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蝮は夜明けの夢を視るか

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そこは喫茶『うずまき』。とあるビルヂングの一階にある、やや古風な喫茶処である。
店の奥、端のソファー席に一人腰掛けている男。柔らかな湯気を昇らせる珈琲を口許へ寄せ、ゆっくりと傾ける。ソーサーにカップを戻してから、ふ、と口許を緩める。

『おやおや…』

カラリ、店の扉を開けて入ってきた面々が視界に入り、黒岩涙香は小さく呟いた。

「国木田さんはご存じですか?」
「無論、知っている」

断片的に聞こえてくる会話。
片方は橙色の短髪に、白のロンTに赤いシャツを腰に巻き、Gパンでラフな姿の青年。谷崎潤一郎。
もう片方は、アッシュがかった茶髪を一括りにしベストを身に付けて、神経質そうな眼鏡をかけた男。国木田独歩。
黒岩涙香は、その見知った二つの顔がちょうど背中側の席に通されたのを見て、これから起こり得る事を計算し始めた。

「成る程……」
「だからそう云っただろう」

二人はまだ此方に気付いていないようだ。しかしながら、今此処に、この不憫で可哀想な国木田がいるということは、詰まりはこの後必ず……いや、まあ、そう謂うことなのだ。

「……太宰にぃ?」

ああ、ほら。黒岩は国木田が引きつった顔で発したであろうその声を聴いて、ふと呆れたように息を吐いた。

「待て、少し待て。落ち着かせろ」

国木田は辛さを隠そうともせず谷崎を制し、太宰の名前を耳にしただけで起こる下腹部の鈍痛や、身を守るために備わったとも言える天然の太宰接近警報について話した。
谷崎はいたたまれないという態度で、目の前の先輩を労った。

『来たか……』

黒岩は小さく呟く。

「む……?何だ、急に照明の具合が悪く……」
「それは私の合図さ〜♪」
「うわあああ!」

喫茶店の入り口で調子外れに歌う声がしたかと思えば、国木田の椅子が騒々しい音を立てる。原因はそう、店の入り口に立つ長身の青年。砂色の長外套、黒い蓬髪、ひょろりとした痩躯。それらが指し示すもの。それは、この男。太宰治である。

「いやあ、いつ聞いても国木田君の悲鳴は素敵だねえ。その反応、寿命が縮まっていくのが肉眼で見えるかのようだよ」

なんとも人でなしな発言である。黒岩はもう暫く傍観することを決め、注文したたまごプリンを優雅に口へ運んだ。

「うへははははは」

生理前の女子の如くヒステリックに太宰を攻め立てる国木田と、それを心から楽しんでいる太宰。

「ま――まあまあお二人とも。店内ですから」

そしてどうにも困り果てた様子で二人を宥めようとする谷崎。地獄絵図のように見えるが、流石は『うずまき』。客も店員も、小学生の兄弟喧嘩を見守るような暖かい眼差しを向けていた。
黒岩はひとつ伸びをして席を立つ。

『……で、探偵社設立秘話の話はどうなったんだい?』
「「えっ……」」
「涙香君、いつ話に入ってきてくれるのかと思っていたよ」

呆ける二人とは対照的に、太宰は喰えない笑みで言った。黒岩は音もなく、谷崎の隣―国木田の左前の椅子に腰掛けていた。

「黒岩……いつから……」
『君達が入ってくる前から』
「き、気付かなかッた……涙香さんお久しぶりです」
『そうだね、久しぶり。谷崎は元気そうだね』
「はい、お陰さまで」
『国木田はいつも通り死にそうだ』
「ああ、お陰さまでな」
「あれ?私へのコメントは?」
『太宰はいつ死ぬんだい?』
「何故だろう……目から水が……」
『で、例の件を話すんじゃないのかい?』
「あ、はい。国木田さんに今お話ししたのが、ちょうどその話なんです。」

そんなこんなで、国木田は太宰から偽物爆弾騒ぎについて聞かされることとなる。

「お前は……毎回毎回、どうやったらそんな風に高効率に厄介事を吸引できるのだ?」
「いいじゃない、偽物だったんだから」
『国木田、考えることは無意味だよ。相手は太宰だ』
「ああ……」
「ちょっと、国木田君。涙香君と好い空気にならないでよ」

ちょうどそのタイミングで、太宰の許に注文した紅茶が届いた。太宰は笑顔で受け取り、角砂糖を幾つか放り込んでから啜る。
太宰は爆弾が時限装置だけで爆薬の内蔵されていない模造品だったことや、犯人が自身を慕った過激な女性であったこと、そして既に特定・解決済みである事を話した。

『其れがどうして探偵社設立秘話に繋がるんだい?』
「はい、それがですね。その時一応駆けつけた市警の巡査さんに『武装探偵社さんに街を守って頂いているから、我々も安心して仕事ができます』……というような意味の事を云われまして。でもそれッて変じゃないですか?」

黒岩が谷崎に疑問をぶつけると、谷崎は考え込むようにしながら言った。国木田はその言葉に片眉を上げる。

「ほう。結構なことではないか。相手構わず中途半端に甘い顔をするから爆弾脅迫など受けるのだこの女の敵が!」
『後半がただの悪口だよ国木田』

太宰の椅子を何度も蹴る国木田に、黒岩は静かに伝える。本人の耳には入っていないようだが。
谷崎は苦笑する。

「善いことなのは間違いないンですけどね。何だか恐縮半分、疑問半分でして……」
『詰まり谷崎が謂いたいのは、市警の仕事こそが街を守ることなのに、その市警に迄"守って貰ってる"と思われるような仕事を、何故始めたのかな?という事だね』
「はい」

黒岩が纏めると、谷崎は素直にうなずいた。太宰もまた、大きく首を上下させ国木田へと視線を向けた。

「うん。そういった話を昼にしたのだよ」
「成る程な」

納得した国木田は、しかし設立秘話を話すのではなく、武装探偵社の長である男―福沢諭吉への称賛の言葉を畳み掛けるように続けた。
ふと視界に入った振り子時計。黒岩は頭の片隅に追いやられていた物事が思い出された。

『あ、』
「何だ黒岩、行きなり」
『いや、そろそろ福沢さんと約束していた時間だと思って』
「涙香君は社長を訪ねて来ていたのだね」

黒岩は太宰に向けて首肯く。

「社長からのご依頼ですか?」
『さあ、どうだろう。そうかもしれないし、またいつもの探偵社勧誘かも知れない』
「ははは……」

黒岩は谷崎に軽やかにウインクして切り返して立ち上がる。

『其れじゃあ、国木田、谷崎。また今度』
「ああ、また」
「はい、涙香さん」
「あれ?私には?」
『君は早い内に死ねると良いね』
「デジャ・ビュ……」

黒岩は颯爽と会計を済ませて、うずまきを出ていく。

『さて。福沢さんに会いに行こうかね』

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