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蝮は夜明けの夢を視るか [1/24] 月が異様に美しかった夜が明けると、激しい雨が矢のように落ちてくる朝を迎えた。太宰は、恐ろしいほどの不穏な予感に思考を支配されつつあった。 「……この感覚、」 暗雲立ち籠める空を見上げ、小さく呟いた太宰は、自身の包帯だらけの掌を静かに見詰める。今にも何かが溢れてきそうな唇を意識的に引き結んだ。そしてコツ、と足を踏み出して―――。少しずつ、歩みが速くなる。激しい雨音は、太宰の靴音を飲み込んだ。 雨が降りしきる横浜の街を、傘もささずに。―――半ば走るようにして到着したのは、”彼”の家だった。 「涙香くん……」 そう。行き先は武装探偵社から程近いブロックにある、煉瓦造りの建物。紅茶が良く似合う、麗人の家。息を整えながら太宰は、その或る一点を見詰めて、呆然と呟いた。 「居ない…」 不可解さと、悔しさのようなものが込み上げる。太宰はこの流れを推測して居なかった訳ではない。ただ、言うなれば、そう―――少しだけ“ズレている”のだ。ぐ、と奥歯を軋ませた太宰は、少しだけ息を吐いて瞬きをした。 気を取り直して、一通り家屋の様子を確認しようと敷地の周辺を見回すが、外観には特に大きな変化はない。ならば、と太宰は足を進める。そして現れたのは、重厚感のあるアンティーク調の扉。黒岩邸の玄関だ。大きな其の扉は、細部の装飾も大変細かく、美しい造形なのだが………。 「……、安吾」 何故か一番に太宰の視界に入ったのは、良く知った、馴染みのある―――神経質な背広を纏った男。坂口安吾だったのだ。彼もまた、茫然と、静かに。黒岩の家を見上げている。ふ、と呼び声に応える形で視線を寄越した坂口の丸眼鏡に、太宰の姿が反射した。 「太宰君……」 「…、涙香くんの居場所を知っているな?」 太宰は、普段の軽薄さを潜めた声色で尋ねる。刺すような視線が、坂口を捕らえていた。表情を変えず、ジッと太宰を見つめ返す坂口は、暫しの沈黙の後、小さく息をついて言った。 「だとしても、君が其れを僕の口から聞く事は無いでしょうね」 「くどい言い回しだ」 「僕もそう思います」 淡々としたやり取り。まるで一字一句、既に準備されていたかのような滑らかさと無機質さだけがあった。坂口の切り捨てるような返答に太宰は嘲笑する。小さく首を振って、太宰は坂口に背を向けた。もう、話に成らないとでも言うように。坂口は其れを見て、同様に太宰に背を向けた。 「…太宰君」 背を向けあったまま、坂口は話し出す。 「もうお分かりのことと思いますが、どうやら巌窟王の試算でも追い付けない早さで、物事が進んでいます」 ―――太宰は、僅かに唇の端を吊り上げた。そして、溢すように言った。 「…、本当にそう思うのかい安吾」 「?」 坂口はピクリ、背を震わせる。疑問を呈すように耳を太宰に傾けた。 「涙香くんの試算が追い付かないなんて、…そう考えているのかい」 「っ――真逆、」 半ば振り返って、坂口は声を荒げた。太宰は意を関せず、その鬼才とも言える頭脳に思考を巡らせている。そして、小さく頷くと、言葉を繋いだ。 「恐らくはね…。兎に角、私達のすべき事は変わらない。そうだろう安吾、」 「――ええ、」 坂口が普段の思慮深さを取り戻した声色で返すと、太宰は顔だけ振り返る。―――満面の笑み。そして、其の吊り上がった唇から付いて出たのは、 「此れで良く判っただろう?安吾じゃ、涙香くんの相手に成らないって」 等と言う、何の脈絡もない、揶揄うような一言だった。坂口は思考行動ともに一時停止せざるを得なかったが、ようやっと口を開くと、 「………、は?」 間抜けな一音だけが、疑問符と共に零れ落ちたのだった。上機嫌風の太宰は、其れすら面白いと言うように噴き出した後。 「それじゃあ私は、良い自殺方法を思い付いたからここで!」 「………、」 余りにも爽やかな様子で宣い、御丁寧に手まで振って去っていくので、坂口は絶句したまま其の背を見送る事しか出来なかった。 「――――はあ。涙香君も意地が悪い…、やはり、情報の扱い方のプロと言うわけですか」 完璧に欺くのなら、先ずは味方から。何処かで聞いた台詞ですね。…坂口はそう溢すと苦笑の後、姿を消した。 ――――――― コツ、―――ハイヒール特有の靴音が響く。 「まるで人形(ドール)のようね。造り物みたいな美しさだわ」 ヨーク襟にパフスリーブ、バッスルもたっぷりあしらわれたドレスに身を包んだ女性が、其の切れ長の美しい瞳を寝台に向けて言った。どうやら話しかけているのは、寝台の上に横たわる者へではなく、 「……、彼が巌窟王だそうですよ。マーガレット・ミッチェル」 「え?」 ――寝台を見張るかのように、傍らの椅子へと腰掛ける黒衣を纏い聖書を膝の上に開く、冷たい印象を受ける表情をした男への言葉だったようだ。 「そんなの初耳よ!そんなのが何故此処に居るのよ?説明なさい、ナサニエル・ホーソーン!」 「さあ。使えるものは使う――、と言うことでは?其れに、見張りを任せられているのは私だけのようですから、誰も知りませんよ」 ミッチェルは声を荒げているが、ホーソーンは飽くまでも聖書から視線を外そうとしない。 「何で貴方なのよ。アタシじゃ不足があるとでも言いたいのかしら?」 「曲がりなりにもお嬢様ですし、―――私の緋文字の特性上適任とされたまででしょう」 「其れでも納得行かないわ!大体貴方はねえ―――っ」 ホーソーンの長い人差し指が、ミッチェルの唇の寸前で止まる。ホーソーン自身も、人差し指を唇に添えていた。 「―――、お目覚めです。静かに」 「…ええ、」 二人の視線の先、寝台の上に横たわる人物が身動ぎする。幾分か眉を寄せた後、其の藤色の瞳が開いた。 『ん――――、こ、こは――、!!』 「良く眠って居ましたね。記憶に不備はありませんか?」 睡眠後の混乱と、多量の出血の後だった事もあり困惑する黒髪の麗人。ホーソーンの淡々とした質問に僅かに頭が冷えた様子で、ゆっくりと思考を巡らせたあとポツリ、答えた。 『――――ギルド、』 「正解です。――巌窟王こと、涙香・黒岩……、組合へようこそ」 [前へ][次へ] 17/24ページ [Back] [Home] |