04

 満月が照らす明るい夜だった。月明かりに海面も白く輝いているように見える。そんな海でフロイドとジェイドは仰向けになりぷかぷかと浮かぶようにして空を見ていた。

「星見えないね〜、ジェイド」
「そうですね、フロイド。でもこうして月を見るのも悪くありません」

 ちらりとフロイドはジェイドを見る。月に照らされているとはいえ、はっきりと表情は見えない。だがその頬はずいぶん痩けたように見える。たった数年、されど数年。離れていた時間はフロイドにとって退屈な時間だった。ここ数年のフロイドをジェイドは知らないし、ここ数年のジェイドをフロイドは知らない。死ぬはずがないと信じて探し回って、信じて待った。そうしてジェイドは戻ってきた。人間の番を見つけて。傷を負って帰ってきたジェイドは、フロイドの前で笑っていた昔のジェイドでは無くなっていた。けれど月に照らされる今のジェイドの目にはしっかりと光が灯っている。番のことに心を痛める、虚ろな目をしたジェイドではない。

「ジェイド」
「どうしました?」
「オレと人間の番、どっちが好き?」

 馬鹿な質問だと自分でもわかっていた。隣でジェイドが息をのむのがわかる。フロイドはジェイドから月へ視線を動かした。

「それは……」
「いいよ、ジェイド。選べないもんね」
「……すみません」

 意地の悪い質問をしたのはこっちなのにとフロイドは笑う。すいっとジェイドへ近寄り、首に腕を回して抱きついた。ジェイドはフロイドの背中へ腕を回し、フロイドを抱き締め返す。
 ジェイドはかなり痩せ、ヒレもボロボロになり見る影もない。フロイドとジェイドの体格にそれほど大きな違いはなかったが、今はジェイドのほうが一回りほど小さく見えた。そんなジェイドを労るように、フロイドは尾びれを自分よりも細い尾びれに絡ませる。こうしてジェイドにすり寄ると心臓の音がよく聞こえた。フロイドはジェイドが生きている音を聞きながら目を閉じる。

「ジェイドはオレのこと好き?」
「はい。好きです。大好きな、大事な僕のフロイド」
「うん。オレもジェイド好き」

 抱き締めあったままフロイドとジェイドは笑い合う。まあいいか、とフロイドは思った。番のことは絞めて、引きちぎって、ズタズタにしてやりたいが、ジェイドが自分を大事だと言ってくれる。そもそも番は何より勝る特別なものだとフロイドはわかっていた。

「ねー、飽きた。帰ろ」
「ええ、帰りましょう。」

 二人は一度体を離し、手を繋ぎ直した。にこりとジェイドに微笑まれ、フロイドも笑みを返す。昔と何も変わっていない。

「アズール怒るかな〜」
「どうでしょうね、ふふ」

 アズールに黙って出てきたことを今さら思い出しフロイドはガリガリと頭をかいた。ジェイドはニコニコと笑っている。二人で怒られるならば悪くない。フロイドとジェイドはもう一度笑いあった。


   ・・・


 ジェイドが陸へ行くと言い出してから数ヶ月。本当にジェイドは陸へ番に会いに行った。フロイドはつまらなく思いながらジェイドが置いて行った小石を指で弾く。弾かれた小石は壁に当たってどこかへ転がっていった。

「はぁあああ〜……つまんね……」
「お前が黙ってジェイドを行かせるとは思いませんでしたよ」
「だってさぁ……」

 アズールの言葉に、フロイドはジェイドのことを思い浮かべる。番のことを話すジェイドはいかにも幸せそうな顔をしていた。ジェイドは海へ帰ってきてからフロイドの知らない顔ばかり見せる。ジェイドのことならなんだってわかったはずなのに、番のことを壊れてしまわないよう、そっと大事に胸にしまうその気持ちはわからなかった。
 けれど、だからと言ってフロイドにその温かさを奪うことは出来なかった。いくら番のことが気にくわないと思えど、ジェイドの困ったような、今にも泣き出しそうな、へにゃりと笑う顔に何も言えなくなる。応援はしない。けれど邪魔もしない。夜空を見に行ったあの晩に、誰にも言わずにフロイドがひとりで決めたルールだった。

「ジェイド、言い出したらきかないじゃん」
「まあ、あまりにも帰ってこないようだったら迎えに行きますよ」

 本のページを捲りながらそう言ったアズールにフロイドは頷く。それよりもフロイドは退屈過ぎて暴れまわりたい気分になってきていた。


   ・・・


「はあ!?ジェイド帰ってこないわけ!?」

 半年経っても戻ってこないジェイドを迎えに行ったはずが、ひとりで帰ってきたアズールへフロイドは思わず叫んだ。アズールに「うるさい」と言われようがかまってはいられない。ジェイドはあと半年も戻ってこないらしい。本当に戻ってくるかも怪しい。イライラする。フロイドは尾びれでばしんと壁を叩いた。

「なんでだよ!もういいじゃん!人間なんてさぁ!」
「諦めきれないそうですよ。それより壁を叩くのを止めろ」
「はー!ジェイドってばほんとに頑固!」

 ばしんとフロイドは再び壁を叩いた。それでも怒りは収まらない。ばしん、ばしんと続けざまに部屋のあらゆる場所を叩く。尾びれがテーブルに当たると、フロイドが帰ってきたジェイドのためにと用意したいくつかの料理が音を立てて皿ごと跳ねた。
 フロイドはジェイドと二人でこの海を生き抜いてきた。いつしかアズールも加わって、三人で生き残ってきた。けれど一度ならず二度までも人間はフロイドからジェイドを奪う。しかも二度目はジェイドの心まで奪った。フロイドはぎりっと歯を強く食い縛る。

「いい加減止めろ!」

 アズールに怒鳴り付けられ、最後に棚をばしんと叩きながら、無意識にフロイドは床を見た。そこには黄色い小石が落ちている。自分が暴れた拍子にどこからか転がってきたのだろうその石をフロイドはつまみ上げた。
 番の瞳と同じ色をしているだとかでジェイドが大切にしていた石だ。こんなもののどこがいいのかとフロイドは首をかしげる。番は特別だとフロイドもわかっていた。だが陸の、人間のどこがいいのだろう。ずっと一緒に生きてきた兄弟である自分よりもそちらを選ぶほどの何があると言うのだろう。邪魔はしないが、気になるものは気になる。

「ねー、アズール」
「なんですか」
「ジェイドが美しくて綺麗でかわいい人魚なら、オレも美しくて綺麗でかわいい人魚だよね」
「は?」

 アズールが困惑している様子だというのは雰囲気でわかったが、フロイドは小石から目をそらさず話を続ける。小石は光を反射して鈍く光っていた。

「じゃあさぁ、オレも陸に行けばジェイドの気持ちもわかると思わねー?」
「何を言ってる?お前も陸に行くつもりか?」

 そう考え出したらそんな気がしてきた。人間を見て、つまらなければジェイドを連れて帰ればいい。楽しかったらジェイドにつき合ってもいい。フロイドはにんまりと笑って、ぽいっと小石を投げ捨てる。こつんとどこかにぶつかる音がした。

「じゃあね、アズール。オレ、ジェイドの所に行ってくるから」
「は!?ちょ、待て!お前、陸のことを何も知らないだろ!」

 アズールが呼び止める声を振り切り、フロイドは思い切り全力で泳ぎだした。この速さにアズールは追いつけない。わかってはいてもフロイドは一刻も早くジェイドに会い、人間を間近で見てみたかった。
 時々休憩を挟みながら、ジェイドから聞いていた海岸を目指す。一日と半日も泳いでいると潮の流れが変わり、そろそろかと水面へ顔を出せば、目の前には綺麗に整備された浜辺が広がっていた。しかしジェイドの姿は何処にもない。

「あれ、ジェイドー?」

 呼んでみても返事はない。場所を間違えたかとフロイドは頭をかく。

「まあいっか」

 フロイドはゆるりと浜辺の近くを泳ぎ始める。すでに太陽は半分ほど沈み、赤やオレンジ、ピンクがかった紫と紺のグラデーションの空が広がり、海も紫色に染まっていた。明るい星が微かに輝き始めているのがわかる。

「ジェイドが喜びそ〜」

 ジェイドは稚魚の頃から星空を見るのが好きだったと思い出し、独り言を呟きながらもフロイドは岩場に乗り上げた。だが近くに人間はいない。ジェイドも居らず、人間も居ないとあってフロイドは気分が下がっていくのが自分でもわかった。
 ここまで来たのは初めてだった。三人でよく海面から顔を出し空を見上げることはあっても陸へ上がったことはない。しかも今はひとりだ。フロイドはぼんやりと水平線を眺める。勢いでここまで来たは良いものの、特に面白いものは見当たらない。イラつきを発散させるようにフロイドは尾びれで水を弾いた。
 ジェイドは番のことを考えているとき目から光が消えているとフロイドは思っていた。ドロリと闇が溶け出したかのように影を落とし、ジェイドの表情から感情を無くす。けれど、歌っているときは違った。頬をほんのりと赤く染め、優しい眼差しで歌を口ずさむ。フロイドはそんなジェイドが嫌いではなかった。人魚にとって歌は特別なものだから、大切な誰かへ心を込めて歌いなさい。稚魚のときからしつこいくらいに言われてきたことだ。ジェイドは特別な歌を贈る大切な番を見つけた。あらゆる負の感情を上書きできるほどの。
 歌えば、何かわかるのだろうか。ふと頭に浮かんだ疑問に答えてくれる人は居ない。フロイドはもうほとんど沈んでいる太陽に向かって口を開いた。歌うのはジェイドがよく口ずさんでいたあの歌だ。