08

リドルは額の汗をハンカチで拭いながら海を目指していた。駅から徒歩十分ほどといえど真夏の日差しを浴びながら歩いていれば身体中から汗が噴き出してくる。生暖かい風と騒がしい蝉の声が鬱陶しい。はぁはぁと熱い息を吐き出しながら左手に持っていた紙袋を持ち直し、やっと目当ての建物が見えてくるとリドルは小さく笑みを浮かべ、潮の香りがする空気を肺一杯に吸い込んだ。
 海を見ると一年前の星が明るい夜のことを思い出す。人魚と別れたあと海水でびしょ濡れになったまま、トレイはリドルへジェイドのことを話して聞かせた。時々くしゃみを挟むものだからリドルは持っていたハンカチで出来る限り水気を拭ってやったが、絞ればいくらでも水が出てくる服をどうにかしなければどうにもならないと諦めた。落としたままだったトレイのスマホは砂にまみれていたが辛うじて使うことはでき、濡れたまま電車には乗れないと全てを話し合えたトレイは結局、父親に車で迎えに来てもらった。リドルもその車に乗せてもらったが深く事情を聞かずに笑ってくれるおじさんに心の底から感謝した。
 人間と人魚が番になるなどあり得ないと、リドルは言えなかった。あの夜の二人の満たされた顔と別れ際の悲しみを押し殺す顔を見れば否定など出来なかった。心配ではある。たくさんの問題が二人の前に立ちはだかるだろう。でも、だからこそリドルは幼なじみとその恋人の幸せを願ってやまなかった。
 海岸沿いに建つその建物は一階が店舗、二階と三階が住居になっているケーキ屋だった。すっかり話題となり、雑誌やテレビで何度も見たことのある外見に写真よりも実物の方がいいなとリドルは思う。これが二人の幸せの第一歩ならばこんなに嬉しいことはない。リドルは思わず涙ぐんだが、すぐに目元を拭い再び歩き出した。
 今日は休みだからか入り口の前に立て看板はなく、ガラス張りのドアの内側にはcloseというプレートがかかっている。リドルは店の裏手へ回り、インターホンを押した。程なくしてインターホン越しにトレイの声が聞こえる。

「やあ、ご機嫌いかがかな」
「暑い中悪いな。今店の方を開けるからそっちに回ってくれるか」
「わかったよ」

 トレイに言われた通りリドルはもう一度店の方へ回った。リドルがドアの前に立つのとほぼ同時にトレイが中からドアを開ける。

「いらっしゃい」
「お邪魔するよ。休みなのに悪いね」
「こちらこそ。忙しいのに無理言って来てもらったんだ。おあいこだろ」
「それもそうだね」

 店の中へ入ると視界の端で何かが揺らめくのが見えた。ばっとそちらを向けばそこではウツボの人魚が人好きのする笑顔を浮かべている。リドルはそれに驚きつつもぐるりと店内を見回した。店内の面積は半分以上が天井を突き抜けるほどの巨大な水槽で埋められており、その横にぽつりとケーキのショーケースとレジが置いてある。ドアから五歩も歩けばレジにたどり着き、その真横には巨大な水槽。圧迫感が無いとは言えないが、床や壁に水槽の水が反射して店内そのものが水に沈んでいるかのような幻想的な雰囲気があった。

「どうした?」
「いや……実際に見てみると想像とは違っていたから……」
「みんなそう言うよ。あの水槽設置するの大変だったんだ。業者と軽く揉めたよ」

 トレイはリドルを水槽の目の前まで促しながら軽快に笑った。水槽の中の人魚もニコニコと微笑んでいる。ただリドルはその笑みにほんの少し威圧感を感じた。

「遅くなったけれど君たちの新しい門出にこれを」
「いいのか?これ高いやつだろ?」
「お祝いなのだから当然だよ」

 開業日に来れず、今日やっとリドルは初めてこの店を訪れた。早く祝いたい気持ちはあったもののどうしても仕事の都合がつかず、それならばと祝いの品を厳選した。以前トレイが買うのを悩んでいたハンドミキサーとも迷ったが、どうせならトレイも人魚も楽しめるものがいい。メールで連絡を取り合うなかで人魚が紅茶を好んで飲むと聞いていたリドルは様々なメーカーの紅茶を調べ、試飲し、そして見つけ出した。トレイが言う通り値の張る茶葉ではあったが自信を持ってプレゼントできるものだ。

「ジェイドも喜ぶよ。な?」

 トレイがリドルから受け取った上質な紙袋を人魚へ見せるように掲げると、人魚はきゅいきゅいと鳴いた。リドルには何を言ってるのかはわからないが会話をしていることはわかる。人魚はニコニコと笑いながらトレイへ語りかけ、トレイは少し困ったように笑い返した。

「そうだな、ちゃんと丁寧に淹れるよ」
「人魚……えっと、ジェイドはなんて?」
「俺が雑に淹れたらせっかくの茶葉がもったいないってさ」
「高級な茶葉なのだから美味しく飲んでもらわないと困るよ!」

 リドルがトレイがをキッと睨み付けると、トレイは笑って頷いた。ふと、リドルは背後から刺さるような視線を感じ、振り返る。ジェイドは相変わらず笑みを浮かべていた。リドルは首を傾げる。真似をするようにジェイドも微笑みを浮かべたまま首を傾げた。

「ありがとうな、リドル。そうだ今からお茶にしよう」
「……いや、僕はもう帰るよ。仕事のことでやりたいことが残ってるんだ」
「そうか。忙しいのに来てくれたんだな。じゃあせめていくつかケーキを持って帰ってくれ」

 そう言って店の奥へ入っていくトレイの背を見送り完全に姿が見えなくなると、先程とは比べ物にならないほどの鋭い視線がリドルの背に刺さった。寒気がするが決して冷房のせいではない。背中を冷や汗が伝うほどのそれにリドルはゆっくりと後ろを振り返る。ついさっきまで笑っていたはずのジェイドは無感情な顔でリドルを見つめていた。
 思わずリドルはひゅっと息を飲む。大きなウツボの人魚が水槽の中から見下すように自分を見つめている事実に無意識に体が震えた。ジェイドの顔からは感情は読み取れない。ただただ鋭い眼差しがリドルを貫き続ける。先ほどトレイへ言った言葉は嘘ではない。本当に今日中に片付けたい仕事がある。だが、それを差し引いても早々にここから立ち去った方がよい気がしてきた。

「リドル!帰るのにどのくらい時間がかかるんだ?」
「え、あ……」

 トレイがひょこりと奥から顔を出した。リドルはとっさにトレイとジェイドを交互に見る。ジェイドは再びニコニコと微笑んでいた。

「は……?」
「リドル?」
「あ、いや……えっと一時間くらいかな」
「わかった」

 トレイが再び奥へ引っ込むと、すぅっとジェイドから表情が消える。リドルはまた体を震わせたが、負けじとジェイドを睨み付けた。数秒間、険悪な空気の中視線をそらさずにいるとリドルはジェイドの目に見覚えを感じた。嫉妬だ。幼い頃から優秀だと持て囃され、目に見える成績でもそれを証明していたリドルへ幾度もむけられてきたあの目によく似ている。おそらく、いや確実にジェイドはトレイの幼なじみであるリドルへ嫉妬しているのだ。

「……僕が羨ましいのかい」

 リドルのその言葉にジェイドはより眉を吊り上げ、視線を鋭くする。だが恋人の友人関係への嫉妬だと思えばかわいらしいとリドルは小さく笑った。それが見えていたのかジェイドは捲し立てるようにきゅいきゅいと鳴く。リドルは言葉が終わるのを待ち、そして口を開いた。

「僕には君の言葉がわからない。だから検討違いのことを言っていたら申し訳ないけれど」

 ジェイドはきゅっと口をつぐみ、リドルの言葉を待っているかのようだった。リドルはそんなジェイドへ笑いかける。

「トレイのあの幸せそうな顔を見たかい。幼なじみの僕もあんな顔は初めて見たよ。あんな顔は君にしかさせられない」

 リドルがそう言うと、ジェイドは目を大きくしてリドルを見つめた。パチパチと瞬きを繰り返したあとジェイドは照れたように目を伏せる。リドルはそんな顔も出来るのかと心の中で感心してしまった。

「トレイは君といられて幸せそうだ。君と離れていた時の情けないトレイの話を聞いて欲しいよ」

 リドルのその言葉にジェイドはさっきよりも大きく目を見開いた。きゅいきゅいと鳴いているがリドルには人魚の言葉はわからない。ただジェイドは楽しそうに笑っていた。

「トレイを頼むよ」

 ジェイドは鳴くのをやめ、真剣な顔でこくりと頷いた。リトルも笑って頷き返す。その時、ふっとジェイドがリドルから視線を外し、その視線を追うようにリドルは後ろを振り返る。

「何を話してたんだ?」
「君がジェイドと離れていた間、どれほど情けなかったか話そうとしていたんだ」

 ケーキの箱が入った袋を掲げて立つトレイへリドルはそう言い、ジェイドへ「そうだよね?」と笑いかけた。ジェイドは可笑しそうにクスクスと笑っている。トレイは少し顔を赤くして「勘弁してくれ」と呟いた。

「その話をするのはまたの機会にするよ。ジェイドもそれでいいかい」

 ジェイドはクスクスと笑ったままコクコクと頷いた。リドルは頭にベッドの上に虚無顔で寝転ぶトレイや無駄に同じケーキばかりを作りまくるトレイの姿を思い浮かべる。話して聞かせればジェイドはどんな顔をするだろう。トレイはどんな反応をするだろう。想像しただけで可笑しかった。

「はぁ……せめて俺がいない時にしてくれよ」
「君がいないとつまらないよ、ねえジェイド。どうせならあのジェイドの兄弟たちも呼んで聞かせたいよ」
「ずいぶん仲良くなったんだなぁ」
「トレイ、嫉妬はよくないね」

 ジェイドが声を出して笑ったのがリドルにもわかった。つられてトレイも声を出して笑う。リドルは笑い合う二人を見て胸の奥が暖かさで満ちていくのを感じた。

「じゃあ僕は本当にそろそろ帰るよ」
「ああ、引き止めて悪かったな。これよかったら食べてくれ。保冷剤は多めに入れておいた」
「ありがとう。いただくよ」

 リドルはトレイからケーキを受け取り、ドアノブに手をかけた。最後に二人へ軽く頭を下げると、トレイとジェイドはリドルへ手を振る。それに微笑み返してからドアを開けると、太陽の眩しさに一瞬目が眩んだ。騒がしい蝉の声が聞こえてくる。リドルはもう一度だけ二人を振り返り手を振ると、今度こそ真っ直ぐ駅に向かって歩き出した。
 ふと、声が聞こえた。リドルは店から少し離れた場所で足を止め振り返ってみる。真っ青な海の水平線の向こうに大きな白い入道雲が見えた。太陽の日射しを受けて輝く海に思わず見とれていると再び声が聞こえ、リドルはその声に耳を澄ませる。

「……歌……?」

 歌だ。人魚の歌だ。人魚の歌が聞こえる!リドルは自らの胸に溢れ出た衝撃にも似た感情に思わず片手で口を覆った。初めて聞く人魚の歌に、ぐわっと感動の波に飲み込まれて手は震えるのに言葉は出ない。けれど、真っ先にトレイとジェイドの顔が浮かんだ。あんなに煩かった蝉の声は聞こえない。波の音を伴奏とするように人魚の歌だけが聞こえ、リドルは暑さも忘れてその歌に聞き惚れる。
 大きな入道雲が浮かぶ真夏の青空に、美しい人魚の歌が響き渡っていた。



END