魅惑のマスタード色

 トレイは予想もしていなかった状況に何も考えられなくなっていた。目の前にはジェイドがおり、両手でがっちりと顔を押さえられている。さらには無言で眼鏡越しに両目を覗き込まれていた。
 数十分とも思える何十秒かの時間が過ぎ、さすがにこれ以上は黙っていられないとトレイはジェイドの手を振り払った。自由になったもののまだ困惑しているトレイをよそにジェイドは自分の顎に手をあて、考え込むように首を傾げる。

「何がしたいんだ、お前は」

 ずっと黙ったままでいるジェイドに苛立ちがつのり、ついキツイ口調になる。けれどジェイドは気にした様子もなく、再びトレイとの距離を詰めてきた。突然のことにトレイは一歩後ずさる。

「……確かめようと思いまして」
「確かめる?」
「ええ。どうしてトレイさんが近くにいると胸が苦しくなるのか」

 ジェイドの言葉にトレイはまた何も考えられなくなった。ぽかんと呆けたまま、じっと見つめてくるジェイドを見返すことしかできない。そんなお互いに見つめあう時間が何分か過ぎ、ようやくジェイドはトレイから離れた。
 だが、その顔は晴れない。もう一度考え込むように首を傾げ、何かを確かめるように自分の胸のあたりを触っている。

「……息苦しいって、どんな風に苦しいんだ?」

 悩むジェイドの姿についそう聞いてしまった。まずいことをしたかと一瞬後悔したが、ぎゅっと胸の前で強く手を握りしめる様子にそんな考えは消えてなくなる。これは本気で悩んでいるのだろうとトレイは落ち着かせるように軽くジェイドの背中を叩いた。

「ほら、ゆっくりでいいから。教えてくれないか?」
「……胸が内側から締め付けられるんです。そうすると息も苦しくなって……」
「うーん、それは俺といるときだけなのか?」
「はい」

 ここまでジェイドの話を聞いてトレイの頭の中にはたったひとつ「かもしれない」が浮かんでいた。しかしその「かもしれない」はあまりにも自意識過剰すぎる。
 けれどここ最近はジェイドの姿をよく見かけるようになり、目が合う回数も増えたと思う。だからといって積極的に会話することはなかったが、昨日は図書館で、一昨日は食堂で、その前の日は中庭で……と順に思い出していくうちに「かもしれない」がそうとしか思えなくなってきた。

「トレイさんが傍にいるとこうなるので何かご存じかと思ったのですが」
「……いや、俺にもわからないな」
「そうですよね」

 まだ胸が苦しいのか眉を寄せながら苦笑するジェイドにトレイは少しだけ罪悪感を抱いた。
 胸が苦しくなる理由の検討はついた。だが、それを直接本人に言う勇気をトレイは持ち合わせていない。それになんと伝えればいいのか全く分からなかった。

「トレイさんにもわからないとなると困りましたね……何かわかるまで協力していただけませんか?」
「協力?」
「はい、今のように時間があるときにでも僕と会話してくださるだけでかまいません」
「それだけでいいのか?」
「ええ。その、今は苦しいだけでなく体も熱くて……トレイさんに触れられてからなんです」

 トレイは驚いてジェイドをまじまじと見た。言われてみれば頬が微かに赤くなっている。さらに耳は隠しようがないほど真っ赤だった。
 面食らったトレイは言葉を失う。それだけではなく、釣られて自分の顔も熱くなった。

「あの、それじゃあ僕はこれで」

 口早にそう言うとジェイドは小走りで去って行った。未だにぼんやりとしたままトレイはその姿を見送る。

「やあ、トレイくん!」

 しかし突然の明るい声に心臓が跳ねた。トレイに声をかけてきたルークはにこにこと顔に笑顔を浮かべている。一瞬どうしてルークがいるのかと不思議だったが、今日は部活の日だということと、その部活の前にイチゴの様子が見たくて植物園に寄ったことを思い出した。

「悪い。もう実験始めてるか?」
「まだだよ。でも君が遅かったからね、様子を見にきたんだ」

 ルークは楽しげにそう言った。この様子からしておそらくトレイとジェイドのやり取りをどこからか見ていたに違いない。トレイは気恥ずかしくなって誤魔化すように苦笑した。

「ジェイドくんも顔を真っ赤にしていたよ。君たちは何を話していたのかな」
「どうせ見てたんだろ?」
「ジェイドくんが君の顔を覗き込んでいるところから見てはいたけれど、会話は聞いていないよ」
「それは最初から見てたってことだよな?」

 ルークは否定も肯定もしないかわりに意味ありげな笑みを浮かべている。何か知っているのならとトレイが問いただそうとしてもルークはその笑みのまま、「そろそろ実験を始めよう!」とはぐらかすばかりだった。


*


 キラリと一瞬だけ見えた輝きにトレイは目を奪われた。不意に目が合ったジェイドのオリーブとゴールドの色違いの瞳が照明に照らされた反射だとすぐにわかる。けれど、トレイはその美しさに魅入られたように、ジェイドから目をそらされようとジェイドの顔を見つめ続けた。
 耳を赤くして顔を伏せたジェイドの不審な挙動に、数秒前まで会話をしていたらしいアズールがトレイを見た。トレイの存在に気がついたアズールはにこやかに頭を下げてくる。トレイもそれに片手を上げて応えつつも、視線はうつむいたままのジェイドに向け続けた。
 こんなにもジェイドはかわいかっただろうか。ついこの前までは、どうして自分なんかに興味があるのだろうと怪訝にすら思っていたのに。今のジェイドはトレイと目を合わせることも出来ず、大きな体を縮こまらせて、顔を隠すようにうつむいている。
 ぎゅっとトレイの胸の奥が何かに鷲掴みされたように苦しくなった。

「トレイ、何を見ているんだい?」

 リドルに声をかけられ、トレイはハッとした。今はリドルと寮のことについて話している途中だったと焦る。しかし、集中しろとリドルに叱られるかと思えばリドルはトレイの目線の先にいるジェイドに気がつき、何かに納得したように「ああ」と頷いた。

「ジェイドはまだ君について回っているのかな?」
「知ってたのか?」
「ジェイドから言ってきたんだよ。トレイを見ていると動悸がするってね。随分前からそう言っていたけれど……もう告白はされたのかい?」

 そのリドルの言葉にトレイは衝撃を受け、呼吸すらも止まった。
 「まあ眼鏡を買い換えるよう忠告もしたし、ちゃんと考えて受入れたのなら僕は何も言わないよ」とリドルはからかうように笑った。しかしトレイは「告白」という言葉の衝撃に目を見開いたまま未だに固まっている。
 返事をしないトレイをおかしいと思ったらしいリドルは眉間に眉を寄せた。

「まさか知らなかったのかい?」
「いや、知ってる。というかつい最近ジェイドから俺が近くにいると胸が苦しいって言われて、それでもしかしたらとは思ってたんだ」
「てっきり僕は告白されたのかと思ったけれど、そうじゃないみだいだね。それで?」
「それで……?」

 リドルは呆れたように頭を小さく振った。リドルにそんな態度を取られたことは少なからずトレイにはショックだったが、それ以上に頭の中がジェイドのことでごちゃごちゃとしていて混乱していた。
 ジェイドがやはりトレイに好意を持っていたこと。それをリドルも知っていたこと。リドルが知っているならアズールも知っているだろうし、意味深な笑みを浮かべていたルークも知っているだろう。もしかして知らなかったのは自分だけなのではないのか?あんなに見つめられて、何度も目が合っていたのに?しかも本人に直接言われて気がついたものの、今更自覚して始めている。しかしあれは告白だけれど告白ではなかった。

「トレイはジェイドのことをどう思っているんだい?」

 呆れてはいるものの、関係は気になるらしい。リドルから好奇心に満ちた目を向けられてトレイは言葉につまった。
 ジェイドのことはかわいいと、思う。それはついさっき思ったばかりだが、リドルが言うように随分前から片思いを拗らせて、しかもそれが恋だと気づかずにトレイに直接聞きに来てしまうところなんて、かわいいとしか言葉が浮かばなかった。

「どう思うって……」
「……困惑するのも無理はないね。踏み込んだことを聞いてしまったかな」
「いや、かまわないさ」
「でも相手はジェイドだからね。ちゃんと考えるんだよ」

 まるで眼鏡を変えた方がいいと忠告された時のようだとトレイは苦笑した。とりあえず「わかった」と頷けば、リドルも満足そうに頷き、まだ話の途中だった寮についての話題に戻る。
 話の合間にトレイは先ほどまでジェイドたちがいた方を盗み見たが、そこにはもう誰も居なかった。





魅惑のマスタード色