ザイオンス効果━接触回数が増えるほどなじみの程度が増大し、好意を生む心理現象のことだと、先週の授業で習った。魔法薬学、飛行術、実践魔法、魔法を使用するあらゆる場面ではその対象を生物的にも物理的にも哲学的にも理解できているかどうかで結果が左右される。飛行術を苦手とする者に人魚が多いのは、飛行という新しい身体の使い方を理解する前に人間の体の仕組みを習得できていないからであることが多いし、変身魔法でも素材や部品の詳細が不明瞭な物は作り出すことができない。であるから、優秀な魔法士になるためにはこの世のあらゆるものをあらゆる方向から理解していくことが必要不可欠である。この世のあらゆるものとは、感情もそのうちだ。ナイトレイブンカレッジでは感情を仕組み的に捉える技術を学ぶため、心理に関する授業が必修授業として設定されている。フロイドが「ザイオンス効果」を偶然耳に捉えたのは、先週、霧のような雨の降っていた日の授業中だった。

 目に入る回数が多いほど好意を持つとは、なんとも単純かつ明快でありながら、なんとも不可解さを多く孕む理論だとフロイドは思った。彼の寮長や片割れとは毎日のように顔を合わせているが、好意と同等なくらい不快感を覚えることもある。好意が回数によるものなら、彼は今頃幼馴染たちを溺愛していなければならなかった。その様を想像して少し顔を歪める。クラスメイトだって顔や名前は覚えこそすれ、好きになどなった覚えは無い。自身にこの理論はとんと当て嵌まらない。だが、心理について━それ以外の学問も━の研究は日夜進化しているものだし、そもそも学問とは不確定要素を確定要素にしていくためにサンプルや傾向を抑えて明文化していくことであるのだから、自身のように当て嵌まらないものもいて当然である。彼は気分屋で極端だが客観性に優れており、賢いので、自身が他から見てイレギュラーであることは十分認識できていた。

 ザイオンス効果について、彼の興味は偶然長く続いた。授業が終わっても日が変わってもこのことについてふと考える。何度も見ているクラスメイト、客、教師…どれをとってもやはり無感情であった。興味があるとすればその対象が起こす行動と現象に激しい興味を感じるだけであるので、その生物自体に何かしらの印象を持つことはやはり自分には滅多にないことなのだと思っている。さらに彼の場合は、それに持続性が無い。興味が湧くも消えるも突発性を伴い、それこそが彼の気分屋と称される所以であった。
 彼の興味関心には、持続性が無い。

 そんなことを考えながら外廊下を歩いていて、彼女が目に入ったのも、やはり偶然であった。この学園では特に目立ってしまうスカートをぶわぶわとさせながら、目の前を歩いている。

 彼女は苗字といった。平坦な響きなので発音が難しい。でも誰も彼女のことを呼ぶことなどほとんど無いので、その難しさを実感する機会はほとんど無かった。薬草の手入れに精通しており、この学園の植物園にある一角の手入れを任されている。年齢は分からないが、顔立ちと体の小柄さが相まって幼く見えるので、自分より年下のようには見える。それ以外には何も知らない。これが、この学園の生徒ほとんど全員の認識であった。彼も同様である。

 苗字のことも、そういえばよく見かけるのであった。必然的にだ。教師の指示で薬草のいくらかを見繕って魔法薬学の授業の途中で入ってくることもあったし、彼女の職場とも言える植物園は鏡舎にも近い。サムの店にも仕入れがあるようだから、彼女と生徒の行動範囲は思いの外共通しているのである。そのうえ、彼女はスカートを履いていたからよく目立つのであった。

 何度も見かける存在だが、やはり特別好印象だと思ったことは無い。彼女は真面目であるはずだから、事件を起こしたり巻き込まれたりすることは無いはずである。興味関心に身体を動かされている自分にとっては、彼女の存在を認識はしても、興味関心を持つきっかけなど無いに等しい。真面目な薬草管理人。自分にとってはそれ以上もそれ以下でもなく、要するに、自分にはまったく関係のない人間であるということだった。

 彼のザイオンス効果への興味が続いたのは、ここまでだった。




 次に彼女を認識したのは大食堂で昼食を摂っているときだった。
 彼女の食事するところを遠目から何となく眺めて、何がなしの意外性のようなものを感じた。友人の自宅に初めて遊びに行った時のような感覚である。それまで自身の友人としての一面しか見えていなかったのが、自宅を見て生活感に触れ、その友人自身にも生活があり、家族があり、自我があるいち生物であることをそのとき認識した。そこで感じた新しく脳が開ける感じと、似ていたと思う。
 彼女は食事の前に神妙な顔つきのわりに軽く手を合わせ、何かをつぶやいてから食事を始めた。最初にスープをひとくち飲み、そのままサラダを半分ほど食べた後、パンを小さく千切って口に運ぶ。体はほとんど動かず、一人でいるので食べ物を入れたり噛んだりする以外には口は動かない。あまりにもしんとしているから、周りの生徒もその存在に目もくれない。男子学生の騒音の中でひとり神妙さを携えていた。所作が綺麗かどうか、マナーが遵守されているか、そうではなく、ただ静かな女だと彼は思った。不快ではない。彼女はナプキンで口を少し抑えたあと、最初のように手を合わせてまた何か呟く。英語で無いことは確かだなと、それだけ分かった。

「フロイド」

 確信と同時に、馴染の声に自身の名を呼ばれ、続けて「何を見ていたのですか」と声がかかる。そういう聞き方をしてくる時点で、この片割れは自分が何を熱心に眺めていたのか分かっていることを知っていた。分かっていることこそわざわざ尋ねてくる性質なのだ。彼女のことを見ていたのが片割れに明けたところで何の問題も無かったので、「別に」と答えた。ジェイドはこれに追求してこなかったので、会話はここで終了した。何となく彼女を真似て自分もスープから口にする。いつもより濃い味付けだったので、彼女がなぜサラダを一気に半分いったのかここで分かった。味覚を中和させるため彼もサラダを半分いったが、これは彼女を真似たのではなく、そうするのが一番良い選択だったからである。