三日三晩の雨が明けて、その日は喉を焼く、呼吸も儘ならないような強さで太陽が照りつけていた。大輪の花を付け街並みを彩る紫陽花の葉も、抱えきれなくなった雫をまるで汗のように滴らせ煌めいていた。
蝸牛が心なしか早足で、紫陽花の葉を渡る。一刻も早く、日蔭に移動しようという魂胆だろう。健気な姿を目で追えば、その先は確かに日蔭。じめじめと太陽の手が届かない路地裏だった。

『安吾』

待ち人は背後に現れた。太陽の光で濃紫色に反射する癖のない艶やかな黒い髪、白い肌。薄く紅い唇、通った鼻。思いの外、その声は低く、そして後を惹く甘さを孕んでいる。噎せ返る様な熱気の中で、其の男だけが涼しげに佇んでいた。

「黒岩君、」
『全くお堅いね、君は。』

クス、と吐息を溢すように笑うその美しい男を見て、坂口安吾は僅かに居心地の悪さを覚える。密かに眉を寄せて神経質そうに、丸眼鏡を細い指で押し上げた。

『三重諜報員とは如何なものかな?楽しいかい?』

沈黙。熱い風が、ぶわり、二人だけが立つその道を通りすがった。安吾はやはりそうか、と微かに視線を下げる。黒岩、と呼ばれた黒髪の麗人は涼しげな目元を僅かに細めて半ば唄うように続ける。

『まあ…、何にせよ僕はこれから先、何処の組織からも君の遺体処理任務を託されないことを強く祈るよ』
「ええ…御尤もです、」

安吾は黒岩お得意のブラックジョークにも巧く答えられない己を胸中で罵った。此の程度の情報を、眼前の男が手にして居ない筈がないのだ。同業者の中でも稀にみる手強さである。その容姿は勿論、頭脳もキレるし人当たりも良いため彼の手中には多くの情報が自ら舞い込んでくる。

『君が僕に依頼を寄越して来たときには驚いたよ。でも確かに、このルートが一番安全性が高い上に正確性もピカイチだ。』
「貴方以外に適任が居なかっただけです」
『お堅い割によいしょが上手で困るよ全く』

黒岩は苦笑しながら、自身の胸ポケットから小さなカードを取り出す。細く流れのある指先で其れを摘まむと、安吾の目の前でヒラヒラとさせる。人差し指と中指で挟まれたカードに、美しく形の良い唇を寄せると黒岩は悪戯っぽく首を傾げた。

『それで?』
「ええ、」

安吾は、小さく頷いてから手に提げていた黄色の紙袋を黒岩へと差し出す。今回の依頼の報酬だった。

「…ひよ家のプリン…です…」

プリン……。
再び沈黙が訪れる。滑った?これは滑ったのか?しかし報酬を個数まで指定してきたのは正に、此の美しい男の筈だ。
しかしながら、大の男としてはプリンで滑るのは些か恥ずべき事態である。
真逆この店では無かったか、将又このたまごぷりんでは無かったか、等と思案しつつ恐る恐る安吾は眼前の黒岩を盗み見る。すればその長い睫毛に縁取られた藤色の瞳は、子どものような輝きを放っていた。

『恩に着るよ安吾!僕はひよ家のプリンにぞっこんでね』

安吾は安心したのと同時に口元に笑みが浮かぶのを感じた。表情を隠す意図で眼鏡を指で押し上げる。
ひよ家は深夜から並ばないと買えない程なのに、君いったいどうやって?等と、嬉しそうに安吾に語りかける黒岩を前に、やはり一つ聞かなければ気が済まなかった。

「しかし、こんなもので本当に良いのですか?」

常に良質な情報を提供してくれる、信頼性の高い黒岩の仕事には、こんなプリン十二個が報酬だなんて余りに釣り合わないのでは…等とヤキモキしてしまったのだが。これは間違った。聞くべきではなかった。
安吾は言葉に出した瞬間、直感でそう思ったがしかし後の祭りである。既に言の葉は眼前の黒岩まで届いてしまっていたのだから。

『そうだなあ…』

此の悩むような素振りを見せる美しい男、黒岩涙香。顎に手を添えて数秒間首を傾げた後、その瞳に艶めく輝きを灯らせてこう言った。

『それなら安吾、君があの"証"を手に入れた経緯について教えてくれる?』
「……、はぁ」

ヤラレタ。
最初から此れが欲しかったのだ、黒岩は。
安吾はNOと言えず、改めて黒岩涙香と共にする場所と日時を再設定することになる。

『持つべきものは友と謂うべきか。また君と酒を呑めるのは嬉しいね…、そう謂えば太宰や作之助は元気?』
「ええ…、恐らくは。相も変わらず、良くも悪くも」

安吾はゆったりと、自分にとって友と謂える存在に思いを馳せる。一人は長身で無精髭を付けた赤髪の男。もう一人は常に包帯に巻かれていて、掴み処がありすぎて掴めない黒髪の男。

『そう。またいつかあの場所で、彼等とも時を共に出来ることを祈るよ』
「そうですね…、」

ニコ、と黒岩は微笑み、一歩分安吾に近付いた。安吾の右肩と黒岩の左肩が触れる程近付いた其の時、

『またね、安吾』

途端に彼は姿を消した。

「巌窟王…ですか、」

安吾は大きく息を吐き出し、呟く。そして丸眼鏡を再度持ち上げると、身を翻して喧騒へと溶け込んでいった。



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