彼の人は時々、優しい薫りを纏ってアジトへと帰ってくる。此れに似た薫りを知っているように思うが一体なんだっただろうか。毎度思案するが、どうにも答えに行き着くことは出来ずにいる。忌々しく誘うような甘さでもなく、かと言って秘めやかでもなく。その薫りはただただ、静かな微笑みのような優しさで鼻腔を擽るのだ。

「私を見てぼやっとすることが増えたね、芥川」

先日の訓練の際、不思議そうな表情をした太宰さんにそんなことを指摘されてしまったものだからばつが悪い。しかしやはり、彼から薫るこれは一体、何の匂いなのだろうか。
初めは太宰さんが懇意にしている女でも居るのかと思ったが、心中云々の話を嘯く姿を見る限りそうではなさそうであるし此の薫りが太宰さん自身の薫りと言うわけでも無かった。

「甘い……、瑞々しい、それから……」

豪華な造りの廊下を歩く黒外套の男、芥川龍之介は小さく小さく、言葉を咀嚼するようにしながら細い指を眉間の辺りに寄せ呟く。彼の人…、包帯だらけの太宰から薫る、その真相を紐解くように。

ポートマフィアのアジトは広い。芥川が今歩いている廊下は最上階の首領の部屋へと続く物だ。そう易々と通れる場所では勿論ない。芥川が今ここを歩いているのも、首領への報告があるからに他ならなかった。

「花のような……、」

ふ、と今の今まで想起されていた薫りが思考の中から鼻腔へと流れてきた。

「そう、調度こんな風な、……?」

コツ、踵が鳴る音が耳に届く。しかし、それは明らかに己の出した音ではなかった。芥川は、瞬間的に気配を感じ取り身を翻す。敵意は勿論殺気は一切感じられないものの、知らない気配に向けていつでも羅生門を展開できるように身構えながら視線を向けた。

『ああ……、君が太宰の』
「な…、」

芥川の瞳が捕らえたのは、一人の男。美しいと言う形容詞に愛されたような、男。己に似た黒を纏っているものの、透き通るように白い肌、藤色の瞳を縁取る長いまつげはゆったりと影を落としている。癖の無い黒髪を顎の辺りで綺麗に切り揃え、赤く薄い唇は僅かに弧を描いていた。

「貴様は何者だ」
『おや…てっきり前置きなく攻撃されると思っていたよ。太宰が謂うに、君は"抜き身の刃"だそうだからね』

何故攻撃に至らず、相手に話し掛けてしまったのか。そんなもの、己が一番分からない。一刻前までは羅生門を発動しようとしていた。しかしそれは叶わず、今こうして対峙している。この者から漂う甘やかな薫りを、芥川は確かに知っていたのだ。

「聞こえなかったか。名乗れと言っている」
『ああ……そうだね。僕は黒岩涙香、時々此処には出入りしているよ。君に会うのは初めてだったけれど』

クス、と笑い黒岩涙香と名乗った男は僅かに首を傾ける。ハラリと揃えられた毛先が揺れた。

「黒岩……、涙香、」
『ん?なんだい?』
「っ……、やつがれは芥川、龍之介」

何の負の感情も感じられず、ただ己を受け入れるかのような微笑みにたじろぐ。パチリと合った視線に困惑し、逸らしながら、芥川は黒岩に名乗った。

『そう、芥川と言うんだね。』

まるで子供をあやすような声色。少しだけ遠くに思いを馳せるその藤色の瞳。芥川は益々困惑を深める。

『その様子だと、太宰は僕の事を君に話しているのかな?』
「は……?いや、薫りが……」
『薫り?』
「この薫りをやつがれは、」

ピタリ、芥川が硬直する。それは、己の発言に恥じたからだった。幾ら美しいとは言え目の前のこの人物、黒岩は男なのだ。男が初対面の男に、当人の薫りの話をするなど、と急に羞恥が込み上げてきたのだった。

『ああ……そう、君も鼻が利くんだね。僕のこの薫りを太宰から感じた事があったから、敵か味方か逡巡の余地が有ったと。そう謂うわけか』
「あ…、」

否、と否定しようにも相対する藤色の瞳は全てを見透かし、優しく受け止めるかのように光を湛えている。

『そんなに緊張されてしまうと僕も困ってしまうのだけど?』
「緊張など……」

優しさを感じさせる柔らかな微笑み。芥川には最早、為す術が無かった。

『ふ……、そう?それなら一緒に、首領の部屋に行こうか』
「は、?」

真逆、と言えるような発言に呆気に取られている間もなく、黒岩はゆったりと足を進め、硬直している芥川の横を通り過ぎていく。

『来ないのかい?』
「っ……、」

小首を傾げ、振り返る。黒岩のその歌うような声色に、芥川は苦い顔をせざるを得なかった。

−−−何なんだ一体……全く調子がつかめない。



結局、芥川は黒岩に連れられて首領の部屋を訪れる羽目になったのである。とてつもなく意味の分からない図に、芥川の視界には最早疑問符の集合体が浮かんでいた。
しかしながら黒岩は当たり前のように首領の部屋の扉をノックする。芥川は背筋に凍る心持ちで生唾を飲み込んだ。

『首領、黒岩涙香です。ご報告に参りました』
「ああ、入りなさい。芥川君もね」
『失礼致します。…、ほら、芥川』
「はあ……」

入室し、意を決して顔を上げれば、首領は普段と変わらず喰えない穏やかな表情を浮かべていた。

「それで涙香君、今回の成果を聞かせてもらえるかな?」
『ええ、森さん。先ずは例の異能の男についてですが……』

ツラツラと続いていく黒岩という男の報告。詳細且つ簡潔な報告だ、と芥川はぼんやり思った。

「流石だ。やはり涙香君に任せたのは間違いじゃなかった。」
『それは光栄ですね。こちらが、報告書ですのでお目通しを』

胸ポケットから小さなデータ媒介を取り出し、首領へと差し出す黒岩。横目で見たそんな仕草すら、綺麗だった。

「有り難う。では報酬はいつもの場所に」
『ええ。ではまた何かあればご依頼ください。森さんのお仕事は遣り甲斐がありますから』

にこ、と微笑を浮かべた黒岩は一礼すると首領の部屋を出ていこうとして、立ち止まる。

『あ、』
「?、」
『君に会えて良かったよ、芥川。また、いつか』

そんな一方的な言葉を遺して、黒岩涙香は芥川の視界から、消えた。


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