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蝮は夜明けの夢を視るか

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其れは、ヒタヒタと。
或いは、バタバタと。

――――ひっそりと、しかしながら激しく。音を立てながら、其の時は確実に忍び寄っていた。




――――――

黒岩涙香は夜を駆けていた。
薄闇を纏った雲から滲む月明かりが余りに綺麗で、何処か不気味な夜だった。


『、―――まだ、付いて来る、か…』

持ち前の異能で聴力を駆使し、追っ手を撒くものの、其れはほんの僅かな時間稼ぎでしかなく。黒岩は美しい顔を歪め、息を切らしながら物陰に身を潜める。もうどれ位の時間、此の鬼遊戯をしていることだろう。
ドタドタと複数人の足音が近付いてくる。"何処だ" "この辺に居るはずだ" "そうは逃げられんさ" "あの傷では" と、がさつな男達の言葉が飛び交っている。


――近い。もう壱瓩無い。漆百米程か。

黒岩は音で距離を測っていた。

『っ、』

腕が痛む。
黒岩は男達の乱射した銃弾に不覚にも掠めて仕舞ったのだった。白かったはずのシャツの左肩部分は紅く染まり、引き裂いた布で処置した簡易的な止血の効果も、最早余り期待出来そうに無かった。

"おい!見失うなよ" "殺してもダメだ" "金になるんだ" "フィッシュなんとかって奴、信用できんのか" 時折、異国訛りも聞こえつつ、男達は警戒感無く大声で路地を闊歩している。

――彼等で参組目か。情報に拠れば後もう一組何処かに身を隠している筈。先ずは此の男達を処理せねば。

黒岩はグッと脚に力を込める。
"血痕が有るぞ!!" "あの角に続いてる!" そう、近くで声がした。其れと同時に、黒岩は動き出した。路地の角から飛び出たのだ。

「いたぞ!!」

其の存在を認めた男達は、各々武器を構えて突撃していく。向かい来る敵の姿を確りと瞳に捕らえた黒岩が、歌うように言葉を零す。

『【伊呂波歌・聯珠】』

すれば、周囲の空気が僅かに震えるような感覚がして。標的迄後もう参歩、そんな距離の所で伍人の男達は、大きな痙攣を起こして地面に伏したのだった。

『ふう……、―――っ』

黒岩は追っ手の男達を、異能力による脳震盪で退けたのだ。しかしながら黒岩の限界も近い。グラリ、視界が揺れる。身体が傾きかけたが、よろめきながらも踏み留まった。
やはり出血が多いようだ。地面には僅かずつ広がりを見せる血溜まりが出来始めている。

『残り、を…………!!?』


パチ、パチ、パチ―――、

其の音は突如、路地に響き渡った。其れは余りに異質で、場にそぐわない楽しげな、拍手。新たな人物の登場――普段の黒岩であれば、遥か昔に捉えることが出来ていた筈の、侵入者の音。どうやら出血に因り、黒岩の異能力は少しずつ蝕まれていっている様だった。

「此れは素晴らしい。ミスター…黒岩?……芸術的なその容姿に、異能力の質も良い」

背後からの声。自信に満ち溢れた、男の声だ。黒岩は声のする方向へと振り返る。しかしながら、月の光の悪戯とでも言うか、黒岩の眼には其処に居る筈の相手の姿は輪廓すら朧気で映らない。

「"視界に入った人物へ音量調節を掛けて、脳震盪を起こさせる"事が出来るようだね。実にスマートだ」

コツ、と革靴の踵の音が一つ、響く。
黒岩は肩を押さえる手にグッと力を入れた。隙有らば遠退くのが分かる意識を引き戻すためだ。自身の荒い息が、何処か遠くで聞こえる。ああ――此れは、なかなか、不味い。そう考えられる状況だった。

「俺からのギフトはお気に召したかな?」
『……、貴方の様な方が贈る物としては些か品が無いのでは?ミスター、フランシス……フィッツジェラルド、』

男は、黒岩の言葉に喉の奥で嗤う。

「あぁ巌窟王、光栄だ。君に存在を把握されているのは悪い気はしないな。」
『貴方の事を知らない情報屋等存在するものですか』
「其の巧みな話術も魅力的だ」

パチン、指を鳴らし、長い人差し指で黒岩を指したフランシス・フイッツジェラルドは、ウインクで星でも飛ばしそうな、そんな口調を絶やさず切り返していく。

「扨、今日訪ねた理由は簡単だ。組合は君を迎え入れたいと考えている。」
『……、』
「今回怪我をさせてしまったことには詫びよう。手荒な真似をする積もりでは無かったんだ。此方に来てくれれば、然るべき治療を迅速に提供する事を約束しよう」

想像に容易い話に、黒岩は小さく息をつく。そんな相手を目の前にしても両手を広げて、尊大な態度を崩さないフィッツジェラルド。自分の提案を無碍にするような人間はこの世に居ない、とでも言うような振舞い。

「さて、君は幾らで買える?言い値で買おう」
『生憎、僕は物ではないですから』

不快感を隠すことなく眉を寄せ、黒岩はハッキリと述べる。一刻も早く、この場を切り抜けたい、そんな心持ちが伝わってくるようだ。

「ああ勿論だとも。君に悪いようにはしない。丁重に扱うことを約束するよ」

黒岩は端正な顔を更に歪め、肩をより一層強く握る。普段は紅く艶めく唇は、失血からか色を無くしている。小さく漏れ聞こえる息遣いは、浅く、荒い。

「黒岩涙香、さあ答えを」
『っ、――』

フィッツジェラルドが声を張り上げた瞬間、黒岩の身体はグラリと前方に傾いて行く。

「無言は肯定と見なそう、――」

コツ、と革靴を鳴らして一歩前に踏み出したフィッツジェラルドは、月影から抜け出て、美しい金糸の髪を月光に当てた。口許は不敵な三日月型をさせて、自身の胸元に倒れ込んできた黒岩を抱き抱えた。

「其れが俺の判断であり、世の常だ。ようこそ、組合へ……」

金色の男は、漆黒を腕に抱えて――――――、消えた。

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