トジェがネイルする話

※事後の描写があります。直接的な表現はありません。



 慣れた手つきで迷うことなく、滑らかに小さなハケがジェイドの爪を色付けていく。ジェイドはその様子を静かに見下ろしていた。
 トレイの部屋の、トレイのベットの上。そこに腰かけたまま、もうどれほど時間が経っただろう。トレイはジェイドの爪にネイルを始めてからずっと黙ったままだ。ジェイドをベットの縁に座らせ、自分はカーペットの上に胡座をかいて座り込み、一言も口を開かない。ただ、口元が小さく歪んでいて、楽しんでいるのだということはわかる。
 妥協は許さないとでも言い出しそうな熱の入ったトレイの視線を爪先に感じながらジェイドはもしかしたら自分もあんな表情をしていたのかもしれない……と、ふいに思った。

 丁寧にベースコートを塗り、乾くまで少しの間待つ。早く爪に色付けたくて、そわそわと塗る予定のネイルの瓶を片手で弄んだ。
 フットネイルは陸に来て、足を手に入れてからフロイドと共に興味本意で始めたことだ。フロイドは臭いが嫌いだと言って一度塗ったきり、やめてしまった。ジェイドはせっかく買ったのにもったいないとただそれだけで、何もやることのない休日などに時々塗っていたが、今は違う。
 片手に簡単に収まるネイル液の瓶を眺めていると胸が高まっていくのがわかる。いくつもの中から選び抜いたそのグリーンはトレイの髪色を彷彿とさせた。その色を今度はベースコートの乾いた爪の上に塗っていく。はみ出すことがないよう、塗り残しがないよう、丁寧に丁寧に手を動かした。そうしてまた乾くのを待つ。今度は色のついた爪の上にどんな飾りをつけるか考えるため、わくわくとした気持ちを抱きながらパーツを入れているケースを開いた。

 ジェイドがそこまで回想したところでトレイが短く息を吐いた。ちらりと目線を右の足先に向けると、五本の指の爪の全てが綺麗に緑色に染まっている。一区切りついたのか、とぼんやり頭の中で思いながら、トレイがジェイドの右足を床に下ろすのに合わせて、今度は左足を持ち上げる。当然のようにトレイはその足を受け止め、先ほどと同じように自分の膝の上に乗せると、まだベースコートが塗られただけの爪に緑のハケを滑らせ始めた。まだ時間がかかりそうだと、ジェイドは再びまだ恋人になる前のことを思い出し始める。

 爪が緑に染まった指を軽く動かしてみる。瞳の色をイメージして親指の爪にのせたイエローのビジューがジェイドが指先を動かす度に光を反射して綺麗だった。深いグリーンと小さな黄色いビジューにどきどきと胸が高鳴る。フロイドと選んだターコイズも綺麗な色ではあったがここまで心が動かされただろうか。
 トップコートを塗ればより艶が出て、ジェイドは満足感から笑う。海では必要ない、陸を歩くための両足がトレイに染め上げられたかのような感覚に胸が一杯になった。思わずスマホで写真を撮ってしまうくらいには自分でも綺麗な仕上がりで、人魚に戻ったときになくなってしまうのが惜しいと思った。
 けれどそれは最初のうちだけで、いつしか別の色を塗る楽しみになり、伝えるつもりもなかったトレイへの想いをぶつけるはけ口になった。ある時は髪色と同じグリーン、ある時は瞳と同じイエロー、ある時はハーツラビュル寮の寮服と同じ赤や黒や白、その上にクローバーのシールを貼れば完全に誰が見ても副寮長の顔が浮かぶデザインになる。それはさすがに誰に見せるわけでもないがあまりの恥ずかしさに部屋で枕に顔を押し当てて呻いた。

 今や、そんな行為をトレイ本人に許している。しかしトレイの手によってトレイの色に染め上げられることをジェイドが許可したのはそれほど前のことではなく、最近という言葉で表せるくらいだ。
 何がどうして想いが通じ合い付き合うことになったのか理由は未だはっきりしないが、この行為のきっかけはジェイドがトレイの部屋に初めて泊まった日に、裸足ですごしていたらトレイにネイルを褒められたことだった。その時も爪はグリーンに塗られていたため、見られてはいけないものを見られてしまった気持ちでぎこちなく微笑み返した。そのグリーンはもちろんトレイを意識していたものだが、いつものようにあからさまにトレイだとわかるようなデザインではなかったことに安心したのもつかの間、「次は俺に塗らせてくれ」とトレイに詰め寄られ、あまりの勢いにジェイドは頷いてしまった。
 それからというもの、今に至るまでジェイドの足の爪に色をつけるのはトレイが行っている。ジェイドも悪い気はしないため続けてきたが、もしやこの男ただの足フェチなのでは?という考えが頭を過ってから、恋人の色に染め上げられるつま先を見ても素直に喜べないでいた。
 トレイがジェイドの本当の姿を知らないことはないだろう。新入生でもなければジェイドとフロイドが人魚の兄弟ということは学園に広く知られている。水泳の授業でその姿を見せることもあれば、授業でなくともその時の状況によって人魚の姿に戻ることもあった。
 けれどトレイはジェイドの足を気に入っている。それはこの行為からもわかることで、まだ片手で数えられる程度だがこのベッドの上で”そういうこと”をする時に執拗に触ってくることからもわかる。そのことを今まで気にしたことはなかったが、ここ最近はジェイドの持つあの長い尾鰭を間近で見せればどんな反応が返ってくるのか考えるようになってしまった。

「よし」

 その小さなトレイの声にジェイドは再び足先に視線を落とす。左足の爪も全て緑に染まっていた。だが、まだこれからトップコートを塗る工程がある。まだまだ終わりは遠い。そろそろ退屈になってきたジェイドは小さくため息をついた。

「休憩にしようか」

 朗らかに笑いながらトレイは立ち上がり、大人しくできて偉いな、とでもいうようにジェイドの頭を軽く撫でた。いつもならば心地よいそれも機嫌があまりよくない今は鬱陶しい。ジトリと睨みつけるようにトレイを見上げれば、苦笑いが返ってきた。

「……シャワーを浴びたいです」
「今?すぐにか?」
「はい」

 せっかく塗ったネイルが落ちてしまうことを心配しているのだろうトレイは困ったように右手で首を擦っていたが、ジェイドの放つ圧におされたのか渋々と頷いた。いくらか心が軽くなり、ジェイドはさっそくバスルームに向かう。もう何度も使ったことがあるためタオルやシャンプーなどの置き場はすっかり把握している。早くシャワーを浴びてすっきりしたいと、ジェイドは手早く着ているものを脱いだ。
 そうして変身も解く。尾鰭が床に落ちた拍子にどんっと重量感のある音が響いた。それを聞きつけたのか一拍遅れてトレイがバスルームのドアを開ける。

「ノックもなしですか?」

 からかうように笑って見せたが、トレイはそれどころではなかったらしくただ笑うジェイドを見て安堵の息を吐くだけだった。そのままトレイはバスルームに入ってくると床にとぐろを巻いている人魚姿のジェイドに近づいてくる。

「薬の効果が切れたのか?」
「いいえ」
「じゃあどうしたんだ?」

 トレイからは怒りや嫌悪を感じない。ただ本当にジェイドが突然元の姿に戻ったことを不思議に思っているように感じた。ジェイドは言葉がすぐに出てこずに口を閉ざしてしまう。

「まあいいけどな。でもバスタブに入ってからの方がよかったんじゃないか?」

 ちらりとバスタブへ視線を向ける。そこまで距離があるわけではないが、人魚姿で入るには一苦労するのは明白だった。ジェイドはトレイに向き直り、にっこりと笑いかけ腕を伸ばす。

「入れてください」
「わかった」

 難なくトレイはジェイドを抱き上げた。尾鰭の先が少し床に擦れるが気になるほどではない。かなり重いことは自覚していたが、そんな様子を微塵も見せないトレイにきゅっと胸が締め付けられる。
 バスタブの中に優しく下ろされたジェイドはトレイが蛇口をひねるのを黙って見つめた。温度について問われれば答えたが、ただじっとどこか楽しそうなトレイを見つめつづける。

「穴が開きそうだ」

 笑うトレイの頬にぴたりと尾鰭の先を当てる。トレイは驚いてはいたが嫌がることなくジェイドの好きなようにさせた。しかしぴたぴたと軽く叩きつづけていると、さすがに黙っていられなくなったのかトレイはぺしっと軽くジェイドの頭を叩いた。

「どうしたんだ?さっきから」
「……トレイさんは僕の人間の足が好きなんだと思ってまして」
「うん?」
「人魚姿の僕を見たらどのような反応をするのかと」

 考えていたことを白状すれば、トレイは目を丸くした。丸くした目のままジェイドの頭の先から尾鰭の先までを眺められ、つい悪戯心でバスタブの水を飛ばす。「わっ」と驚いた声を上げてから、水滴のついた眼鏡をシャツの裾で拭い、トレイは小さく声を上げて笑った。

「全く……俺はな、ジェイド」
「はい」
「お前の足が好きだ。足だけじゃなくて腰とか、背中とか、うなじとか、尻の形とか、手とか、もちろん顔とかも好きだ」
「え?」
「だからってこの姿が苦手なわけでも、ましてや嫌いなわけでもない」

 その時、バスタブの中の尾鰭にトレイの手が触れ、ジェイドはびくりと体を揺らした。撫でるようなトレイの手つきにくすぐったさから体をよじるが、バスタブの中に逃げ場はない。「あの」と控えめに声をかけてもトレイが手を止めることはなかった。

「ジェイドは人魚の姿でも人間の姿でも綺麗だよ。どっちも好きだ」
「あの、もうわかりましたから手を止めてください」

 トレイの反応が見たかっただけなのにどうしてこうなったのか。ジェイドは羞恥から顔をうつむかせる。けれどトレイの手によって顔を上げさせられ、ジェイドは抵抗しようと手を上げたがトレイの表情が視界に入った途端体の動きが止まってしまった。
 先ほどとは明らかに目つきが違う。穏やかだった目はなりを潜め、熱のこもった鋭い目がジェイドを見つめていた。何度もベッドの上で見てきた、見覚えのある顔に冷たい水に浸かっているはずのジェイドの体が火照り始めてしまう。

「……トレイさんのスケベ」

 せめてもの抵抗を、と睨みつけてはみたが、トレイはうっとりと微笑むだけだった。


・・・


「色落ちちゃったな」

 トレイのベッドの上、ほぼ裸で寝そべるジェイドの爪先を撫でながらトレイがそう言った。ジェイドはダルい体を起こすのは億劫でそのまま好きにさせている。もう少し元気があれば「人の体を撫で回すのはやめろ」と張り手をしていたところだ。

「また塗ってもいいか?」
「……どうぞ。そのかわり」
「そのかわり?」

 のっそりとジェイドが体を起こすと、トレイはジェイドの体を支えつつ顔を近づけてくる。唇が触れそうな距離だったがジェイドは手でトレイの顔を押し返した。トレイは「ダメかー」と笑いながら大人しく離れる。昨日からすっかりトレイのペースに飲まれているのではないかと思うと無性に腹が立ち、ジェイドはトレイの頬をつねった。

「そのかわり、僕もトレイさんの爪に塗らせてください。色も僕が選びます」
「俺の爪なんか塗っても……いたた、わかったよ」

 一瞬渋い顔をしたトレイの頬をつねる指に少し力を入れるとすぐにトレイは頷いた。ジェイドはそんなトレイの態度に気分がよくなり手を離してやる。おまけにつねられてほんのりと赤くなった頬にキスを贈った。
 菓子作りをするトレイの指にネイルをするのは難しいだろうか。塗ったとしてもすぐ落とすことになるかもしれない。だったらやはり足の爪に塗らせてもらおう。何色にしよう。グリーン、ターコイズ、イエロー……塗りたい色はたくさんある。けれどやはり最初はジェイドの尾鰭と同じ色にしよう。

「トレイさん、お腹が空きました」
「何が食べたいんだ?」
「そうですね……トレイさんのおすすめで」

 ジェイドは同じ色に爪を染めたトレイを想像しながら満面の笑みを浮かべた。