07
海面に顔を出すと、同じように顔を出しているフロイドがちょうどジェイドたちを振り返った。薄暗い中でもフロイドの背後に男がいることに気付き、ジェイドは息を飲む。アズールが隣で何かを言っているが聞き取れない。時が止まったように感じた。無音になった世界で男がゆっくりとフロイドからジェイドへ視線を移す。かなりの距離があるはずなのに目と目が合った。心臓が爆ぜたかのような衝撃にジェイドは無意識に止めていた息を吐き出す。バクバクと激しく脈打つ自分の心臓の音しか聞こえない。体は金縛りに合ったかのように指一本動かせなかった。しかしスローモーションのように男が駆け出すのが見える。水飛沫を上げながら海へ入ってくる男は必死な顔で叫んだ。
「ジェイド!!」
ジェイドはその声に弾かれたように泳ぎ出した。まだ心臓が煩い。それでもジェイドは名前を叫び返した。
「トレイさん!!」
力の限りジェイドは泳ぎ、勢いをそのままにトレイの腹の辺りへ抱きついた。全力の体当たりにトレイは「うぐっ」と苦し気な声をもらし、後ろに倒れ込む。ばっしゃーん!と派手に水飛沫が舞った。ジェイドの胸の中では色んな感情が混ざり合い、なんと表せばいいのかわからない感情が全身を満たす。それでも留めておけない感情が両目から涙となって溢れ出た。ジェイドは涙で視界をぼやけさせながらも決して離れないようにと力一杯トレイを抱き締める。
がばりと上半身を起こしたトレイを見上げると、ぎゅうと眉間にしわをよせ、ぐっと歯を食い縛り止めどなく涙を溢すトレイと目が合った。また心臓が爆ぜる。トレイの名を呼びたいのに口から出るのは嗚咽ばかりだった。代わりにジェイドはトレイの肩へ顔を埋める。それに応えるようにトレイはジェイドを強く強く抱き締め返した。ジェイドが握り締めるトレイのシャツからは小さくビリッとどこかが破けるような音がし、トレイのかけている眼鏡は辛うじて耳に引っかかっており、それがトレイの顔やジェイドの頭に当たっていた。けれどそんなことはどうでもよかった。ジェイドはトレイの顔面を殴ることなど忘れ、存在を確かめるように抱き締め合いながら泣きじゃくった。
お互いの呼吸が落ち着くまでどれほどの時間がかかったのか、気がつけば辺りはすっかり暗くなり頭上では欠けた月と星が輝いていた。まだ小さくしゃくりを上げながらトレイの肩から顔を上げたジェイドは今度こそトレイの名を呼ぶ。
「トレイさん」
「ジェイド」
眼鏡をかけ直したトレイに名を呼ばれたジェイドは泣きながら笑った。泣きすぎて目が痛いのに涙は次から次へ溢れてくる。よく見ればトレイの目は充血し、目蓋も赤く腫れていた。
「酷い顔ですよ、トレイさん」
「ジェイドこそ」
二人は顔を合わせてクスクスと笑い合い、どちらともなくキスをした。潮の味だ。一度離れ、数秒見つめ合い、またキスをする。キスをする度にぽっかりと空いていた胸の穴が少しずつ塞がっていくような気がした。「うげぇ」とフロイドの声が聞こえ、そう言えばフロイドとアズールも居たとジェイドは頭の片隅で考えながらもトレイとのキスは止めなかった。
何度目かのキスでトレイも満足したのか、ようやく二人の顔が離れる。やはり酷い顔だとジェイドが笑うと、そんなジェイドにトレイはまたキスをした。唇だけでなく頬や額、目蓋、鼻先、顔の至るところにキスを降らせてくる。突然のことにジェイドは驚きながらもじっとそれを受け止めた。
「会いたかった……」
トレイの喜びを滲ませたその呟きにジェイドの心の中で何かが生まれて弾けた。それはきっと喜びだとか、嬉しさだとか、幸せだとか、そんなものだ。やっと止まったはずがまた涙が零れそうになる。こんなに泣いたことなど今まで生きてきた中であっただろうか。ジェイドは手を伸ばしてトレイの眼鏡を奪い取った。
「僕だって会いたかったです」
今度はジェイドからトレイへキスの雨を降らせる。唇、頬、額、目蓋、鼻先。キスしていない所などないほどにジェイドはトレイへキスを贈った。トレイはくすぐったそうに声を出して笑う。ジェイドはたまらずトレイへ抱きついた。
「もう絶対に離しません」
「ああ。本当にごめんな」
「もしまた僕を手放そうとしたら、その時はその首食いちぎります」
「それは怖いな」
トレイは片腕でジェイドを抱き締め返し、もう片方の手でジェイドの頭を撫でた。ジェイドがうっとりとトレイの鼓動や息づかいに耳を傾けていると、唐突に
「トレイ!!」
その背後からの怒号に笑い合っていた二人の肩が跳ねた。トレイがすぐさま後ろを振り向き、顔をひきつらせる。ジェイドも浜辺へ視線を向けると、そこには顔を真っ赤にした赤髪の青年がわなわなと怒りで体を震わせながら立っていた。
「リドル……?帰ったんじゃ……」
「あんな突然走り出した君を置いて帰れるわけないだろう!探し回ったよ!こんなところに居たとはね!しかもこの時期の海に入るなんて何を考えているんだい!こんなところで何を……人魚……?」
物凄い勢いでリドルがまくし立て、ジェイドとトレイは口も挟めずに呆然とリドルを見つめた。しかしリドルの目がジェイドをとらえると真っ赤だった顔はさっと青ざめる。
「え、トレイ!大丈夫かい?どこか怪我を!?」
「違う、違うぞ!リドル!俺は大丈夫だ!」
ああ、自分がトレイを海へ引きずり込んだと思われているのだなとジェイドは納得した。けれど立ち上がろうとするトレイにジェイドは全身を使って抵抗する。尾びれを体に巻き付けられたトレイは驚いたように目を見開いた。
「ジェイド?」
「ダメです。また僕を海へ捨て置くのでしょう」
「はー?そうなの?絞める?」
いつの間にかジェイドの傍に寄ってきていたフロイドが鋭い歯をちらつかせる。その横でアズールも冷ややかな目でトレイを見ていた。
「トレイ!」
「トレイさん」
「ちょっと待ってくれ!」
リドルとジェイドがほぼ同時にトレイの名を呼ぶと、トレイはそう叫んだ。そしてジェイドの体を持上げ、横抱きにする。突然の浮遊感にジェイドは咄嗟にトレイの首へ腕を回した。
「掴まっててくれ」
トレイはそれだけジェイドへ言うと、浜辺に立つリドルの元へ歩き始める。それを追うようにフロイドとアズールも波打ち際まで泳いだ。リドルはジェイドへ怯えたような目を向けた。にこりと微笑んでみても警戒が解かれることはない。
「リドル、前に話しただろ。俺が手放した恋人だよ」
「え!?いや、でも、人魚……」
「ああ、綺麗だろ」
トレイからの誉め言葉にジェイドはきゅーっと胸が苦しくなった。けれどどこか心地いい苦しさだ。お礼にとトレイの頬へキスをすれば、なぜかリドルが顔を赤くする。それが面白くてジェイドはトレイの顔に手を添えると、ちゅっと音を立てて唇へキスをした。「なっ!」とリドルが驚きの声を上げる。リドルの顔は怒りとはまた違う赤に染まっていた。フロイドがまたうんざりした声で文句を言うのが聞こえる。
「そういうわけなんだ」
「うん、そうだね、トレイの恋人が人魚なのはわかったよ。でもどうするんだい?人魚のために海で暮らす?人魚を家のバスタブに住まわせる?現実的じゃないよ」
リドルのその言葉にジェイドは歯を噛み締めた。離れたくない。二度とこの人と離れたくない。ジェイドは答えを待つようにトレイをじっと見つめる。
「そうだな。今は難しい」
「トレイさん……?」
目を伏せたトレイを見て、ジェイドの胸は引き裂かれるほど痛んだ。じわりと涙が滲む。この男の首を今、噛みきって、血肉を喰ってやろうか。そうすればジェイドが生きている限りトレイと一緒にいられるのではないか。
「だから」
トレイはこつんと自らの額をジェイドの額にくっつけた。穏やかなトレイの表情に十秒前の暗い考えはジェイドの中から消えてしまう。
「待っててくれないか、一年。必ず一緒に暮らせるようにする」
はく、はく、とまるでそこら辺の魚のようにジェイドは口を動かした。様々な感情が生まれては消え、何も言葉となって出ては来ない。寂しい。嫌だ。信じられない。けれど信じたい。その先ずっと一緒にいられるのなら、たった一年くらい待ってもいい。
「……あなたは一度僕を捨てたじゃありませんか。そんなの、信じられません」
声を絞り出すようにしてやっとジェイドは言葉を吐き出した。トレイは困ったように眉を下げる。そんなにかわいい顔をしてもこればかりは譲ってやれないとジェイドは口を尖らせた。
「ですから、来てください。ここに、僕に会いに来てください。何度でも」
「……わかった、絶対に来るよ」
「二度目はありませんからね。来てもらえなかったら僕は死にます」
「それは困る」
ジェイドとトレイは額を擦り付け合いながらクスクスと笑った。けれどジェイドは不安だった。顔には出さない。人魚の自分と、人間のトレイが一緒に暮らせるのなら安いものだろうと心に言い聞かせて。
ジェイドから額を離したトレイはリドルへそこにいるようにと目配せした。リドルは何か言いたげな顔をしつつも静かにそこに立っている。トレイによってフロイドとアズールの待つ海に下ろされたジェイドは名残惜しげにトレイの手を指先でなぞった。その横でフロイドとアズールはじっとりとトレイを睨み付ける。
「ジェイドが死んだらあんたのこと絞めにいくから」
「ええ、どんな手を使ってでも行きましょう」
フロイドとアズールの脅しにトレイは笑顔をひきつらせ、乾いた笑いを溢した。ジェイドはまだトレイを睨み付けている二人の肩に手を置く。
「もう行きましょう。三人で眠れる寝床を探さないと」
アズールはやれやれと少し呆れた様子で先に水に潜っていく。フロイドは尾びれでトレイに海水を浴びせたあと渋々とアズールの後を追った。ジェイドは最後にもう一度、トレイと唇を合わせる。また潮の味がした。
「……それでは」
「またな」
ジェイドは切ない気持ちを振り切ってトレイに背を向け、水に潜る。ジェイドのことを待っていたアズールとフロイドに泣き腫らした顔をからかわれながら、寝床を探すため三人並んで泳ぎ始めた。