「トレイさん、星を見に行きませんか?」
にっこりと機嫌よく笑うジェイドにトレイは思わず首をかしげる。寮へ戻る道すがら呼び止められ、正直嬉しかった。だが、突然の誘いに少しだけ困惑する。
「今日か?」
「はい」
とっさにスマホで時間を確認する。もうすぐ夜の六時だ。すでに日はほとんど沈み、辺りは暗くなっている。今から出かけたとして、どこへ行こうと言うのか。
「学外への外出許可は取ってあるのか?」
「必要ありません」
「え?」
心底楽しげに笑うジェイドの様子につられて小さく笑いながらも眉間にしわが寄る。困りながらも笑っているのがジェイドには見えているだろうに、特に説明はされなかった。こちらが困惑しているのを楽しんでいる様子さえある。
「今夜十時に植物園前に来てください」
「植物園?」
「はい。それではまたのちほど」
トレイが止める間もなくジェイドは足早に去って行った。疑問は頭の中に数えきれないほど浮かんだが、先程のウキウキとしたジェイドの笑顔にかき消される。まあ、寮長にバレない程度になら深夜の無断外出もいいだろうとトレイは再び寮へ向かって歩き出した。
・・・
夜の九時五十分には指定された植物園の前へついたがまだジェイドの姿は見えない。空を見上げるとぽつぽつと小さな星が見えたが、満月に近い月が明るく、あまり星を見るのに適しているとは思えなかった。さらには薄い雲が空を漂っているのも見える。ジェイドが言っていた星は本当に見えるのかと不安に思いながら、手持ちぶさたなトレイは右手で左腕を擦った。
ジェイドが星を見たいと言ったのはなぜだろうか。ぼんやりとそんなことを考えながら空を見つめ続けていると、背後から足音が聞こえた。振り返ると右手に箒を持ったジェイドが立っている。
「おや、お待たせしてしまいましたか?」
「いや俺が早く来たんだ」
笑って見せればジェイドからも笑顔が返ってくる。しかし「それならよかった」と言いながら差し出された箒にトレイは首をかしげた。
「後ろに乗せてください」
トレイは差し出された箒を思わず受け取ったがジェイドの意図がわからず、ぽかんと呆けながらジェイドの顔を見つめた。ジェイドはそんなトレイがおかしかったのかクスリと小さく笑う。
「早く乗せてください。流星を見逃してしまいます」
「流星?」
「ええ、空を飛びながら流星を見てみたくて」
どこか照れたように笑うジェイドに促され、トレイは箒に跨がった。続いてジェイドも箒に跨がり、ぴたりとトレイの背中に体をくっつけ、両腕でトレイにぎゅっと抱きつく。
箒に乗せてもらうために自分を呼んだのかと思うと笑ってしまった。おそらくジェイドは箒から落ちないようにと不安げな顔をしているに違いない。その顔が見れなくて残念だと思いながらも、トレイはジェイドに一声かけ、箒で空に飛び上がった。ジェイドの腕により力がこもり、体が強張るのがわかる。笑いを噛み殺しながらトレイは肩ごしにジェイドを振り返った。
「それで?流星を見るにはどこに行けばいいんだ?」
「そうですね……オンボロ寮の方へお願いします」
「わかった」
いつもの授業の時よりもゆっくりと空を飛ぶがそれでもジェイドには早いらしくトレイの体に回された腕から力が抜けることはない。時折「大丈夫か?」と声をかけてやれば、「大丈夫です」と硬い声で返事が返ってくる。
ゆっくりと移動したがすぐにオンボロ寮の前につき、トレイは空を見上げた。月はちょうど校舎の影に隠れ、周囲にはオンボロ寮の小さな明かりしかなく先程よりも星は見やすい。しかし空をじっと見つめていてもまだ流星は流れず、それどころか薄い雲が空全体を覆い始めていた。
「……雲が出てきたな」
「ええ、今日は見えないかもしれません」
肩越しにジェイドを振り返れば、平常心を装っているものの声はやはり強張っていた。その様子につい笑ってしまったが、ジロリと睨まれるだけで終わる。軽口も叩けないほど緊張しているのかと少し不憫に思えてきた。
「降りるか?」
「……はい」
ゆっくり静かに降下するがジェイドの腕に力が入り、苦しいぐらいに抱きつかれる。地面に足がついてやっとジェイドは大きく息を吐き、体の緊張を解いた。
呼吸がしやすくなった体で深呼吸しながらトレイはもう一度空を見上げる。所々薄い雲の隙間から夜空が覗いているが、流星は見えない。
「予報では今夜は流星を観測しやすいはずだったのですが……残念です」
同じように空を見上げていたらしいジェイドが気落ちしたようにそう言った。確かに流星を見るのは難しいかもれない。しょんぼりと肩を落とすジェイドの背をトレイはぽんぽんと優しく叩いた。
「今日は残念だったな……また今度、流星は難しいかもしれないが星を見に行こう」
「ふふ、嬉しいです。名残惜しいですが今日はもう帰りましょう」
「飛んでいくか?」
「結構です。……トレイさん一人で飛んで帰ってしまうのですか?」
「まさか」
そんなことをしたら後が怖い、とトレイは空いている手を差し出す。嬉しそうに手を繋いできたジェイドの手をしっかりと握りしめ、共に歩き出した。
「星の降る空を飛べたら楽しいかと思ったのですが上手くいきませんね」
「そうだな」
そもそも飛行術が苦手だろうという言葉は飲み込み、その発想の可愛らしさにトレイはくつくつと笑った。そして最後にもう一度だけと空を見上げる。キラリと暗闇で何かが光った。
「ジェイド!」
空から目を離さず名前を呼べば、隣でジェイドが息を飲んだのがわかる。雲の隙間、ほんの少しだけ見える夜空にいくつかの星が降り注いでいた。
「よかったな、ジェイド」
興奮からか繋いでいるジェイドの手に力が込められ、ふとトレイはジェイドの方を向く。ジェイドは目を大きく見開き、きらきらと目を輝かせていた。今度はトレイが息を飲み、まるで星の光を反射しているかのような瞳に釘付けになる。
「……綺麗でしたね」
数十分ほどの時間が経ちジェイドはトレイに向き直った。その両目は未だにきらきらと輝いているように見える。トレイはずっとジェイドの瞳に見惚れていたとは言えず、ぎこちなくも頷いた。
「流星も見えたことですし帰りましょうか」
「ああ……」
鼻歌でも歌い出しそうなジェイドに手を引かれつつも空を見上げれば雲の切れ間はなくなり、完全に空は雲に覆われていた。トレイは先ほどのジェイドの表情を思い起こす。ジェイドの顔は綺麗だ。どんな表情をしていてもそれは変わらない。ただ、きらきらと目を輝かせて笑う顔に心が揺さぶられた。またあの表情が見られたらどんなにいいだろう。
「なあ」
「どうしました?」
声をかければトレイの手を引くようにして一歩前を歩いていたジェイドが足を止め振り返った。綺麗な顔で笑うジェイドに愛しさが募る。けれど、やはり先ほどのように目を輝かせて笑うジェイドを何度でも見たい。
「今度の休みはプラネタリウムに行かないか?」
「プラネタリウム、ですか?」
「本物の星には敵わないだろうけどな。少し星に興味が出た」
笑って見せればみるみるうちにジェイドは破顔し、頬をうっすらと赤く染めた。その表情にトレイはぐっと胸が苦しくなる。
「ぜひ、行きたいです」
「それじゃあ後でジェイドの都合のいい日を教えてくれ」
「はい、確認したらすぐにお伝えします。とても……楽しみです」
「俺も楽しみだ」
それから子どもの頃に両親に連れて行ってもらったプラネタリウムの話をした。プラネタリウムデートについても話しているうちにあっという間に鏡舎の前に着く。「また明日」と言い合い、別れる直前にジェイドはトレイが持っていた箒に手を伸ばした。
「これは僕が明日こっそり返しておきます」
「いいのか?」
「もちろん。僕が持ち出した物ですから」
「わかった。ありがとう」
「いいえ。僕の方こそありがとうございました」
トレイはジェイドが寮に続く鏡の中へ入っていくのを見届け、自らの寮に戻った。高鳴る胸の鼓動が煩かった。