愛しのアイビーグリーン

 ラウンジの片隅でジェイドは大きく息を吐いた。
 今夜はいつにも増して客に声をかけられる頻度が多かった気がする。そのほとんどは注文やメニューについてのことだったが、時々世間話を振ってくる客もいた。ある程度なら問題はない。しかし今夜だけでなくここ最近は頻度が多すぎる。率直に言って、鬱陶しい。
 しかも厄介なことに、同じ学園の生徒といえどジェイドに声をかけてくるのは上級生が多く、それもラウンジの客として来ている以上あまり無下にも出来なかった。いっそのこと大きくマナーを逸脱してもらえればジェイドもそれ相応の対応が可能になるのに、と心の中で舌を打つ。
 それが態度に出ていたのか、ため息を見られていたのか、不意に近寄ってきたフロイドは意地悪く笑っていた。

「ジェイド今日もいっぱい声かけられてたね」
「ええ、おかげで疲れました」
「オレもジェイドに間違われて何度か声かけられた」
「おやおや」

 フロイドの笑みは徐々に消え、底冷えするような声で「うぜぇ」とぼやく。これはそろそろ対策を考えなければならないかとジェイドは思案するが、なぜ最近になって気軽に声をかけられるようになったのか原因は思い当たらない。
 だが、直近で何か特別な出来事がなかったか考えればひとつだけある。けれどそれが原因なのか考えてみても断言はできなかった。

「浮かれるのもわかるけどさぁ」

 しかしフロイドは原因がわかっている口ぶりで愚痴を続けた。ジェイドは首をかしげるが、それにフロイドが気づく様子はない。

「ウミガメくんもジェイドの顔見るたびにデレデレするし」

 じとりとした目で睨みつけられてもジェイドは首をかしげたままきょとんと見つめ返すしかなかった。フロイドは最近ジェイドに起きた時別な出来事と関係があると言いたげだったが、何がどう繋がっているのかかがわからない。
 フロイドは何もわかっていないジェイドに面食らったように動きを止める。しかしそれは一瞬ですぐさま呆れとイラ立ちが混ざり合ったため息をわざとらしく吐いた。
 ジェイドの頭には疑問符ばかりが浮かんでいる。

「ほんとにわかんないわけ?ウミガメくんの話題になっただけでちょっとにやけたでしょ」
「そうでしょうか……?」
「雑魚が気安く寄ってくるようになったのそのせいじゃん。親しみやすくなったとか言ってさぁ」

 再びフロイドは底冷えするような凄みのある声でぼやいた。
 そう言われてみればそうかもしれない程度ではあったが、トレイと付き合い始めたことで変化があったというなら、ジェイドも心当たりがあった。むしろ初めての恋人に変化を起こさない人はいるのだろうか。それでも大っぴらにはしゃいでいないだけマシだととジェイドは思う。
 しかしフロイドはそう思っていないらしく顔をしかめたまま、またじとりとした目を向けてきた。よく似ているとは言え、ジェイドに間違えられ声をかけられたことが相当頭にきているらしい。慣れていても同じ日に何度も間違えられればジェイドだって辟易する。キレて暴れださなかっただけよかったとジェイドは不機嫌なフロイドに微笑んだ。

「とにかく、ジェイドとウミガメくんのせいなんだからどうにかしてよね」
「わかりました」

 頷いては見たものの、どうしたらいいものか。ジェイドは頭を悩ませながらまた首を傾げた。


*


「というわけで、これからはトレイさんを控えようと思います」
「は?」
「今、説明した通りなのですが」
「いや、え……は?」

 トレイは目を丸め、切り分けたケーキをジェイドに差し出した体勢のまま固まっていた。別れを切り出したわけではないが、それほどの衝撃を受けた様子だ。それも仕方がないだろうとジェイドは紅茶に口をつける。
 ジェイドはトレイと付き合い出してから毎日時間を見つけては二人で会っていた。まだ付き合い始めて日は浅いが、ラウンジの開店前にトレイが用意してくれたケーキやお菓子で腹を満たすのは習慣になってしまっている。それを無くすのはジェイドにとっても辛いことだった。授業終わりに甘いものが食べられなくなるのはもちろんのこと、トレイとその日あったことなど、たわいない会話をする時間も無くなってしまう。

「しばらくの間ですよ。きちんと対処しますから」
「それは……校内でも話しかけない方がいいのか?」
「そうですね……解決するまではそうしていただけますか?」
「……わかった」

 数十秒の間を置いてようやくトレイは頷き、ジェイドはほっと息をついた。
 フロイドに念を押されてからというもの、どうしたらいいのか考えてはみたが原因となっているらしいトレイと一度距離を置くことしか思いつかなかった。もちろん一時的なもので、ずっと距離を置いたり、ましてや別れることは考えてもいない。とにかくジェイドは問題をさっさと解決してしまうつもりでいた。
 毎日のように会っていたトレイに会えなくなるのは残念だが、早めに行動しなければフロイドが何をしでかすかわからない。ジェイドはそれはそれで面白そうでよかったが、やはり声をかけられ続けるのは鬱陶しい。それにフロイドのイラつきを危惧したアズールからすでに釘を刺されていた。

「トレイさんを巻き込むような形になってしまってすみません」
「まあ仕方ないさ。何かあれば手伝うよ」
「ありがとうございます」

 ジェイドはしばらくこの時間は無くなるのかと悲しく思いながらも、トレイから差し出されたケーキを頬張る。廊下や食堂で、生徒たちの中に緑の頭が混じっていないか無意識に探してしまうのはどうしようも無いだろうと肩を落としながら食べても、やはりトレイの作るケーキは美味しかった。


*


 トレイと距離を置いて数日。なぜか事態は悪化していた。ラウンジだけでなく教室や廊下、合同授業で話しかけられることが増えている。しかも授業に関係ないような世間話からジェイドの趣味などプライベートなことについてまで。
 最初のうちはわけがわからずもにこやかに対応していたが、フロイドの言うところの雑魚に囲まれるのは気分がよくない。ポイントカードを導入してから対価の取り立てにジェイドが赴くことがめっきりなくなったので恐れられることもなくなったのだろうかと考えた。しかしそれにしては遅すぎる。ポイントカード制になったのは数か月も前のことだ。今更?という思いはぬぐえない。
 けれどフロイドに原因だと指摘されたトレイと距離を置いたジェイドには他に原因になりそうなものは思いつかなかった。

「今日も大勢話しかけに来てたね。大丈夫かい、ジェイド」
「ええ、ありがとうございます」

 そんな疲れが顔に出ているのか最近はリドルが気を使ってくれる程だった。リドルは授業開始時刻になっても私語をやめない生徒に腹が立っているのだと言うが、ジェイドがあしらっても話しかけてくるような生徒がいるときは助かっている。

「君も大変だね。アズールたちに相談はしたのかい?」
「僕らの寮は何事も自己責任なので。まあ、アズールのことですから目に余るようなら何かしてくれますよ」
「だといいのだけど……その、気をつけて帰るんだよ」

 まさかリドルに寮までの帰り道まで心配されるとは思っていなかったジェイドは笑いが噴き出した。笑いながらもどうにかリドルに別れの挨拶をし、寄り道せず寮へとまっすぐ戻る。以前ならこの時間にトレイに会いに行っていたのにとふいに考え出してしまえば、会いたい気持ちもあふれ出した。
 ジェイドに近づいてくる奴らを片っ端から痛めつける案はアズールに却下されている。しかしそうすればジェイドに気軽に近寄ってくるような雑魚もいなくなり、またトレイとも会えるようになり、いいことづくめだろう。けれどそれは出来ない。ならばもういっそのことフロイドに大暴れしてもらおうか。そんな物騒な考えばかりが頭を巡る。

 そうしてジェイドは暗い気持ちになりながらもラウンジは開店時間を迎えた。
 客たちに声をかけられることはわかっているが、キッチンにいても「今日ジェイドくんは?」と他のスタッフが何度も声をかけられることになる。フロイドが表に出ようものならジェイドに間違えられ、下手をすればキレてしまうだろう。仕方なくジェイドは表で働いていた。

「注文いいか?」

 さっそく背後から声をかけられたジェイドは憂鬱な気持ちになりつつも振り返り、微笑んだ。しかし見覚えのある緑色の髪に目を見開く。そこには照れたように笑うトレイがいた。トレイと同じテーブルにはケイト、エースそしてデュースが座っている。
 まだ何も解決しておらず、トレイと会うつもりはなかった。心の準備など何も出来ていないジェイドは真っ白になった頭でトレイを見つめ続ける。

「ジェイド?」
「あ、はい。すみません」

 もう一度トレイに声をかけられ我に返ったジェイドは満面の笑顔を浮かべた。トレイだけでなく、ケイトたちにも笑いかけながら注文を取る。トレイが目の前にいる事実に自然と頬が緩んだ。
 注文を取り終えたジェイドはまさかトレイが来店するなんてと心を浮き足立たせながらキッチンへ入った。途端にフロイドに眉をひそめられたが、そんなことは気にならない。

「あのテーブルは僕が担当しますね」
「いいけどさぁ……また顔緩んでんじゃん」
「こればかりは仕方ありませんね」

 フロイドの呆れたようなため息や、他のスタッフたちからの視線を背に受けながらジェイドは注文されたドリンクを持ってトレイたちのテーブルへ戻る。今夜だけはいくら雑魚たちに声をかけられようと全てを許せそうな気がした。


*


「ジェイド!」

 今日も真っ直ぐ寮へ戻ろうとしていた矢先、校舎を出てすぐの所で呼び止められ、目に飛び込んできた緑の頭髪に心が跳ねた。昨夜といい、今日といいトレイの顔を見過ぎだ。ジェイドは咄嗟に身を引いてしまったが、トレイは構うことなくジェイドの目の前まで駆け寄ってきた。

「あの、トレイさん。ラウンジに来てくださったのは嬉しいですが、この前話した問題はまだ何も解決していなくて……」
「解決したよ」
「ですからまだ会うわけには……え?」
「解決したから前みたいに放課後二人で会えるだろ?」

 トレイは機嫌よく笑っている。その笑顔のなんて可愛いことか。しかしジェイドはその笑顔に見惚れている場合ではなかった。
 「解決した」とトレイは言った。ジェイドが頭を悩ませていたむやみに声をかけられる問題が?解決した?いつの間に?トレイの手によって?ジェイドはまだ笑みを浮かべているトレイを凝視しながら首を傾げた。

「昨日、誰にも声かけられなかったか?」
「……言われてみれば……?」
「よかった。話をした甲斐があったよ」

 まさか、まさか!

「僕にちょっかいかけてくる生徒と“お話”したんですか?全員と?」
「全員は無理だから何人かだけだ。話のわかる奴らでよかったよ」
「トレイさん、あなた……」

 ジェイドは込み上げてきた笑いを堪えきれず、声を出して笑った。「またお茶会できるよな?」と笑みを浮かべている目の前のトレイがジェイドが鬱陶しいと思っていた生徒と一人一人お話している場面を想像する。一体何を話したのか気になってしょうがない。

「そんなにおかしいか?人の恋人にちょっかいかけるなんて考えられないだろ。それにあいつら俺とジェイドが別れたと思ってたんだぞ?」

 トレイが口を開くたびにジェイドは笑いが止まらなくなり、ひぃひぃと過呼吸のようになっていた。ただの嫉妬で自分から問題事に飛び込むなんて。出来ることなら生徒たちとお話しするトレイを見てみたかった。

「ケーキ焼いてあるんだ食べるだろ?」
「ええ、もちろん。僕を助けてくれた話、詳しく聞かせていただけるんですよね?」
「聞いても面白くないぞ」 
「いいえ。ぜひ聞きたいです」

 ようやく笑いが収まったジェイドはトレイの腕に自身の腕を絡め、一緒に歩き出す。フロイドに見られたら「浮かれやがって」と文句を言われてしまうだろう。それでもまたトレイと心置きなく放課後デートができるのは心の底から嬉しかった。





愛しのアイビーグリーン