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蝮は夜明けの夢を視るか

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「珍しいな、お前が定時に遅れてくるなど」
『お待たせして申し訳ありません、福沢さん』
「いや、問題ない」

結論から言えば、黒岩は福沢との約束に30秒程遅刻したのだった。普段であれば必ず3分前には到着して社長室の戸を叩きに来るので、福沢は普段の厳格な顔を僅かに驚きに染めて黒岩の来訪を迎えた。
事務員の女性が、黒岩を社長室のソファーに案内し、熱々の緑茶を出してくれる。穏やかな笑顔で対応した黒岩は、女性が退室したのを確認すると福沢に向き直った。

『それで、今回は』
「明日探偵社に入社するであろう者の事だ」
『と謂うと、例の虎の…?』
「……知っているのか」
『昨日の問答が多少耳に入っていたので』
「そうか」

黒岩の異能力【伊呂波歌】は、世の中の【音】と【言葉】を司る能力である。その詳細はまた後に語る事とするが、それ故に情報屋としては優秀と評判なのだとか。

「期間の指定はしない。但し定期的に報告に来ること。情報の重要度は涙香自身で判断、報告の回数もお前に任せる。これから仲間になるだろう虎の子を護れるだけの情報が欲しい」

福沢は、真摯な瞳で黒岩に言った。その強く揺るがない想いを黒岩は正面から受け止める。未だ本当に入社してくるやも分からない人間に対して、護るだなんて。

『福沢さんらしいですね』
「…どうだ、界隈で"巌窟王"と呼ばれるお前はこんな依頼は受けないか」

"巌窟王"それは、まるで世の中が狭苦しい岩の洞穴であるかのように、起こる物事を知り、掌握する黒岩を恐れた者達が付けた通り名である。
黒岩は福沢がその通り名を呼んだことに苦笑を溢しつつ、言葉を返した。

『いえ。謹んでお受け致しますよ。他ならぬ、武装探偵社の社長様からのご依頼ですからね』
「そうか……。では頼んだぞ」
『御意に』

黒岩は、福沢から寄せられた信頼に些か息苦しさを覚えながらも、暖かな一雫が自身の何処かに浸透していくような感覚を噛み締めていた。

「それから、乱歩にも時々会いに来てやってくれ。小五月蝿くて敵わん時がある」
『流石にそれは……僕では身に余りますよ』
「むしろ逆だ。お前が数人居ても手が足らんだろうよ」
『真逆』

神妙な顔で話す福沢に苦笑を返すも、どうやら冗談ではなかったらしい。確かに乱歩こと、江戸川乱歩は何故だかとても黒岩涙香に懐いているのだ。否、26歳だという自分より僅かに年下な黒岩を可愛がっているつもりなのかも知れないが、毎度どうも、黒岩が乱歩をあやすような、そんな図が出来上がるのだ。

「乱歩だけではない。他の奴等も皆、お前の事は懐に入れているだろう」

福沢は、尚も真摯な瞳を黒岩に向けて話す。しかしながらゆっくりと、黒岩の視線は下がっていった。黒岩の細い指が折り畳まれる。

『……、福沢さん』

絞り出すような小さな声と共に、黒岩は目の前の福沢の名を呼んだ。途方もなく、温度の無い声色だった。

「悪かった……、そうだったな」
『僕は、その器用さを持ち合わせては居ません』

視線を下げたまま黒岩は囁く。福沢は、1つ息を吐いてから頷いた。その様子を感じ取ったのか、黒岩は困ったように眉尻を下げて微笑んだ。

『そう謂えば、幾つか案件を持ってきましたので、良しなに捌いてください』
「そうか。受け取ろう。」

切り替え、と言わんばかりに黒岩は手元の封筒を福沢へと渡す。実を言うと黒岩の仕事は、武装探偵社の依頼をこなすだけでなく、武装探偵社への依頼の仲介も(一部ではあるが)行っているのだ。
福沢は、封筒の中身をパラパラと捲り細かく頷いていた。

『では僕はそろそ……』
「涙香〜!」
『…ろ、』
「涙香!僕に会えたのがそんなに嬉しいかい?」

ずがががドタバタンガサガサ……
そんな音を立てながら社長室の扉を不躾に開けて入室してきたのは、他でもない人物。

『乱歩さん…』

そう、江戸川乱歩だった。
乱歩は"突進"という二文字以外では表現できない動きで、ソファーに腰掛ける涙香に飛び付く。そして満面の笑みで宣った。

「涙香、3か月ぶりだ!」
『そうですね。乱歩さんがお忙しく飛び回っている間はお会いできず寂しかったですよ。お元気そうで何よりです』

とてつもなく至近距離で放たれた言葉にも涙香は美しい笑顔で答えた。福沢は、その二人の姿をみて右手指を米神に遣り深いため息をついた。

「ふ、ふん!当然だ涙香」
『はい』
「……甘やかしすぎだ、涙香」
『まあまあ。大丈夫ですよ、福沢さん。』

照れる乱歩…微笑む涙香、呆れる福沢…矢張り微笑む涙香。
福沢は疲れたと言わんばかりの表情を浮かべていた。

『さて、そろそろ行かなければ』
「あ……、依頼かい?」
『ええ』

ソファーにて密着していた乱歩を優しく剥がすと、涙香は僅かに寂しそうな顔を見せる乱歩の頭をふわふわと撫でた。

『では乱歩さん、またお会いできるのを楽しみにしています』
「うん」

涙香は1つ頷くと、福沢に向き直る。

『ではご依頼承りましたので、追ってまた』
「ああ。頼んだ」
『はい。それでは失礼致します』

お手本のような美しい一礼。涙香は顔をあげると、静かに社長室を出ていった。

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