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蝮は夜明けの夢を視るか

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思いの外、体力は削られていたらしい。黒岩は胸中で小さく舌打ちをした。本調子で無く、耳栓も無い、今現在の黒岩の耳には、自分がいる場所が空に浮かぶ乗り物である事を主張するエンジン音を始め、大空を横切る風の音、機体の中で働く者達の声や足音が矢継ぎ早に聞こえ反響していた。更には自分自身の体内を血が巡る音や鼓動すらも相俟って、世に存在する音が全て混ざり合うようにしてグワン、グワンと無遠慮に鼓膜を揺らしてくる。其れらの中に紛れ込む、たった一つ、掴まなくてはならない音。組合の長であるフランシス・フィッツジェラルドの声。其れだけを上手く拾えるように調整するのは至難の技だ。目が覚めてから、未だ一度も明瞭に聞き分けられていないと言う屈辱感を黒岩は噛み締めていた。
此の白い廊下。休んでいた部屋から大した距離でもないだろうに吐き気すら催す、過酷とも言える道程だった。

「顔色が良く有りませんね。やはり…、」
『…、いえ。此のまま』
「…………」

少しだけ低い位置にある蒼白くも美しさを保つ顔を覗き込み、二度目になる此の声かけも却下されてしまったホーソーンは、小さく息を吐き、困ったような表情で自分に掴まっている黒岩を見詰める。何とも危うい人だ――と独り巡らせつつ、気を抜くと直ぐにぐらつく黒岩の足元を、しっかりと支えていた。視線を上げたホーソーンが、一室の扉を捉える。

「…もう後10メートル程です」
『手間取らせてしまってすみません、助かります』
「ええ、」

ホーソーンは何処と無くホッとした様子で残りの数十歩を歩む。
そして通常の倍以上の時間を掛けて辿り着いたフィッツジェラルドの部屋の扉をノックした。奥の方から「どうぞ」と聞こえてくる。

「ナサニエル・ホーソーンです。失礼致します」

ギイ、と扉が開く。ホーソーンがゆっくりと黒岩を気遣いながら歩き出す。

「よくぞ来てくれた。」

聞こえてきた、妙に楽しそうな声に黒岩が静かに視線を上げると、白い部屋の奥、執務机に着きながら手元で何かを遊ばせている白い男―――フィッツジェラルドが目に入った。コインだろうか。何故か気になって視線を向けて居ると、不意に其れらが宙に舞い――再び男の手中に戻っていった。瞬間的ではあったが、窓からの光にキラリと反射した其れは、黒岩がよく知ったアメジスト色をしていた。疲労からか虚ろさを見せていた黒岩の瞳に僅かに光が戻る。

「フランシス様、客人をお連れしました」
「ああ、俺が足を運ぶ手間が省けた。引率に感謝しよう」

何とも尊大な切り返しに黒岩は僅かに眉を寄せる。フィッツジェラルド生来の性格なのか、先日の邂逅から余り好ましいイメージは持てないな、と黒岩は思考を巡らせた。
肩を貸してくれていたホーソーンに軽く頭を下げて、自らの足の力で立つ。脳が僅かに揺れる感覚は拭えないものの、自立して話すことは出来そうだった。

「さて。先ずは巌窟王――黒岩涙香、目が覚めたようで何よりだ。組合は君を歓迎する」
『……、ミスターフィッツジェラルド。手当をして戴いた事は感謝します。しかし、初めてお会いした際にもお伝えしたかと思いますが僕は組合に所属する積もりは一切有りません』

薄ら笑いと共に歓迎の言葉を吐いたフィッツジェラルドに、黒岩はきっぱりと断りの返答をする。揺るぎない自信を反映させた白金の男は、其の言葉に僅かだが眉を寄せた。

「ほう?」
『貴方程の方であれば、僕の信条を御存知でしょう』
「信条、――信条ねえ。あれだろう?”恒常的平等”だったかな」
『其の通りです』
「難しい言葉だ」

コツ、コツ…、と執務机を指先で鳴らすフィッツジェラルド。黒岩は、其の爪の先に転がる二つの紫に、チラリと視線を送る。

『僕は組合に限らず、どの組織にも所属する積もりがありません』
「組合に来れば報酬は弾むぞ」
『報酬や物事の価値の問題ではありません』
「なるほど、そうか」

フィッツジェラルドは探るような視線で黒岩を見詰めつつ、思案するように顎に手を添える。1拍置いてから、ゆっくりと唇を開いた。

「では、仕方がない。…非常に惜しいが、君の揺らがぬ信条の基だからこそ良質な情報が転がり込んで来るのだと思えば無理強いをする事こそ損失だ」
『ご理解頂けた上に、信頼を向けてくださり嬉しく思います』
「当然だ。価値の有無や高低を見る目がなければ団長は勤まらないさ」
『ええ、其の通りですね』

黒岩がクス、と微笑むとフィッツジェラルドもまた唇で弧を描く。そして机上でその長い指を僅かに遊ばせた後、一対のアメジストを手中にする。

「…君の耳に嵌められていたな」
『ええ、そうですね』

フィッツジェラルドは静かに尋ねる。掌上の紫を光に透かしながら興味深げに、言葉を重ねていく。

「調べさせて貰ったが、何も出なかった。此れが君の異能の鍵になるのか?」
『いえ、そうですね……。強いて言うならば願掛け、ジンクスのようなものです』
「ジンクス……ね、」

黒岩の穏やかな返答を受けて、紫を見詰める瞳は僅かに遠くを見る。ゆっくりと瞬きをして、フィッツジェラルドは立ち上がる。黒岩に近付いてその細い手の中に紫のジンクスを二粒、返したのだった。

『ありがとうございます。此れで多少パフォーマンスが上がります』
「そうか。それは良い」

黒岩は掌に転がる其れを、ゆっくりと耳に嵌める。少しだけ視界が開けて、大きすぎた雑音の音量も下げることが出来た。

『早速ですがご依頼をどうぞ』
「……、"――――――"についての情報提供を依頼しよう。この戦いが終わる頃、其れが依頼の期限だ」
『承りました。では、僕を地上に下ろしていただけますか?空と地下では、情報の鮮度が落ちますので』
「勿論、そうしよう」

黒岩の提案に深く頷いたフィッツジェラルドは、黒岩とホーソーンに下がるよう声をかけた。白い扉がパタン、と閉まり、廊下に出ると数歩先にミッチェルが佇んでいる。

『マーガレット嬢、』
「……、」
『ご心配お掛けしましたね。すみません、』
「別に………」

目元を僅かに赤らめ、そっぽを向いて俯くミッチェルに、黒岩とホーソーンは少しだけ笑った。

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