カランカラン、
聞き慣れたドアベルの音。続くのはコツ、コツ、と響くゆったりした靴底の音。
逆光の闇を抜け出してきたのは、顔から腕から、兎に角包帯が目立つ、木乃伊の如し黒衣の男だった。

「やあ、織田作」
「太宰」
「君だけかい?」
「ああ」

軽口を交わしながら、黒衣の男――太宰は、既にカウンター席に着いて酒を嗜んでいた織田の、左側に一席空けた椅子に腰掛けた。

「今日はどんな日だった?」

バーテンに"同じものを"と注文を終えた太宰は、歌うように織田に話し掛ける。織田は元々表情の乏しい顔をほんの僅かに曇らせて、言った。

「……、浮気調査だ」
「おや。まるで探偵のようだね」
「茶化すな。末端の構成員の仕事はこんなものだ」
「いやあ、茶化してなんか無いさ。刺激的じゃないか」

クックッ、と圧し殺したような笑い声を携えた太宰。幾ら友人とは言え、組織の幹部殿にそう言われては何とも立つ瀬がないと言うものである。しかしながら太宰は、織田のそんな葛藤もスルリと交わしてこう言った。

「其れで、その奥さんは美しかったかい?」
「はぁ……お前はまた其れか」

正に脱力。織田は溜め息と共に答え、少し笑った。


――カランカラン、
再び、ドアベルの音。続いて、再び靴底の音。持ち主の神経質さを強く彷彿とさせる、正に等間隔な音だった。

「やあ、安吾」
「太宰君、織田君、来ていたんですね」
「ああ、そっちは随分草臥れているな」
「ええまあ、気分転換に来ました」

溜め息を吐きながら、坂口は入り口から見て一番手前、織田の右隣に腰掛けた。その細い指で丸眼鏡をくい、と上げる。
そして、ウォッカを、とバーテンに告げた。

「安吾、何か楽しい話は無いのかい」
「楽しい話――其れを僕に訊きますか」

まるで揶揄うような声色で話を振ってくる太宰に、大いに顔を顰めながら坂口は逡巡。後に、何かを思い出したようだった。

「ああ、そう言えば"彼"が愛して止まないプリンの"ひよ屋"が店仕舞い寸前だとか」

漸く開いた坂口の唇から零れたのは、三者の醸す何処かほの暗い雰囲気からはかけ離れた、平和ボケのような話題である。

「そうらしいね、大将は齢八十、御子息は持病がどうにも重いのだとか」
「そうか……涙香は悲しむだろうな」

どうやら其の情報を知っていたらしい太宰は、片肘をカウンターに預けつつ、口の端をほんの少し釣り上げる。反して織田は、困ったような顔をしており、この場に姿は無い黒岩に同情的だった。

「――ま、耳年増な涙香君はもう知っているだろうけどね」

そう笑いつつ、太宰がバーの照明に酒を透かして、ガラスに揺れる丸い氷を見ていると。

―――カランカラン、
再々度、ドアベルの音。

『耳年増とは失礼だね太宰』

バーの入口が開くと同時に、耳馴染みの好い声が、そう紡ぐ。

コツコツ、ゆったりしたテンポの靴底の音。逆光の闇に溶け込んでいた黒髪は、店の照明に当たり艶めく。

「おや。聞こえちゃった?」
『お前が、亭主に浮気されて傷心のご婦人を心中相手にしようとした事もね』
「なんと末恐ろしいことだ」

心底可笑しいと言うように太宰が言葉を投げ掛けるのは、この界隈では有名な情報屋、黒岩涙香である。

『僕の耳に入る事は了解の上の発言だろう』

太宰の発言をスルスルと交わし、僕の異能力を知っている癖に、と続けた黒岩は、

『――、良い夜だね。安吾、作之助』

カウンター手前に腰かけていた二人に微笑み、声を掛けた。

「ああ、そうだな」
「――そうでもありませんよ」

チグハグな返答をする二人。織田は近付いてきた涙香に、自らの隣の空席を優しい仕種で自然に勧める。

『有り難う、作之助』
「ああ、」

黒岩は柔らかい微笑みを織田に向けて、席についた。バーテンに"ウォッカを"と告げる。

「涙香君、其れで、ひよ屋の件はどうするんだい」

黒岩が腰を落ち着けた所で、太宰が件の話を盛り返す。バーテンからウォッカを受け取った黒岩は、芸術の如く丸い氷をくるくると遊ばせ、視線で追いながらその唇を開いた。

『必要な人に必要な情報を提供する。其れが僕の生業。それ以上でも以下でもない』
「当たりが付いたのか?」
『ふふ。僕のプリン好きは最早執念とも似ているからね、作之助のカレーみたいなものだよ』

黒岩は織田が余りに真摯な態度で、己の好きなものについて考えてくれているのが可笑しくて、少し笑った。織田はその様子を見てホッと息を吐くと、黒岩の頭を一つ、撫でる。涙香は織田の優しい手を、甘んじて受けながら言葉を続ける。

『僕の持てる情報の中で、最大限此の状況を有効活用してくれるであろう、信頼できる人材が居てね』
「ふむ、成る程」
『うん。それで、打診してみたところ、快く承けてくれたよ。好い取引だった』

太宰は顎に片手を添えて、首肯く。何と無く目星が付いたようだ。黒岩の微笑みは清々しさすら見える程だ。

「其れは何よりです、黒岩君はあれが無いと不機嫌になりますから」
『そんな積もりは無いのだけど……』

坂口は眼鏡をカチャ、と定位置に戻しながら言う。黒岩は眉尻を下げて他の二人を見たが、太宰も、織田すらも、苦笑していた。

「まあ、涙香の好きなものが無くならないなら、其れで良いだろう」
『ふふ、作之助は優しいね』

黒岩は織田の気遣い溢れる言葉に微笑み、普段は透き通る様に白い頬を桃色に染めている。

「私達は邪魔のようだよ安吾」
「はぁ……全くです」

二人を挟むようにしてカウンターに腰掛ける太宰と坂口は、そう呟きつつ酒を口に含むのだった。



2018.03.13*dead apple cong.


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