03

 ジェイドが目を覚ますと見覚えのある天井が視界に入った。首だけを動かし辺りを見回すと、懐かしい部屋のベッドの上に寝かされていることがわかる。そこはジェイドの部屋だった。棚も机も、調度品も何も変わっていない。むしろ綺麗に手入れをされ、汚れひとつ付いていなかった。
 いつの間に?と疑問に思ったが、ジェイドはひたすら泳いできたことしか覚えていなかった。どうやってここへたどり着いたのかいくら考えても思い出せない。
 ただ、ジェイドの胸の中には虚無感が居座っている。

「あれ、ジェイド起きた?」

 その声に扉の方へ視線を向ければ、ひょこりと兄弟のフロイドが顔を覗かせていた。数年前に別れたときと変わらない兄弟に驚きつつ、ジェイドは掠れた声でフロイドの名を呼ぶ。しかし尾びれの先を動かすのすらだるく体は動かせなかった。

「なーに、ジェイド」
「……まだ、ここに居てくれたんですね」
「当たり前じゃん」

 フロイドは部屋に入り、まだベッドに横たわったままのジェイドの額にこつんと自らの額を合わせた。そのままジェイドとフロイドはくふくふと笑い合う。
 フロイドだ。フロイドが目の前にいる。ジェイドは安堵から泣いてしまいそうだった。大きく息を吸い気持ちを落ち着かせようとするジェイドの頭に、フロイドは頭をすり付けてくる。それがくすぐったくてジェイドは再び笑った。

「くすぐったいですよ、フロイド」
「……オレさぁ、心配したんだよね。ジェイド急にいなくなって、何年も戻らねーし。死んだとか言う奴ら絞めて回るの大変だった」
「……すみません」
「家の前で倒れてるジェイド見つけた時のオレの気持ちわかる?」

 愚痴を言うフロイドの声は優しかった。けれどその表情は見えない。ジェイドは重い腕を持ち上げ、フロイドの首に回した。上手く力が入らないがそれでも出来る限りの力でフロイドを抱き締める。フロイドもジェイドを強く抱き締め返した。

「ごめんなさい、フロイド」
「いいよ、帰ってきたし。許してあげる」

 しばらくの間、ジェイドとフロイドは抱き合っていた。ジェイドは胸が喜びに染まっていく感覚を感じながらも、無くならない虚無感に漠然とした不安を感じ始める。

「あ、アズールも心配してたんだった。オレ呼んでくる」

 フロイドはにっと笑うとジェイドから手を離した。ジェイドは離れていくその手に誰かの姿が重なり、思わず腕を伸ばしそうになる。しかしフロイドはそんなジェイドに気づかず背中を向けると部屋から出ていった。
 誰の手と重なったのだろう。ジェイドは少しの間フロイドが出ていった方を見つめていたが、体を持ち上げなんとか上半身を起こした。その時、勢いよくアズールが部屋に飛び込んでくる。

「ジェイド!」
「ふふ、お久しぶりですね」
「起きて大丈夫なんですか」

 慌てた様子を隠しもせずアズールはジェイドに詰め寄った。そんなアズールの横でフロイドは笑っている。ジェイドは安心させるようにアズールに笑いかけた。

「ここ数年、何があったんです?」
「僕は陸で、りく、で……」

 ジェイドは思い出した。愛しい番に出会い、そして別れてきたことを。思わず口元を両手でおおい、ジェイドは忙しなくエラを動かしながら過呼吸のような呼吸を繰り返した。そんなジェイドを落ち着かせるように、フロイドとアズールはそれぞれがジェイドの背中を撫でさする。

「落ち着きましたか?」
「ジェイドにひでーことした人間絞めてこようか?」

 二人はジェイドが陸で人間から酷い仕打ちを受けてきたのだと誤解しているようだった。それは違うとジェイドは必死で首を振る。

「違うんです」
「無理などするものではありません。いいんですよ、わかっています」

 アズールは何をか勘違いしているのか検討違いなことを言いながら再びジェイドの背中をさすり始める。フロイドはジェイドの腰に抱きつくようにして頭をジェイドのお腹へ擦り付けた。

「本当に違うんです。僕は……陸で番を見つけたんですよ」
「……は?」
「番を?……それは人魚、ですよね?」

 ジェイドの言葉にギラリと目を光らせたフロイドをなだめつつ、アズールはジェイドへ確認するように問いかけた。ジェイドは目を伏せ、フロイドの髪を指ですきながら「人間です」と呟くように答える。

「はぁあああ!?」

 がばりと勢いよく身を起こしたフロイドにジェイドは笑いかける。そうだ、自分は人間に恋をして、番になったのだ。だがその番は傍にいない。ジェイドはトレイに手放されてしまった。
 ジェイドはぽつりぽつりと二人とはぐれてからのことを話始める。ちょっとした油断から波に拐われ岩に尾びれを挟んだこと。人間に助けられたこと。人魚の保護施設に入れられ、のちに水族館へ移されたこと。その水族館で、番と出会ったこと。
 話していくうちにジェイドの両目から涙が溢れた。しかし水中ではすぐに周囲の水に混ざり涙が零れることはない。自分が本当に泣いているのかジェイド自身もよくわからなくなる、不思議な感覚だった。

「……絞めよ」

 ジェイドがトレイと別れてきたことまで話終えると真っ先にフロイドがそう口を開いた。アズールも険しい顔をしたまま黙りこくっている。ジェイドは今すぐにでも誰かを殺してしまいそうな顔のフロイドをなだめた。

「いいんですよ、フロイド。僕は大丈夫ですから」
「はあ?絞めなきゃ気が済まねぇんだけど」
「何が大丈夫ですか。人魚が番を失うと精神も体も弱ると知らない訳ではないでしょう」

 アズールの言葉にジェイドは苦笑いを浮かべる。人魚は一途だ。だからこそ番との離別にはかなりの痛みが伴う。精神を病み、体も弱る。そんな衰弱した状態で海を漂い、近いうちに息絶える。肉食の生き物に食べられてしまうことも珍しくなかった。
 アズールはジェイドがそうなってしまうことを心配しているのだろう。ジェイドは弱々しくも笑って見せる。

「ふふ、二人が故郷にまだ居てくれて良かったです」
「ジェイドを置いてどこかへいくわけないじゃん」

 フロイドの言葉の言外に「だからもう自分を置いてどこかへ行くな」と言われている気がした。ジェイドは曖昧に微笑みながらフロイドの頭を撫でる。
 トレイは陸で番の自分を手放さなければならない程大事なものができたのだろうか。ふと浮かんできたその考えに胃の辺りがぎゅうと締め付けられ、吐き出すものなど無いはずなのに吐き気が込み上げた。

「ジェイド、大丈夫ですか」

 顔色が悪いことに気がついたのかアズールが再びジェイドの背を撫で始める。それだけでも幾分か気分がよくなりジェイドはほっと息を吐き出した。だがフロイドはイライラしているのが伝わってくるほど不機嫌で、アズールはずっと険しい顔をしたままだった。そのことにジェイドは少しだけ申し訳ない気持ちになる。確かにこれは精神が弱っているなと実感しながら。


   ・・・


 それからジェイドはフロイドとアズールにとやかく世話を焼かれていた。何をしでかすかわかったものじゃないと二人はよく言い、ジェイドは時に鬱陶しく感じながらもありがたく思った。きっと、ひとりだったらとっくにジェイドは死んでいただろう。それほどまでに胸の痛みはジェイドを蝕んだ。

「これとこれ、これも食べて」

 ジェイドの目の前にフロイドが用意した食事が置かれる。以前のジェイドだったら難なく食べられるどころか少し足りないくらいの量だったが、今のジェイドには有り余る量だった。
 ジェイドはフロイドへ目を向けた。アズールは調べるものがあると言って、朝から出かけている。助けを求められる相手はいない。フロイドは絶対食べさせるとでも言いたげな目でじとりとジェイドを睨んでいた。仕方なくジェイドは用意された食事に手をつける。

「……もう食わねーの?」

 やはりジェイドは食べきることは出来なかった。半分以上残して手が動かなくなる。これは中々に酷い状況だとジェイド自身感じていた。困ったと眉を下げるジェイドにフロイドは「昨日よりは食えたんじゃね」と声をかけ、おもむろにジェイドが残した食事を食べ始める。

「すみません」
「んー……あ」

 フロイドはふと、何かを思い出しかのように目を大きく開けると食事をやめ、ふらりとどこかへ行ってしまった。残されたジェイドはどうしようかとぼんやりと先程までフロイドがいた場所を見つめる。
 ひとりになると暗い考えばかり浮かんでくる。トレイは今頃どうしているだろう。既に自分のことなど忘れてしまったかもしれない。ざくりと胸に鋭いナイフで刺されたかのような痛みが走る。手を胸の上へ置いても傷はない。けれど確かにジェイドの胸は血を流している。苦しい。

「ジェイド」

 名を呼ばれジェイドははっと我に帰った。いつの間に戻ってきていたのかフロイドがジェイドの顔を覗き込んでいる。

「……フロイド」
「うん。ジェイドまた変なこと考えてたでしょ」

 ジェイドは眉を下げながら笑って見せた。フロイドはつまらなそうな顔でジェイドへ左手を差し出す。その左手には何かが握られているようだった。

「手ぇ出して」

 ジェイドは首を傾げながら両手を皿のようにして差し出すと、フロイドはその上で握っていた手を開いた。ぽとりとジェイドの手の上に小さな小石が落ちてくる。それはどこにでもあるようなシーグラスだった。

「これは……」
「ジェイドが帰ってきたとき握ってたやつ。気絶してるのになかなか離そうとしないから何かと思った」

 驚きから目を見開きつつジェイドがフロイドを見上げると、フロイドはにんまり笑って言った。

「オレにはただの石にしか見えねーけど、ジェイドには大事なんでしょ」

 まさしくジェイドには大事な石だった。トレイと別れたあの日、海の中で見つけた小石だ。トレイの瞳と同じ色の、小石。見つけた時は心が躍り、どうしてもトレイに見せたかった。結局、見せることは出来なかったけれど。
 ジェイドは手の平の上にある小石を見つめる。やはりトレイの瞳の色だ。トレイはあの目でジェイドが好きだと、大切だと、雄弁に語りかけてくれた。

「もーまた泣く」

 呆れたように言いながらもフロイドは石を胸の前で握りしめるジェイドを抱き締め、とんとんと優しく背中を叩いた。

「なんか食べたいもんないの?作ったげる」

 慈しむような声でフロイドが問いかけると、ジェイドはすぐに苺のタルトを思い浮かべた。甘い匂い、サクサクした生地に、なめらかなクリームと程よく甘酸っぱいキラキラ輝く苺。初めての味に驚いてトレイを見ると、優しい目をして笑っていた。まだ鮮明に思い出せる。ジェイドはきゅーっと胸が締め付けられた。

「……苺のタルトが食べたいです」
「苺のタルト?なにそれ?」

 フロイドは首を傾げる。ジェイドもトレイから与えられるまで苺を知らなかった。フロイドが知るよしもない。ジェイドは大事な秘密を打ち明けるようにぽそぽそと話始める。

「トレイさんが作ってくれたんです。甘くて美味しくて……苺は赤くてコロコロしていてかわいくて、しかもキラキラで綺麗なんですよ」

 まるで稚魚がするような説明だった。しかしフロイドはそれを指摘することなく、ふーんと相づちを打つ。ジェイドは初めて苺のタルトを食べた日を思い出して小さく笑った。
 トレイは人間で初めて、人魚である自分に名を名乗ってくれた。自分が腹を空かしていることに気づいてくれた。尾びれが傷つかないか心配してくれた。お前のためにと言って美味しい物を用意してくれた。笑いかけてくれた。向き合おうとしてくれた。好きだと、言ってくれた。
 今までジェイドの飼育員になった、普通の人間はジェイドに何もしなかった。淡々と餌を与え、最低限の掃除などをし、時に気まぐれのようにジェイドに触れようとする。それだけだったのにいかにも普通の人間のようなトレイが、ジェイドにたくさんの初めてをくれた。
 いつからトレイに恋をしていただろう。それはよく思い出せない。けれどトレイの手へ歯を立てた時、トレイは怒ることもせず受け入れた。いつもだったら人間は怒り狂い、喚き散らすのに。「どうしたんだ?」と目で問いかけるように、トレイはジェイドを見つめていた。その時トレイが好きだと、強く思ったことは覚えている。まだ、その思いは消えていない。
 二人過ごした日々は穏やかで、温かく、幸福な日々だった。ジェイドは思い出を噛み締めるように胸の前で石を握りしめ、きつく目を閉じ、あの歌を口ずさむ。
 フロイドはジェイドを抱き締めたまま、ジェイドが歌い終わるまで黙っていた。


  ・・・


 数ヶ月経ってもジェイドは胸の痛みに苛まれていた。むしろ悪化しているのか食欲は日が経つほど無くなり、眠りも浅くなっている。深夜、ひとりで静かに目を覚ましては三人で眠るには狭いベッドの上で寝息をたてるフロイドとアズールの寝顔を眺めるのが日課になりつつあった。

「……ジェイド……?」

 ある日の深夜、ジェイドが上半身を起こしたままぼんやりと暗闇を見つめていると、隣で眠っていたアズールが目を擦りながら起き上がった。

「眠れないのですか?」
「……いえ、最近はいつもこの時間に目が覚めるんです」

 素直に答えたジェイドにアズールは息をのむ。がっと勢いよく肩を掴まれ、そのまま後ろへ倒された。ジェイドはアズールに抵抗することなく体を横たえる。

「眠らなくてもいいですから、横にはなっていなさい。ただでさえ食事もまともにしないのですから少しでも体を休めないと」
「……そうですね、ありがとうございます」
「素直すぎるお前はどこか不気味ですね」

 失礼なことを言われてもジェイドは気にならなかった。黙っているジェイドに呆れたのかアズールは小さなため息をつき、ジェイドの隣へ寝転がる。二人が黙ると眠っているフロイドの寝息がよく聞こえた。

「……お前はまだ、番の人間が好きなのですか」

 突然のアズールからの問いかけにジェイドは数回瞬きをする。好きなのだろうか。トレイのことを思い出すときゅうっと胸が音を立て締め付けられる。けれど不快な痛みではない。大声で叫びたくなるような気持ちだ。叫ぶのなら愛の言葉がいいと思うくらいの。
 だが、それだけではない。トレイのことを思い出せば必ずあの別れの日のことも蘇ってくる。なぜトレイは最後に愛の歌を歌ったのだろう。決して上手いとは言えない歌だったが、泣きながら歌っているかのようにトレイの声が震えていて、記憶に強く残っていた。また胸がしくしくと痛む。

「……好きですよ。愛してます」

 胸の痛みを感じながらもしっかりとジェイドはそう言った。アズールはそれを聞いて再びため息を吐き出す。

「恋とは厄介なものですね」
「ふふ、そうですね。こんなことになるとは思いもしませんでした。こんなにお世話していただいて、何を対価に差し出せばいいんでしょう」
「ふん、まともに動けるようになったら嫌と言うほど働かせてやりますから待ってなさい」

 アズールの言葉にジェイドは笑い声を漏らした。こうして誰かと会話しているときはトレイのことから気が紛れる。

「おや、そんなことでいいんですか。優しいですね」
「お前が死ぬよりましです」
「そう、ですか」

 二人の間に沈黙が降りる。フロイドがむにゃむにゃと寝言を言い、ジェイドの名を呼んだ。ジェイドはそんなフロイドの頭を撫でてやる。とたんにフロイドがへにゃりと笑い、ジェイドはむず痒いような気持ちになった。

「……お前は怒らないんですね」
「え?」
「僕やフロイドが怒り狂ってもお前は悲しむだけ。自分を捨てた番へ怒りはわかないんですか?」

 怒り。トレイへの怒り。ジェイドはそんなもの考えたことなどなかった。ただただ喪失感があって、悲しかった。だが怒りを意識してみるとぐつぐつと腹の底が熱くなってくる。そうだ、これは怒りだ。ジェイドが自覚したとたんに腹の底で燻り始めていた怒りは瞬時に沸騰し、煮えたぎるマグマの如く熱くなった。
 ジェイドはその熱が頭から尾びれの先まで浸透していくのを感じた。ここ最近は感じたこともないパワーがみなぎっていくのがわかる。ジェイドはがばっと起き上がり、ぐるりとアズールを振り返った。

「そうですよ!!」
「えっ!?」
「んあっ!?」

 アズールは突然元気になったジェイドに目を白黒させ、フロイドは叫んだジェイドの声によって飛び起きた。ジェイドはそんな二人などおかまいなしに部屋の中をぐるぐると泳ぎ始める。有り余るパワーをどうにかして発散させたかった。
 思い返せば苺のタルトを作ってもらう約束をしたが作ってもらっていない。ずっと一緒にいて欲しいと伝えたとき「もちろん」と返された。それがどうだ。こちらの気持ちも聞かずに「海へ帰れ」だなんてあんまりにも酷い。そうだ、自分にはトレイへ怒りをぶつける権利がある。あの顔に一発、拳を叩き込んでやらなければ気がすまない。いや、三発……五発は叩き込む。絶対に。

「というわけで僕はもう一度陸へ行きます」
「はぁ!?」

 ジェイドの言葉に抗議するように声を上げたのはフロイドだった。怒り心頭といった様子のフロイドをものともせずジェイドは頷いて見せる。

「二度と帰ってこれねぇって!」
「その時はその時です」
「ふざけんなよ!」

 怒り狂うフロイドと困惑するアズールをほったらかし、ジェイドはトレイに激怒した。必ずやあの男の顔に拳を叩き込まねばならぬと決意した。

「アズール!ジェイドに何言ったわけ!?」
「僕は別に……!キレて欲しかったわけじゃ……」
「アズールのおかげで目が覚めました!トレイさんを見つけ出し、ぶん殴ります!」

 高らかにそう宣言したジェイドにフロイドの目の色が変わる。みるみるうちに口の端を吊り上げ、満面の笑みを作った。

「何、ジェイド。番のこと殴りに行くの?あはっ楽しそー!」
「おいお前までのるな!」

 アズールが焦った様子で制止するがフロイドは手を叩いて喜んでいた。ジェイドもふふんと誇らしげに胸を張る。アズールはジェイドを睨み付けた。

「ジェイド!方法は考えているんですか!」
「ええ、もちろん!」

 自信満々のジェイドにアズールもとりあえず話は聞く気になったのかわざとらしく大きなため息を吐き出し、ジェイドにとりあえず座るように促した。ジェイドは興奮からドキドキ高鳴る胸を抑えつつ、フロイドとアズールの間へ座る。

「僕が陸へ上がれば一躍有名人魚になりますからトレイさんは僕に会いに来ます」
「は?」
「僕ほどの美しい人魚が歌を歌うとなれば人間は放っておきません」
「……は?お前自分の体長知ってるよな?」

 ジェイドには自信があった。水族館で毎日のようにトレイに「美しいな」「綺麗だよ」「かわいいぞ」と言われ続けてきた。そうだ自分は美しくて綺麗でかわいい人魚だ。それなのに手放した番はやはりぶん殴るしかない。
 自信満々のジェイドをよそにアズールは小さくうめき声を漏らしながら頭を抱えた。フロイドは後ろにのけ反って爆笑している。

「なぜそれほどまで自信があるんだ……」
「やっちゃえジェイドー!」
「煽るな!」

 じゃれ合うフロイドとアズールを笑いながら見つめていたが、ジェイドは今すぐにでも陸へ上がりたくて仕方がなかった。早く、早くトレイに会いたい。会ったら何を言おう。まずは顔面へ拳で挨拶をして、それから……。

「ジェイド、真面目に聞きなさい」

 トレイとの再会を考えていたジェイドはアズールの冷静な声に顔を上げた。アズールはひどく真面目な顔でジェイドを見ている。後ろで笑い転げているフロイドとの落差にジェイドも少しだけ冷静になった。

「今度こそ海へ戻れなくなるかもしれないんですよ」
「トレイさんに会えるのならそれでもいいです」
「その人間に会えるかすらわからないでしょう!来てくれる保証があるんですか!」

 アズールははっとした様子で口を閉じた。ジェイドはズキリと痛んだ胸を片手でおさえながら、にこりと笑う。いつの間にかフロイドは笑うのを止めていた。

「ここにいても衰弱して死ぬのなら、僕は陸へ行きます」
「……わかりました。勝手になさい」

 それだけ言うとアズールはジェイドに背を向けて横になった。フロイドに感情の読めない無表情のまま腕を引かれ、ジェイドはされるがままに共に寝転び、抱きついてくるフロイドをあやすように抱き締め返す。
 陸へ行けばトレイに会えるだろうか。なんだか水族館にいた頃、早くトレイに会いたくて夜が明けるのを今か今かと胸を高鳴らせながら待っていた時のようだとジェイドは思った。朝になり、扉からトレイが顔を覗かせる、あの心踊る瞬間を今も覚えている。ジェイドはあの時、まだ自分の言葉も通じないトレイに、確かに恋をしていた。


   ・・・


「はい、陸に行くならちゃんと食べてよね」 

 ぶっきらぼうに言いながらもフロイドはジェイドの前へ食事を用意していく。アズールは部屋の隅で書物を読み漁っていた。

「僕はすぐにでも陸へ行こうと思うのですが」
「はぁ?ジェイド、自分がどんだけやつれたかわかってないでしょ」

 ジェイドはフロイドのその言葉に自分の体を見下ろした。言われてみれば痩せたような気がする。だが自分ではよくわからない。

「美人で綺麗でかわいい人魚って言うならちゃんとそれらしくしてってよね」
「……健康になったら陸へ行ってもいいんですか?」
「好きにすれば」

 ジェイドはふいっと顔を反らしたフロイドの横顔を数秒見つめたあと、ゆっくりと食事を始めた。つまらなそうにフロイドは尾びれを揺らしている。

「美味しいですよ、フロイド」
「当たり前じゃん」

 ジェイドが感情を爆発させてからフロイドは大人しかった。何か心変わりがあったのかもしれないし、ただそんな気分なだけかもしれない。それでも正面から否定されないことがジェイドは嬉しかった。
 そうしてフロイドとアズールによってジェイドの健康管理が始まり、二ヶ月程も経てばジェイドはすっかり健康になっていた。傷心からガリガリになっていたのが嘘のように頭のてっぺんから尾びれの先まで艶々している。これならばそろそろ陸へ行ってもいいだろうとジェイドは心に決めた。

「フロイド、アズール。僕は明日、陸へ行きます。色々とありがとうございました」

 フロイドは「あっそ」とただ一言だけ言った。アズールは何度も気を付けるように、無理をしないように、いざとなったら帰ってくるようにと言い聞かせてきたが、ジェイドにはトレイが見つかるまで帰る気は微塵もない。きっとフロイドはその事をわかっていて拗ねているのだと思った。
 その日の晩はいつものように三人並んで、けれどいつも以上にぎゅうぎゅうにくっついて眠った。


   ・・・

 
 ジェイドは海面へ顔を出した。そこはトレイと最後に別れた海岸だった。
 眩しさに目を細めながらも辺りを見回すと、あの日の夜とは大違いだった。昼間の海は太陽の光を反射してキラキラとしている。
 人間にとって人魚は珍しい。人は珍しいものを見たがる。だからこそ人魚である自分は集客率のよい展示物だった。評判がよければより人間は集まってくる。それを知っているジェイドにはたったひとつだけ作戦があった。
 浅瀬の岩の上に腰かけ、水平線を見つめながらジェイドは歌を歌う。久しぶりに歌ったその歌は、ジェイドが水族館でトレイに毎日のように聞かせ、あの日の最後にトレイが歌った歌だ。
 なぜトレイは別れ際に愛の歌を歌ったのだろう。せめてもの情けだろうか。それとも、まだ自分を愛していると信じてもいいのだろうか。トレイと別れてからすでに一年もの時が過ぎている。不安は膨らむばかりだった。

「ママ!人魚!」

 背後から聞こえた人間の声にジェイドは海に飛び込んだ。少ししてそろりと海面へ顔を出せば、ジェイドからはかなり離れた場所で人間の子どもが母親に手を引かれながらこちらを見ている。子供はきゃっきゃっと楽しそうに声を出して笑い、その母親は驚きからか片手で口元をおさえていた。二人はこちらに近づいてくる様子はない。ジェイドは再び浅瀬の岩に乗り、歌を歌った。
 しばらく歌っていると歌声を聞き付けたのか人間が集まってきた。ほとんどの人間が手に持つ端末のカメラをジェイドへ向けている。水族館に居たときと同じだ。上手くいけばより人間が集まり、ジェイドがここにいることをトレイが耳にいれるかもしれない。淡い期待がジェイドの胸のなかにぼんやりと生まれた。

 数日もすればジェイドの歌を聞きに集まる人間は増え、大きな機材を持った人間も集まってくるようになった。ジェイドはニコニコと人間たちへ愛想を振り撒きながら歌を歌う。時に大勢の人間は騒がしく、鬱陶しく感じることもあったがこの中の誰かがトレイを連れて来てくれると思えば気にならなかった。ジェイドはトレイへ届くようにと祈りながら今日も歌を歌う。


   ・・・


「そろそろ帰ってきたらどうですか」

 アズールのその言葉にジェイドは首を振る。半年間、ジェイドは歌を歌い続けた。それでもトレイはジェイドの前に現れることはなく、代わりに痺れを切らしたらしいアズールがジェイドを迎えに来ている。

「フロイドの機嫌が最高に悪いんです。もう手に負えませんよ」
「ふふ、焼きもちですかね」
「笑い事じゃないだろ」

 眉を吊り上げるアズールへ困ったように笑って見せれば、たっぷり数十秒の間を開けてから盛大にため息を吐かれた。ジェイドはぎゅうっと拳を握りしめる。

「諦められないんです」
「……もう半年ですよ。海にまでお前の噂が流れてきている」
「……あと半年。半年後に海に帰ります」
「わかりました。フロイドにもそう伝えます」

 渋々といった様子でアズールは帰っていった。ジェイドは遠ざかっていくアズールの背中が見えなくなるまで見送り、浅瀬へ戻る。ずいぶん前に日が沈んだからか、昼間集まっていた人間は全て居なくなっていた。
 静かな夜の海はあの日によく似ている。アズールにはあと半年と言ったが、あの日の夜を思い出す度に、ジェイドはもう一度でもトレイに会いたい気持ちに押し潰されそうになった。
 どうして、会いに来てくれないのだろう。やはりもうトレイは自分をもう愛していないのだろうか。胸に留めておけない程の切なさが目から溢れ出し頬を伝って落ちる。以前、腹の底から沸き上がった怒りはない。ぽっかりと胸に穴が開いたような虚しさだけがあった。
 こんなにも苦しいのにトレイへの思いは消えるどころか、増すばかりだ。初めにこの感情を恋と呼んだのは誰だろう。その人も耐え難いこの痛みに耐えるために名をつけたのだろうか。ジェイドは月明かりに照らされ、涙を流しながら歌を歌う。