化け物になったトレ

※NRC卒業して数年後の社会人設定。トレイが人間ではありません。




「そういえば、トレイさんはお元気ですか?」

 電話後しに問われた言葉の、その珍しさにジェイドは笑みを浮かべた。いつもならば社交辞令かと思うが、今の通話相手のアズールはいつも「惚気は聞きたくない」と言ってジェイドに家庭のことを話す隙を与えない。ましてや自分から聞いてくるなんて、雪でも降るのかとジェイドはつい窓から外を眺めた。

「元気ですよ。今日も家で僕の帰りを待ってくれています。だというのに僕はアズールにこきつかわれて……」
「元はと言えばお前の片割れが原因だろ。しかもこうなるとわかってて止めなかったのはお前だ」
「手厳しいですねぇ」

 アズールの言う通り、ジェイドはフロイドの尻拭い、もとい共犯者としてその穴埋めのために一人寂しく残業していた。フロイドは別の仕事を言いつけられている。おそらく文句を言いながらこなしているのだろうと、その場面を想像してジェイドは小さく笑った。
 それが伝わったのか「笑う暇があるなら早く終わらせろ」とアズールに小言を言われた。そんなこと言われなくとも、ジェイドは一度も手を止めずにパソコンに向き合い文字を打ち込んでいる。スピーカー設定にして会話しているのだから、キーボードを叩く音がアズールにも聞こえているだろうに全く酷いタコちゃんだ。ジェイドは大げさに音を立ててエンターキーを押してやった。

「終わりました。送信したので確認お願いしますね。それじゃあ僕はこれで失礼します」

 ジェイドはアズールの返事を聞くより前に通話を終了し、パソコンの電源を落とした。愛しいトレイが家で待っているのだからこれ以上遅くなるわけにはいかない。しかも帰りがけに夕飯の材料も買って帰らなければ、今晩食べるものはない。
 トレイの顔を思い浮かべながら手早く荷物をまとめたジェイドは駆け足で職場から飛び出した。





 リビングの明かりをつける。家の中はしんっと静まり返っているが、ジェイドは上機嫌で食材の入った袋をテーブルに置き、リビングの大きな窓を開けた。リビングの外には大きなプールが設置されている。そのプールは普通のプールよりも底をかなり深くした特別製だ。ジェイドはプールの縁にしゃがみ込み、水面に向かって声をかけた。
 しばらくすると水が揺れ始め、静かに黒い影が浮上してくる。ちゃぷんと音を立てながら水から顔を出したそれにジェイドは微笑みかけた。

「ただいま帰りました、トレイさん」

 プールからジェイドを見上げるトレイは人間の頃の面影はあれど、その姿は人間からは程遠くなっている。体は人間と魚が中途半端に混ざり合い、人間の皮膚と人魚の皮膚とで斑らになっており、顔は半分以上が鱗に覆われ片目は完全に潰れていた。残った片目も元々視力が低かったこともあってかほとんど見えていない。白濁した瞳は深海魚を彷彿とさせる。それでも生き物の熱を感知することはできるらしく、さらに音には敏感だった。

「遅くなってすみません。お腹空きましたよね?今すぐに準備しますから」

 ジェイドは立ち上がり、リビングを通ってキッチンへ向かう。プールの方へ視線を向けると、こちらをじっと見つめているトレイが目に入った。
 トレイは下半身は綺麗な人魚だ。大きな尾鰭で力強く泳ぐことができる。だが、上半身は変身途中で多くのものを失ってしまった。そのうちの一つ、陸で呼吸するための人間の肺が鰓の生成途中で潰れている。トレイは水中での鰓呼吸しか出来ず、陸で肺呼吸をすることは出来ない。だからあのプールから出ることは不可能だった。
 トレイに見つめられながらジェイドは夕食の準備に取り掛かった。食べやすいように食材はなるべく細かく切り、もちろん栄養のバランスと味付けにはしっかりと気を使う。大人しくプールで待っているトレイを可愛らしく思いながら夕食を作るのはいつものことだった。

「お待たせしました」

 料理をのせたトレーを持ち、ジェイドは再びプールへ向かった。トレイはぼんやりとジェイドを見上げてくる。ジェイドはそんなトレイへ微笑みかけ、トレーを一度プールの縁に置き、ジェイド自身は足を水につけながら縁に腰をおろした。
 近寄ってきたトレイの口を指先で優しくつつくと、ぱかりとトレイの口が開かれ、ジェイドはそこへ料理を一口分掬ったスプーンを差し出す。モグモグと差し出されたものを静かに咀嚼するトレイにジェイドはうっそりと微笑んだ。こうして食べさせてやるのもいつものことだった。
 トレイの手は指と指の間に大きな水掻きがあり、もう手として使うことは出来ない。トレイの腕は完全に魚のヒレになっていた。目も見えず、手も使えないトレイに毎朝、毎晩、食事をさせるのはジェイドの日課だ。

「ジェ」
「はい、どうしました?」

 トレイは猫のようにジェイドの膝にすり寄り甘える仕草を見せた、ジェイドはトレイの頭を両手でわしゃわしゃと撫で回した。
 言葉すらも満足に発せないトレイ。どうして人間にも人魚にもなりきれない中途半端な生き物になってしまったのかといえば、トレイとジェイドが愛を誓い合い、共に生きようとしたからに他ならない。人魚であるジェイドに歩み寄るためにトレイは人魚になろうとした。
 変身薬の成分に問題はなかったはずだ。調合の手順も間違いはなかった。それなのに何故かトレイは今のような姿になってしまった。医者はもちろん、アズールや学生時代のツテを頼っても未だに人間に戻す方法は見つかっていない。そもそも人間の体からかけ離れてしまったトレイを人間に戻すとなると労力は途方もなく、トレイ自身への負担からも現実的でなかった。

「……ジェ」
「はい。僕はここにいますよ」

 人魚としてもなり損ないのトレイを海に連れて行くわけにもいかず、ジェイドはこうして庭に設置した巨大なプールでトレイの面倒を見ている。時々ジェイドもトレイと共にこのプールで泳ぐのが好きだった。
 目が見えないからか方向転換が下手なトレイの腕を引いて泳ぐと、トレイの目が笑うように細められ、ジェイドはたまらなく嬉しくなる。それを思い出すと、明日も仕事だがこれから泳ぎたい気分になってきた。トレイへ一言告げ、ジェイドは一度食器を下げるために立ち上がる。そしてトレーをキッチンに置いたあと、明日のための変身薬とタオルを手に取り急いでトレイの元へ戻った。

「今夜は一緒に眠ってもいいですか?」

 プールサイドに持ってきたタオルと薬を置き、手早く服を脱ぎ去り、プールへ飛び込む。変身を解いて人魚に戻れば、トレイがゆっくりと近づいてきた。尾鰭を絡ませ合い、腕をトレイの背中に回す。するとトレイもジェイドを抱きしめるように左右両方のヒレでジェイドの体を包み込んだ。
 アズールはトレイの使用した魔法薬や今の状態に興味があるのか頻度は多くないが、トレイの様子をきいてきたり、この家にわざわざ様子を見にきたりする。逆にフロイドは一切この家には近寄らない。トレイの話もしない。おそらく学生の時から人間の恋人のことはよく思っていなかったのだろう。それがもはや人間でも人魚でもないものになってしまったのだからフロイドとしてはたまったものじゃないと想像はつく。
 それでもジェイドを無理やりトレイから引き離そうとしないあたりはフロイドなりの優しさなのだと、ジェイドから無闇にトレイのことについてフロイドへ話すこともなかった。少しだけ寂しい気もするが、フロイドとの関係変わったわけではない。トレイのことが絡んでこなければ、今までと同じ片割れだった。

「ジェ」
「はい、トレイさん。今夜はもう寝ましょうか」

 トレイの幼なじみやかつての同級生や後輩はアズールほどではないが、たまにトレイの顔を見にくることがある。特に猫の獣人のチェーニャは姿が変わった後も、以前と同じようにトレイに接しており、時にもう一人の幼なじみであるリドルをつれてくることもあった。ケイトやエース、デュースも何度かここへ来たことはある。来る度に悲壮な顔で帰って行くのがどこか腹立たしかった。
 ジェイドがそんなことを思い出して気分が下がったのを感じ取ったのかトレイはジェイドの頭や顔に軽いキスを何度も繰り返した。偶然トレイがそんな気分だけだったのだとしても、ジェイドの心は一気に明るくなる。

「ふふ、ダメですよ。僕は明日お仕事ですからもう寝ないと」

 そう言ってもまだじゃれることを辞めないトレイへジェイドはキスをする。唇へ触れるだけのキスだったが、唇を最後に舐め離れればトレイも満足したのか寝る体勢に入った。

「おやすみなさい、トレイさん」

 明日も、明日の明日も、その先もずっと一緒にいよう。
 二人は決して解けぬように尾鰭を強く絡ませ合い、抱き合ったまま眠りについた。