薬を手に入れることが出来れば誰でも人間になれるんです」
「人魚に戻るときも薬が必要なのか?」
「いいえ。体が濡れていることが条件ではありますが、自分の意志で戻れます」

 そう言ってジェイドはアップルパイをかじった。今回もおいしくてジェイドは目を細めたが、トレイは何かを考え込んでいる様子でじっと手元に視線を落としている。

「……ジェイドは人魚姿に戻らないのか?」
「言ったでしょう?僕は陸で干からびた人魚なんです」

 トレイが悲しげに眉を下げたのは見ていたが、ジェイドは再びアップルパイにかじりつく。あっという間にひとつを食べ終わり、おかわりに手を伸ばした。

「……海に、帰りたいとは思わないのか?」

 控えめな声でそう問われ、ジェイドはまさにかじりつこうとしていたアップルパイを降ろした。トレイは緊張しているのか体を強ばらせ、不安げにジェイドの答えを待っている。
 その質問がジェイドを傷つけるものだと思ったのか、違うことへの気がかりでもあるのか、それはわからない。けれどそれでも問いかけてくるトレイの態度に笑いが込み上げてきそうだった。

「好奇心ですか?それとも僕を心配してくれているのでしょうか?」
「いや、そうだな……最初は人魚のことを聞きたかったんだが……」
「まあ、いいでしょう。今の僕が海に行っても人魚に戻れる保証はありませんから、行ったところで……という感じです」

 ジェイドは小さく笑ながら話したが、トレイは「そうか」と頷くだけだった。それからトレイはまた何かを考え込むように視線を落としてしまう。それならばとジェイドは食べようとしていたアップルパイに改めてかじりついた。

「海辺の町に行くことがあれば、一緒に行くか?」

 アップルパイを三つ食べ終わったところでトレイが口を開き、ジェイドは四つめのアップルパイを自分の皿へ移しながら「なぜです?」と逆に問いかけた。

「ついでだよ。それに、ジェイドの本当の姿を見れるかもしれないだろ」
「僕の人魚姿にそこまで興味があるんですか?言っておきますが、おそらくトレイさんが想像なさっている人魚ではありませんよ」

 だが、トレイの提案はそこまで悪くないように思えた。人魚に戻れたならば海へ帰り、戻れなくともトレイと共に町でひと暴れして来ればいい。トレイが気乗りしなくても腹いせにジェイドがトレイを連れ回せばいい。どちらにせよ楽しそうだと思えた。

「見てみないとわからないからな……それよりまずはケイトからお許しをもらわないと」
「向こうが手を引くまでずっと大人しくしているしかないのでしょうか?僕、退屈で飽き飽きしているんです」
「事を大きくしないためにはそれがいいだろうな。実際、俺は人身売買に何の関わりもないしもうすぐお落ち着くだろ」

 そうだといいが、確証はなにもない。ジェイドはトレイを追い回す組織の人間たちへの苛立ちを抑え込むようにアップルパイを口に含んだ。
 その時にふっと、ある考えが頭に湧く。それはとてつもなく素晴らしいことのようで、ジェイドはにまっとトレイへ笑いかけた。

「僕が殺してきましょうか?」
「お前が?」
「ええ。邪魔者がいなくなれば、前と同じように人を殺すトレイさんが見れるのでしょう?」

 トレイは呆気に取られたようだったがすぐに首を横へ振った。やはりダメかと落胆はしたものの、わかっていた答えにジェイドはくすりと笑う。

「問題を大きくする気か?それとも遠回しに俺を殺そうとしてるのか?」
「まさか。僕も殺人への興味が出てきただけですよ」
「……お前も誰かを殺したいのか?」

 にこりと微笑んで見せると、トレイは呆れたように肩をすくめた。ジェイドは気にせず四つめのアップルパイを平らげる。

「前に殺してただろ?あれが楽しかったって言うのか?」
「トレイさんが殺されかけた時のことでしたら少し楽しかったですね」

 だが、あれは人殺しが楽しかったのか、トレイが一緒にいたから楽しかったと思うのかは判断がつかない。トレイがいない状況でも人を殺すことを楽しいと感じるだろうか。

「人殺しが楽しいかはまだわかりません。わからないから、気になるんです」
「ジェイドの気持ちはわかった。でもダメだ」
「そうだろうと思ってました」

 トレイは再び呆れたように肩をすくめ、ため息をついた。ジェイドは五つめのアップルパイを手に取る。それは六つに切り分けられたアップルパイの最後のピースだったが、トレイの前に置かれたアップルパイは全く手をつけられていなかった。

「おそらくトレイさんがすぐに殺されないのはここの墓守だからでしょう。この町や周辺の町の偉い方々から直々に雇われているようなものですから」
「そうだろうな」
「それなりに大きな組織とはいえ権力者を敵に回す可能性があれば慎重になりますから」

 頷いたトレイはようやく自身のアップルパイに手をつけた。食べないのならばもらおうと思っていたジェイドは落胆したが、気を取り直して最後のアップルパイを一口かじる。
 林檎の食感、甘さ、シナモンの香り……最後のひと切れを大事に味わいながら食べたが、それでもすぐに無くなってしまう。名残惜しさを感じながらトレイに目を向けると、視線がぶつかりジェイドは息を飲んだ。
 トレイのアップルパイは一口食べられただけの状態で皿の上に置かれていた。しかしアップルパイよりもゆらゆらと熱を孕んだ瞳から目をそらせなくなり、ゾクゾクと悪寒にも似た興奮が背中を駆け抜けていく。

「ジェイド、いいか?」

 何を?と問い返す必要もなくジェイドは頷く。口元に弧を描きながらゆるりと立ち上がると、続いてトレイも立ち上がった。
 人殺しの話をしたからだろうが、今日は話をするだけと言っていた口からおねだりが聞けたことにジェイドは笑いをこらえきれなかった。クスクスと笑うジェイドはいつものようにベッドに押し倒される。トレイが銀色に輝くナイフを握るところを見上げながら、これが終わったら残ったアップルパイをもらおうと決めた。