「良い川だね…」

男はそう言うと、次の瞬間には既に水の中。降雨の後の比較的早い水の流れにズブズブと捲き込まれていった。

空は青い。鳥も気持ちが良さそうに舞っている。何処までも広い其れに薄雲がチラホラ見えるなか、一匹の烏がカァーと鳴いて一際高い街路樹に留まった。バサバサ、と音を立てて着地した後、もう一度だけカァーと鳴いた。

『…、僕の睡眠を邪魔するとは…君は鳥類の割に大きな心臓をもっているのかな』

徐に聞こえたその声。烏が留まる木の下から だった。ジャリ、と足元の土を鳴らして立上がり付着した土を払うと、黒岩涙香は眩しそうにしつつ木の上部に視線を遣る。未だ枝に留まる烏に声を掛けるかの如く、黒岩は言葉を続けた。

『其れとも何か?僕に、アレを片付けさせようって魂胆かい?』

呆れ返ったような声色。黒岩はすぐ横を流れる大きな川に視線を投げた。麗人が人差し指を向ける方向を追えば其処には、どう見ても可笑しな…、川に在ってはならないような、まるで其の隣に浮かぶ流木と同化した人間の腕があった。

『…はぁ、別に死にたいなら死んだら良いと思うよ太宰』

黒岩は独り言のように、眉間に指先を添え溜め息。するとズシャア、等と重たそうな水の音と共に黒髪の男が川から這いずり上がってきた。

「そうもいかなくなってしまったよ。何故なら私のポリシーは"死ぬ時には誰にも迷惑を掛けないこと"だからね」

砂色のコートやくしゃくしゃの黒髪から水を滴らせながら太宰は人差し指を立て、星を飛ばしそうな勢いで言った。黒岩は爽やかに微笑んで首肯く。

『其れは殊勝な心掛けだね太宰。』
「涙香君が私と心中してくれれば万事解決なのだけど」
『…、此れで僕は失礼するよ』
「ちょ、え!待って!待ってよ涙香君」

もののコンマ数秒で太宰に背を向けた黒岩に、太宰は動揺を隠さず其の背を追い掛けようとする。体制を崩しかけつつ、黒岩の黒いカーディガンの裾を掴んで引き留めることに成功した。

『 何だい?』

振り返った黒岩は表情を変えずに太宰に問い掛ける。その声は幾分、刺を孕んでいた。

「…珍しく、睡眠不足が隠しきれていないものだから」
『僕も忙しい日くらいあるさ』
「涙香君が忙しいのは良く知っているよ。昨日だって随分と危ない橋を渡っていた」

ほの暗い輝きをちらつかせる眼光、太宰の瞳には其れが見え隠れする。黒岩は双眸を真っ直ぐ見詰め返している。

「妬けるねえ。君の首筋にそんなにも痕を遺して、見せ付けられているようで全く堪らないよ」

重く濡れた砂色の袖が黒のカーディガンの裾と触れ合い、じわり、濡らしていく。黒岩は切れ長で美しいその瞳を僅かに細めた。

『太宰、君の軽薄な口上に付き合う時間すら惜しい。ご存じの通り、僕は眠い』
「"例の組織"の頭はどうだった?君のその自傷癖とも言える仕事の進め方、是非とも私との心中に役立ててくれたらと思うのだけどね」
『御免被るよ』

互いに表情を変えず、半ば笑みすら浮かべて刃のように言葉を交わしていく。まるで呼吸をするかのように。
しかしながら、其れも太宰の一言に因って終わりを告げる。

「織田作がこの事を知ったら、哀しむだろうね」

太宰の抜きん出た頭脳から成された言葉であれば実に品の無い、反面、此れが太宰自身から発された言葉であれば、其れはとても煩わしい場所から来るものだった。

『君は何処までも意地が悪いな…』

黒岩は視線を下に流して、瞬間的に目蓋を綴じる。

「涙香君にそんな表情をさせるなんて…本当に…、悔しい話だね」

下を向いた太宰の顔は見えない。絞り出すような声は、川縁の風が掻き消した。黒岩の美しい黒髪が一束、靡く。黒いシャツの襟が僅かに乱れると、白肌のあちこちに赤黒い痣が散っていた。

『僕の遣り方に口を出すなんて。太宰、君はいつからそんな世話焼きに成ったんだい?』

ゆったりとした口調で、黒岩はそう言った。太宰は笑顔を崩さない。

『最近、犬を飼っているそうだね。それも、黒い禍犬』
「…おっと、漸く涙香君も私に興味が沸いてきたかな?好い傾向だ!」
『全く、図太い思考回路だね。』

黒岩は肩を竦める。太宰能天気思考に付き合っていくのは中々骨の折れる作業だ。同じ男で在りながら、太宰は会う度黒岩を心中に誘う。しかしながら、太宰は黒岩の想いの先を知っているのだ。

「織田作から私に乗り替える気になっただろう?」
『馬鹿な話をしていると、君の価値が下がるよ』
「…冗談では無いのだけど、」

太宰が未だ言葉を続けていたが、黒岩は聞こえないふりを貫いた。

『其れじゃあ、僕は此の辺りで。次の依頼の時間が迫ってきたからね』
「な〜んだ。詰まらないなあ、涙香君、今度いつ例の場所に来るんだい?」

例の場所、其れはあのバー。自分が自分で居られる不思議な空間。

『さあね…、気が向いたら』
「ちぇ、また楽しみにしているよ」

太宰は柔らかく頬を緩めると、黒岩に向かって星でも飛ばしそうなウィンクをして見せた。

『相も変わらず、気障だね』

黒岩は気にした風もなく、太宰に背を向けると其のまま振り返らずに喧騒へと消えていった。


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