03

 この墓地もそこそこ埋まってきたな、とシャベルにもたれながら辺りを見回したトレイはぼんやりと考えていた。初めにここへ来たときは半分も埋まっていなかったが、今やトレイの趣味によって半分と少しは埋まっている。嗅ぎ慣れた土の匂いを感じながら、楽しくて調子に乗りすぎたかと片手で頭をかき、何気なく横を向くと離れた場所にジェイドが立っていた。
 トレイが気づいたことを察したのかジェイドはにこりと笑いながら近づいてくる。昼間はトレイの目立つなという言いつけを守っているのかジェイドは自分の墓穴にいることが多い。しかし曇天で薄暗いとはいえ今日は珍しく昼間から出歩いているようだった。

「こんな昼間にどうしたんだ?珍しいな」
「トレイさんこそ。日の出ているうちから人殺しですか?」

 どうやら昼間から死体を埋めていることが気になり出て来たらしいとトレイはひとりで納得しながら、土に突き刺していたシャベルを引き抜いた。そしてジェイドに墓穴へ向かうよう手で合図を出し、トレイも一緒にそちらへ向かう。
 ジェイドの墓穴は自分で手入れをしているのかいつ来ても雑草が生い茂ることもなく、かといって目立つほど綺麗すぎず、良くも悪くもこの墓地ではあまり存在感がない。
 そんな穴へ足を垂らすように墓穴の縁にトレイが腰かけると、同じようにジェイドも隣に座った。手に持っていたシャベルは邪魔にならないよう背後に寝かせておく。

「それで?明るいうちから人を殺したのですか?」
「いいや。今日は本当に墓守の仕事さ」
「そうでしたか。何か楽しいことがあるかと期待したのですが、残念です」

 いつの間にか、ジェイドとはこうして墓穴に座って会話するのが日常になってしまった。目立つことを避けるために始め、さらにジェイドとはある程度満足するまで付き合ってやる方が追い返すよりも楽ということに気がついた結果だ。しかしこうして当たり前になったことにトレイはどこか不思議な気持ちになる。

「きちんとお仕事なさっていたのですね」
「上の汚職揉み消しの片棒を担いでるだけだよ」
「トレイさん、そのことに何とも思っていないでしょう?」
「まあな」

 ジェイドはふふっと笑った。こうしているとやはりこの怪物が普通の人間のように思えてくる。だが、一度死んでいるはずの怪物だ。胸に穴が開こうと死ぬことのない体をしっかりと見た。

「今度、またケイトからの依頼で隣町に行くんだ」
「ええ、知っています。ついてくるなと言いに来たのですか?」
「いや、来てもいいぞ」
「え?」

 ジェイドはつり目が丸くなるほど瞳を大きく見開き、真意を探るようにじっとトレイの顔を見つめた。トレイは笑いながら頷く。

「どういう風の吹き回しでしょうか」
「コソコソついて来られるよりいいと思ってな」
「それだけですか?」
「あの翡翠、高価なものなんだろ?」

 毎回毎回、闇の中から姿を現すジェイドにトレイは驚かされてきた。驚いたトレイに微笑みかけながらジェイドが「手伝います」と言うところまでも頭にはっきりと思い浮かべることが出来るほどだ。他にも依頼の報酬にと渡された翡翠のことも含め、細々とした理由はいくつか思い付いたが特に伝えることでもないとトレイはただ笑みを浮かべる。

「それにお前が邪魔しないってことはもう知ってるしな」
「……今後も僕がトレイさんの邪魔をしない確信でも?」
「ないよ。その時はその時だな」

 疑うような目をトレイへ向けていたジェイドだが、許可をもらえたことは嬉しかったのかトレイのその言葉に楽しげに顔をほころばせて笑った。

「ちなみに、今さらなんだが服は汚れても大丈夫か?」
「服ですか?」
「ジェイドはいつもその白い包帯を巻いたような服だろう?血で汚れたりしたら……」
「本当に今さらですねぇ。大丈夫ですよ。見てください」

 ジェイドは地面から片手で土を鷲掴み、その土を反対側の腕の服の上に乗せ、塗り込むように手で強く擦った。トレイはその行動に驚き、一瞬呆けてしまう。

「ほら、どうです?」

 ジェイドが手を退かすと、ぱらぱらと土が落ちる。土を塗り込まれたはずの袖には汚れひとつ無かった。

「すごいな……魔法みたいだ」
「……魔法ですか。僕は呪いだと思っていました」
「魔法でも呪いでも、便利なのは変わらない。少し羨ましいな」

 シャツに返り血がつくと面倒だから、とトレイが続けるとくすりと笑う声が聞こえた。ジェイドの袖から視線を上げると、口元を手で隠すようにしながら笑っているジェイドが目に入る。

「あなたは……本当に……」
「何か面白かったか?」
「ええ、とても」

 笑われた理由はわからないが、機嫌を損ねたわけでないならいいかと笑っているジェイドにかまわずトレイは汚れがつかなかった袖を指差す。

「触ってみてもいいか?」
「どうぞ」

 差し出されたジェイドの腕に触れてみると、布地は包帯のような手触りだったが服そのものはトレイが普段来ている衣服と変わりないように思えた。さらには以前ジェイドが破いた胸元にほつれどころか裂けたものを修復した痕跡すらないことに気づく。それが面白く不思議で、つい夢中になって観察してしまった。

「ふふ、素敵でしょう?」
「ああ。便利で素晴らしいな」
「デザインのことですよ。一晩で元通りになる機能なども大変便利ではありますが」

 ペシッとジェイドの腕を触っていた手を軽く叩かれ、やり過ぎたかとトレイは謝りながら手を離した。

「怪物として目覚めたときから身につけていて、アシンメトリーなところなど気に入っています」
「そうだな。ジェイドによく似合うよ」
「……そんなことを言ったのはトレイさんが初めてですよ」

 ジェイドはトレイから目をそらしながらも、ふふっと小さく笑っていた。


   ▼


 ナイフが突き刺さっている胸元から血液が流れ出る様子をぼんやりと見つめていた。夏の潮風がベタベタとしていて気持ちが悪かった気がする。死んでいる女の顔はもう思い出せないが、半開きの口から鋭い歯がちらりと見えていたのは覚えていた。あと、覚えているのは海の匂いと混じった血の香りと、強烈な高揚感だけ。

「トレイさん?」

 声をかけられたトレイははっとして今しがた殺した女の胸からナイフを抜いた。ジェイドはきょとんとした顔でトレイの様子をうかがっている。
 なぜ、昔のことを思い出したのかトレイ自身にもはっきりとはわからなかった。胸に穴が開き、無残に倒れている女に昔殺した女の面影を感じたのかもしれない。それか生ぬるい風があの夏に似ているのかもしれなかった。

「気分が優れないのですか?」
「いや、何でもない。大丈夫だ」

 トレイの顔を覗き込み、眉を寄せて心配そうな顔のジェイドに可愛いところもあるんだなと漠然と考えながらもトレイは微笑んで見せた。ジェイドは安心したのかトレイから離れ女の死体の傍によるとじいっと観察を始める。

「この方は何を?」
「ケイトの話じゃ人身売買に関わってるらしい」
「人身売買ですか……」
「俺たちの町周辺が物騒なのかと思ってたが、どこでも命は軽いのかもな」

 トレイはそう言いながら笑ったが、ジェイドは険しい顔で女の苦痛に固まった顔を凝視していた。そんなジェイドの隣に立ち、今度はトレイがジェイドの顔を覗き込む。

「大丈夫か?」
「もちろんです」

 悲しげな目つきだったがジェイドは小さく頷き、トレイに向き直った。しかしいつもの口元に小さく笑みを浮かべた表情のジェイドにトレイは違和感を感じて首をかしげる。しかも今夜はなんだかいつもの夜とは違うような気さえして、どうしてか気持ちが落ち着かなかった。
 殺したあとの高揚感とは違う、焦燥感のようななんとも言えない感覚を抱えながらも、殺した女の服でナイフの血を拭ってから腰のホルダーにしまう。ジェイドはいつの間にかいつものようにニコニコと楽しげに笑っていた。

「楽しそうだな」
「ええ、今夜は最初から最後まで見ていられましたから。ただ……」

 言葉を切ったジェイドは胸元から小さなシャベルを取り出す。予想もしなかったそれにトレイは困惑から眉を寄せた。

「トレイさんと穴を掘れないのはなんだか物足りない気がします」

 以前トレイが譲った園芸用のシャベルをくるくると回しながらジェイドはそう言った。あの作業の何がそんなに気に入ったのか検討もつかずトレイは眉をひそめたまま、また首をかしげる。

「穴掘りが楽しいのか?」
「はい。トレイさんとお話しできますし」

 シャベルを胸元にしまうジェイドに笑いかけられ、トレイは悪い気はしなかった。トレイとてあの時間が嫌いなわけではない。ジェイドも好きでいてくれたことに安心すると共に面映ゆくなる。

「話なら何も穴掘りしてる時だけじゃないだろ。そろそろ行くぞ」

 トレイとジェイドは女の死体を置き去りに、月の心もとない明かりを頼りに歩き出した。
 今回は隣町での仕事のため、トレイは夜通し歩いて帰るつもりだった。今から歩き続ければ明日の昼頃には家につく予定だ。
 ジェイドは見るからに機嫌がよかった。理由を問おうかと口を開きかけたが、大雨の日に置いて行ったことをまだ根に持たれているかもしれないと、トレイは何も聞かないと決め口をつぐみ、暗い深夜の町の中を歩いて行く。

「トレイさん、僕に聞きたいことがあるのでは?」

 心を読まれたのかとトレイの心臓が跳ねた。悪いことを考えていたわけでもないのに背中に冷や汗をかいてしまうほどには狼狽えてしまう。

「……どうしてそう思うんだ?」
「翡翠のことを聞かれませんので」
「ああ……」

 そっちのことかと、トレイは謎の安心感からふーっと息を吐き出した。暗闇の中でお互いの表情まではよく見えない。だが、その代わりに微かな息づかいや小さな動作が普段以上に伝わってくる。こうしてトレイが安堵したこともジェイドには筒抜けだろうが、特に何も言われることはなかった。

「あの翡翠、人魚の涙なんだって?」
「はい」
「お前の……ジェイドの涙から出来たものなのか?」

 ジェイドが笑ったのがわかった。闇に遮られどうして笑ったのか、どんな笑みなのかはわからない。けれど、いつもの楽しげな笑みではないと何か確信のような物をトレイは持った。

「それはどうでしょう。ですが僕は人魚ですよ」

 二人分の足音にかき消されそうな声だったが、嘲笑するような声にも聞こえた。トレイは足を止めるか悩んだが、辛い話ならばなぜ自分から話すよう仕向けたのかわからず、とりあえず足を動かし続ける。

「陸で干からびた、人魚です」

 トレイが人魚の存在を知ったのはいつだったか。確か、幼い頃に祖父母の家に遊びに行った時に屋根裏部屋で見つけた、祖父が趣味で集めていた本の山の中にあった一冊の本を読んでからだ。
 様々な分野の本があったはずだが幼い頃のトレイは不思議と興味を引かれたその本を開き、読める文字だけを必死に追った。けれど理解できるはずもなく祖父に読んでもらおうと屋根裏から出ると、祖父は驚いた様子だったがトレイに人魚のことを読み聞かせてくれたことまでを思い出す。しかしそんな祖父との思い出を塗り潰すように、綺麗な顔立ちの女が鋭い歯を見せつけるように笑う顔が頭に浮かんだ。
 血濡れた歯と口元の記憶を振り払うように頭を振り、ちょうど町を出て街道に差し掛かるところでふいに立ち止まったトレイのすぐ傍でジェイドも立ち止まる。トレイは用意してきていた小さなランタンに灯りをつけ、ジェイドの顔が見えるようにそれを掲げた。

「どうかしました?」

 ジェイドは意外にも穏やかな顔をしていた。その表情を見て、気持ちが落ち着いてくると逆になぜお前がそんな顔をしているのかと苛立ちにも似た感情が沸き上がってくる。

「もっと酷い顔をしてるかと思ったよ」
「おや、そんなに悲しげな声でした?トレイさんの方が酷い顔をしていますよ」

 自分がどんな顔をしているのかわからなかったが、おそらくジェイドが言うように酷い顔をしているのだろう。
 トレイは眼鏡を外し、手の甲で目元を強く擦った。

「人魚は嫌いですか?」
「……嫌い、かもな。わからない」
「では僕のことも?」

 眼鏡をかけ直したトレイはゆっくりとジェイドを見上げた。
 嫌い、なのだろうか。嫌悪感は感じない。そもそもジェイドの人魚姿を見たことはなく、あまり人魚であることに実感がわかなかった。
 ふと、トレイはなぜこんなにも真面目に考えているのかと不可解に思った。むしろなぜジェイドはそんなことを問いかけてきたのか。二つの色の違う瞳が真っ直ぐトレイの答えを待つように見つめてくることを自覚すると、余計に考えはまとまらなくなる。トレイは呆けたようにジェイドと見つめあった。
 その時、唐突にジェイドが腕を振るい上げる。鋭利な何かがランタンの光を反射してキラリと輝きながらはね飛ばされるのが見えた。数秒後にカランっと軽い音を立ててナイフが地面に落ちたことがわかり、同時にトレイはジェイドが投げられたナイフを弾いたのだと理解する。
 トレイは咄嗟にジェイドの腕を掴んだ。

「大丈夫か?」

 ジェイドの腕はナイフを弾いた時に切れたらしく、手首から肘の手前までザックリと切り傷が出来ている。だがやはり血が流れ出ることはない。ただ皮膚が裂けているだけの腕を見てようやく心配する必要はなかったとトレイは思い出した。

「僕の心配をしている場合ではありません」
「どうせあの一撃が外れた時点で犯人は逃げてるさ」
「そうかもしれませんが……ついに殺し屋を差し向けられたんですね」

 確かに殺しに来たのだろう。しかしやり方がプロとは思えない。金で雇われただけの素人だろうとトレイは考えた。そう思うとあまり焦りは感じない。なにより、殺しているのだから殺されたとしても文句は言えないと常日頃から思っていた。

「殺し屋でも素人だよ」
「ですが僕がいなければあなたは殺されていましたよ」

 これには反論できずトレイはぐっと強く口を引き結んだ。あまりにも気を抜きすぎたのは確かだ。けれど、元を辿ればトレイがあそこまで呆けた理由はジェイドなのではないか?一度そう思ってしまえば、そんな気がしてくる。

「とにかく移動しましょう」

 ジェイドにそう言われ、トレイは掴んだままだった腕を離した。この傷も明日には跡形もなく元に戻っているのかと思うと、観察したい欲がわく。だがそんな悠長なことをしている暇はない。

「……行くか」
「また襲ってくると思いますか?」
「そうしてくれるとここで始末出来て楽だな。家まで来られると厄介だ」

 ランタンを持ち直したトレイとジェイドは並んで歩き出す。人魚についての話の続きをすることもなく、それとなく周辺を探りながら歩いた。
 殺気は全く感じられない。今日は諦めて引き上げたのだろうかとも思ったが、街道から外れた林の中から微かに人の気配がした。気がついたトレイが駆け出す前に、ジェイドが林に向かっており、遅れてトレイが林に入った時には既に見知らぬ男を地面に押さえ付けていた。

「……人違いだったらどうするんだ」
「おや、死人に口なしですよ」
「お前は例外だけどな」

 にまぁと含みのある笑みを見せたジェイドの発言に、自分がどうなるのか察したらしい男はのしかかっているジェイドを振り払おうと無茶苦茶に暴れ始めた。しかしジェイドは慌てることなく男の頭と顎をそれぞれ掴み、ぐいっと勢いよく捻り上げる。骨の折れる音と共に男は脱力し動かなくなった。

「見てください、トレイさん。この方さっき投げられたナイフと同じものをもう一本持っています」

 男の衣服を剥ぎ、持ち物を物色するジェイドがやりやすいすようにトレイはランタンを掲げてやりながらうんうんと頷いた。
 腕に傷がありながら人の首を折れる力を持つジェイドはおもちゃで遊ぶ子どものように無邪気だ。トレイは怪物はやはり恐ろしいなと少しの恐怖を覚えながらも、楽しげなジェイドに胸が暖かくなる感覚に浸る。

「……そろそろ行こう」
「心臓は刺していかれないのですか?」
「ジェイドが首を折って持ち物を物色してくれたおかげで、ここに死体を放置しても金を目当てに殺されたって思われるだろ」
「ああ……心臓を刺すと知る人にはトレイさんの犯行とバレてしまうわけですね」

 立ち上がったジェイドに「そうだ」と相づちを返しながら、トレイは男の着ていたジャケットを拾い上げた。強盗の仕業に見せかけるためとはいえ、他にまともな物を持っていない男に小さく悪態をつく。とりあえず拾ったジャケットを片手に抱え、再びジェイドと並んで歩き出した。
 林から街道へ戻り、しばらく歩いて行くと川に差し掛かる。石で作られた橋は川からそれなりの高さがあったが、トレイはおもむろにその橋の上からジャケットを投げ捨てた。ジェイドはくすくすと笑うだけで何も言わず、トレイは再び家を目指して歩き出す。


   ▼


 思わぬ出来事に見舞われながらも夜通し歩いたトレイは昼過ぎには家に帰ることが出来た。
 家の前でジェイドと別れ、家の中へ入ったとたんに眠気に襲われる。しかしシャワーと歯磨きだけはしたいという気力でなんとか持ちこたえ、うとうとと船を漕ぐことは何度かあったがどうにか寝る支度を整えたトレイは満を持してベッドへと飛び込む。横になるともう眠気には抗えず、目を閉じるとすぐに眠りに落ちた。

 ノックの音で目を覚ますと、部屋の中は真っ暗だった。手探りでベッドサイドのランプを灯し、体を起こす。その時、再びドアがノックされる音がした。
 このノックの仕方はケイトだろうかと目を擦りながら眼鏡を手に取り、ベッドから足を下ろす。小さな声で「トレイくーん?」と呼ばれるのが聞こえ、小さく笑いながらも眼鏡をかけ、ゆっくりとドアを開けに向かった。

「トレイくん……」

 ドアを開けると、存在を確認するようにケイトからじっくりと顔を見つめられた。トレイが中に入るように促すとようやくケイトは安堵した様子を見せる。

「思ったより来るのが早いな」
「だって……俺の情報収集が甘かったからトレイくんが殺されかけたかもしれないんだよ」
「まあ死んでないし、襲ってきたやつはジェイドが始末したよ」
「ジェイドくんが?」

 ケイトは驚いていたが、はっと思い出したかのように「それよりも」と話を切り出した。いつものように二人分の紅茶を用意しようとしていたトレイを椅子に座らせ、ケイトも反対側に向かい合うようにして座る。

「まずはごめん。今まで依頼してきた奴ら、個人間では繋がりはなかったんだけどみんなそれぞれある組織と繋がってたみたいなんだ」
「組織?」
「人身売買のね」

 トレイは思い出せる限りの依頼の情報を頭に浮かべた。確かに、誘拐や直接人身売買に関わっているターゲットが多かったような気がする。だが、組織と関わりがあったからとって末端の人間だろうに自分が狙われる理由がトレイには思い付かなかった。

「どうして俺が?って思ってるでしょ」
「情報屋はなんでもわかるんだな」
「顔に出てたからね」

 ケイトは「う〜!」と呻くような声をあげながら机に突っ伏した。トレイはそんなケイトの頭を見ながら、寝起きの歯磨きがまだだったことを思い出す。

「歯磨きしていいか?」
「えっ、今?」
「ああ」

 返事を聞く前にトレイは立ち上がり、洗面所へ向かう。愛用の歯ブラシを手に取り、鏡を見ると洗面所の入り口に立つしかめっ面のケイトが写っていた。

「話は聞くから」
「死にかけた人間とは思えないんだけど……危機感って言葉知ってる?」
「確かに死にかけたが、どうにか生きてるしな」

 トレイが歯磨きを始めると、ケイトは頭を抱える。しかし呆れたのか、諦めたのか、「もー!」と一言叫ぶと、今度は真面目な顔で鏡越しにトレイを見つめてきた。

「トレイくんはこの界隈じゃちょっとした有名人なんだよ?だからこの墓地の仕事だって紹介してもらえたんだから」

 そうだったのかと、トレイは返事の代わりにひとつ頷く。歯を磨く手の動きは止めない。ケイトは腕を組ながら、むっすりとより不機嫌な表情になっていく。

「今までは個人が趣味でやってて、素人で、組織とか金銭とかのしがらみがないから見逃されてたけど……」

 そこでケイトは言葉を切ると、トレイを睨み付けていた目を伏せた。いつになくしおらしい態度に思わずトレイは肩ごしに振り返る。

「俺がよく情報を精査せずにトレイくんに依頼したから……それがほとんど組織がらみの人間で……どこかと繋がりがあるんじゃないかってトレイくん目をつけられちゃって」

 トレイは手早く口をすすぎ、後片付けをして項垂れたままのケイトの前に立った。小さな声で謝罪を口にするケイトの肩をトレイは軽く叩く。ケイトはうつむいたままだ。

「気にするな。素人を差し向けられたってことはまだ向こうだって本気じゃない。そうだろ?」
「……そうだけど」
「俺がしばらく大人しくしてればほとぼりも冷める。違うか?」
「……そう、そうだよね!」

 ようやく顔を上げたかと思えば、ケイトは満面の笑みを浮かべていた。トレイもにっこりと笑顔を作りながら心の中で「こいつ猫被っていやがったな」と悪態をつく。

「けーくんも悪かったから気を付けるね!トレイくんはしばらく趣味でも、誰も殺しちゃダメだから」
「……俺の口から言わせるための態度だったわけだな?」
「えー?オレ本当に落ち込んだんだけど?」

 くつくつと笑いながらケイトはキッチンへ向かい、懐から小さな包みを出すとテーブルへ置いた。ケイトの後についてキッチンへ戻ったトレイはすぐにその包みをつまみ上げる。

「これは?」
「鑑定してた翡翠」
「人魚の涙だったか?」
「あれ、知ってたんだ?」

 包みを開けながら問えば、ケイトは少し驚いたような声を上げた。けれどすぐさま理由に思い至ったのか、トレイへ微笑む。

「ジェイドくんから教えてもらったの?」
「ああ。ジェイドは人魚らしい」
「そうなの!?」

 さすがにそこまで知らなかったのかケイトは目を見開いた。その顔にトレイは笑いながらも、包みから取り出した翡翠を手の平の上で転がしてみる。

「それ、鑑定してた人が譲って欲しいって言い出したから慌てて持ってきたんだ」
「慌てて?俺に大人しくしてろって釘を刺すついでだろ?」
「バレた?でも、欲しいって言われたのは本当」

 ペロッと舌を出したケイトは玄関ドアの前まで歩き、そこで立ち止まった。くるりと身を回すと、じっとりとトレイを睨み付ける。

「いい?大人しくしててね?オレがもういいよって言うまで」
「わかってる。前もこんなことあっただろ?」

 殺し屋を差し向けられたことは初めてだが、前にもヤバい奴に付きまとわれたことはある。
 この町へ来る何年も前のことだが、トレイの殺人に魅せられたと言ってストーカー行為をしてくる奴がいた。どこに行こうともそいつはいて、殺人現場に来てはどこが良かった、何が物足りないと感想をつらつらと述べる、一言で言ってしまえば鬱陶しい奴だった。そのためにトレイは一時期殺人を辞めたが効果はなく、家に乗り込んできたかと思えば何故殺さないのかと喚き散らされ、さすがに堪忍袋の緒が切れた記憶がある。
 ケイトには相談済みで穏便に済む方法を探ってくるからと言われたものの、さすがに家にまで来て文句を言われてしまえば我慢もできない。トレイは今から殺しに行こうとそいつを誘い、街に出た。そして、人気のない公園で他の被害者たちと同じようにそいつの心臓を刺してやった。

「あの時のトレイくん、結局勝手なことしたじゃん!」
「わかった、わかった。今回は本当になにもしない」

 ケイトは念を押すように「絶対だからね!」と言いながらトレイの家を出て行った。
 トレイはそれを見送ったあと、翡翠を手に握りベッドの傍にあるチェストの前に立つ。チェストの一番下の引き出しを開け、細々とした日用品を押しのけながら底板を外し、現れた隠しスペースの隅に翡翠を置いてから、全てを元に戻した。
 ふと、ストーカー野郎の殺される瞬間の恐怖に染まった顔を思い出した。あんなにもトレイの殺しを絶賛していたのに、刺される瞬間は泣き喚いていたように思う。ジェイドはどうだろうか。
 以前、自分から刺してみませんかと提案してきたジェイドはどんな顔をするのだろう。やはり怯えるだろうか。だが死なない体ならば、違うのかもしれない。
 そもそも最初はジェイドもそのストーカー野郎と同じような存在だったはずだ。だから拒んでいたはずなのに、いつの間にか殺人についてくることも、手伝うことも許容している。
 トレイはそれが何故なのかわからずにしばらくの間、翡翠を入れたチェストの前で立ち尽くしていた。