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蝮は夜明けの夢を視るか

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黒岩涙香の朝は、目覚めてすぐの一杯の紅茶から始まる。起き抜けの姿のまま、一人でゆったり出来る此の時間が黒岩は好きだった、筈なのだが。

ゴンゴンゴン……ジリリリリ――

昨日仕入れた良いダージリンをワクワクしながら丁寧に淹れている途中だった。忌々しくも、聞き慣れた自宅のドアノッカー、そしてチャイムの音が突如鳴り響いたのは。

『此れだからお役人は……』

どうやら尋ね人の正体が分かっているらしく、紅茶用の砂時計を反転させ、小さく悪態を吐きながら黒岩は玄関へと向かう。

そして、扉を開くと視界に入ってきた黒衣の男を睨むように見た。

『お早いことだね』
「……もう10時ですよ」

小さく嘆息しながら、丸眼鏡の細フレームを指先で上げ直す。黒スーツを隙なく着こなして扉の前に立っているのは、坂口安吾。

『僕は今さっき起きた』
「でしょうね。恐ろしく扇情的な姿です。暴漢が入り込む前に中に入りましょう」

寝起き故に珍しく不機嫌な黒岩は、坂口の指摘通りどうにも色の匂いを多いに漂わせている。其の身体の線の細さも相俟って、寝巻きとして着ている着流しの袷が何とも言えない角度になり、坂口も目の遣り場に困るほどだ。

『君がそうじゃない保証は』
「有りませんが……入室させてくれた暁には、コレがお茶請けになりますよ」
『……好きだよ安吾』
「はぁ、貴方が好きなのは僕ではなくひよ屋のプリンでしょう。まあ、失礼しますよ」

黒岩の大好物として有名な"ひよ屋"のプリンを武器に、坂口は無事黒岩の城に入り込むことに成功したのだった。

『紅茶でいいよね』
「お構い無く。でも、涙香くんの紅茶は美味しいですから、お願いします」
『ご機嫌取りは不用』

入室してすぐに台所へ向かった黒岩は客人用に新たな紅茶を淹れ直す。未だに不機嫌さが残る口調に、坂口は僅かに苦笑した。

『どうぞ』
「頂きます。……ダージリンですか、流石の香りですね」
『うん、』

有られもない姿ではあれど、カップアンドソーサーで茶を嗜むのが良く似合う男だと坂口は思った。ひと口をたっぷり楽しんで、口角を少しだけ上げた黒岩の様子を見て、

「さ、先ずは目の遣り場に困る此の状況を何とかしてください」

坂口は小さな咳払いと共に言った。

『分かった。待ってて』

黒岩は冒頭からの不機嫌さを薄めた声色で答え、奥の部屋へと向かう。坂口は其れを見て、安心したとばかりにほう、と嘆息した。
数分で戻ってきた黒岩は、白のハイネックに黒いスキニーを着て戻ってきた。

『御免ね、お待たせ』
「ええ、待ちましたが、想定内です。」

腕時計を確認しながらの坂口の堅い返答にも、柔らかい微笑みで返す黒岩はもうすっかり機嫌を取り戻した様子で、坂口の正面のソファに腰掛けた。

『報告事項は先日渡した内容で問題ない筈だけれど』
「ええ。問題なく活用しています」

じゃあ何?とばかりに黒岩は小首を傾げる。今回の坂口の訪問が、予定外のものであったからだ。自画自讃と言うわけではないが、自分の仕事にはある程度の自負を持っている黒岩。
自身の仕事の不備で無いのならば、状況の急変、若しくは新たな依頼しか考えられない。

「端的に言えば、思いの外展開が早いような試算が出ています」
『そう……あの数字でも追い付けないなら相当だね』
「ええ、厄介なことになるかもしれません」
『"かもしれない"、を君は軽率に話したりしない』

眉を寄せて、黒岩は坂口の顔を覗き込む。硬い表情のまま、暫し沈黙した坂口が、再び口を開いた時。其の眼差しには剣呑な光が宿っていた。

「―――、まだどっち付かずを続けていますね」
『……』

黒岩の瞳が瞬間的に細まる。やはり来たか、と言うような表情にも見えた。

「今後も其れを貫くつもりで?」
『僕は自由にやりたいんだ』

坂口の冷やかな指摘に、黒岩は睨むように答える。丸眼鏡のフレームを指先で戻した坂口は、大きく嘆息してから言う。

「……先日の資料の作成者様が、其れが命取りになると解らない筈がない。」

普段は冷静さを失わない其の声に、怒りさえ滲ませて。

「貴方は死にたいんですか?涙香くん、此のまま事が進めば、貴方は、貴方こそが最重要人物になるんですよ。二大勢力は勿論のこと、我々の情報でさえ、貴方は多くを握っているのですから」

畳み掛けるように言った坂口。黒岩は徐々に視線を落とす。そして、たっぷりの沈黙の後、小さな声で答えた。

『……、大丈夫だよ。君たちの情報は決して他言しないから』
「そういうことを言っているのでは―――、」

坂口が厳しい表情で否定しようとすると、黒岩は力無い声で其れを遮った。

『もしもこの先。"何処かに所属しなければならない"となったら、僕が選ぶのはきっと、君の居る所なのかもしれない』
「……」
『でも、今の僕には其れが出来ない。僕には、どうしても出来ない。大切なものを作るのが怖いから』

空間には沈黙が流れる。黒岩は俯いてテーブルの上のカップアンドソーサーを一定の速度で撫でている。
坂口は、黒岩の其の姿を険しい表情で見詰めていた。

「妥当でしょう」
『……?』
「涙香くんの選択です。……太宰くんのいる場所か、織田くんが居た場所か、なんて……貴方にしてみればどちらも針の莚でしょう。となれば、僕の所に来るしかない。そう言う簡単な話ですよ。……全く不愉快ですね」

眉を寄せた坂口は、滑らかに黒岩を非難する。そして、ソファから立ちあがりコートを羽織って整えた。

「妥当は正解とは違います。涙香くん、貴方が望んで属したい場所をよく考えることです。」
『……、そう、だね』

ドアに向かって進み出す坂口の後を静かについて行く黒岩。ドアノブに指先が触れる手前で、坂口は振り返る。

「―――先ずは近々の、身の安全に気を配ってください。此の荒波に飲まれたら中々面倒です」
『うん、有難う安吾』

坂口は僅かに下にある黒岩の目の端に軽く口付ける。そして、黒岩が何か返事をする前に、退室していった。

『……、属したい、場所か』

一人取り残された玄関で、黒岩小さく呟く。落とした視線には揺れる光が無数に宿っていた。


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