モストロラウンジは今日も盛況である。いつもそれなりに客入りはあるが、特に今日のような、休日前の夕方以降はとりわけ賑やかに席が埋まるのだった。

 利用者は学生だけではない。教職員、場合によっては外部の客の接待などでも利用されることがあった。男子校に通う学生と大人相手ではマーケティングも困難であるはずだが、それを両立させることができているのは流石、寮長の手腕が光るところである。

 フロイドが給仕に励んでいるとき、新たな客が来るのが見えた。席までの案内も彼の役目である。新たな客は苗字であった。特に何も考えず身体の覚えるまま、中折れハットを抑え背筋を伸ばして迎え寄る。苗字はひとりで来ている様子で、カウンターの端から3席目がちょうど空いている。ライトも当たりすぎず、ひとりで来た女性を案内するには具合が良さそうだ。彼は気分屋だが基本的には優秀であるので、店の回転から彼女の居心地まで瞬時に計算することができた。

「いらっしゃいませ。お一人ですか?」
「こんばんは。デイヴィス先生はお見えですか?待ち合わせなのですが」
「イシダイ先生?いや、まだ…」

 まだいらしてないようです、か、まだきてないよ、のどちらを続けるかで迷って言い淀んだ。彼女の外見と、しゃんとした物言いが一瞬釣り合わず、自身の立ち位置を掴み損ねたためである。だが彼はやはり優秀なので、フロアを一瞬見渡す振りをして立て直し、続けた。

「まだいらしていないようですが、よろしければお席へ」
「ありがとうございます」

 しゃんしゃんと話すので目立たないが、声がやわい。女性の声だなと思った。身長差があるので意識的に速度を落として席まで案内する。クルーウェルと苗字の組み合わせなので、もしかしたら薬草についての話かもしれない。プライベートで連れそうところは見たことが無いが、どちらにせよ、店を利用している他の生徒や彼ら自身のことを考えても、空間の中心からは逸れた席の方が好ましいだろう。並びは横、カウンターが良いか。考えながら、後ろをついてくる苗字の様子を伺う。もちろんこの後の声かけや案内の参考にするためである。下品にならない振る舞いは、陸に上がりたてのころから練習してきた。もう意識せずとも、彼はこれをこなせるようになっている。

「どうぞこちらへ」
「ありがとうございます」

 苗字はお礼をこまめに言う女性だった。フロイドと彼女の会話は、思い返す限りこのときが初めてだったのだが、そのうち半分以上、彼女は「ありがとうございます」と言っていた。席に案内されただけで語尾まではっきりお礼を言うような客はこの学園には少なかったので、これは彼の中にほんの違和感として心を擦った。にこりと笑んで応えておく。注文はクルーウェルが来てからになるだろう。店の入り口での会話から、待ち合わせの時間から過ぎている、もしくは早く来過ぎている確率は低いから、クルーウェルがもうすぐであろうことは予測できた。彼は時間はきっちり守る。
 フロイドの予測は当たりで、彼女が椅子にかけてスカートを少し直したとき、クルーウェルも到着したのだった。


 滞在時間はそんなに長くなかったので、やはり用件の決まっていた会だったのだろう。クルーウェルはブラックコーヒー、彼女はホットミルクティーを1杯ずつしか頼まなかった。会話の内容までは聞こえていないので知らないし、フロイドはクルーウェルが席を立って声をかけてくるまで、この二人のことをすっかり忘れていた。

「仔犬」

 フロイドがちょうどカウンター内でひと呼吸おいたときだった。視線が合って、返事をする前に彼は続けた。

「俺はこれで。彼女はまだ少し残る」
「了解。ありがとうございました〜」
「彼女がこの後何か頼むようなら、俺からということにしておいてくれ」
「Aye,Sir. 彼女には?」
「礼だとでも伝えてくれ。ひとつ頼まれてもらったんだ」

 特にそれ以上掘り下げることはしなかった。相手は客で、自分はスタッフだからだ。不躾に掘り下げるものではない。

 姿勢良く去っていく背中を見送って、ひとり残った彼女をちらと見た。追加でオーダーがあるのなら任務を全うしなければならない。彼女は特に店員を探すそぶりもなく、カウンターで緩やかに手を重ねて何か考えているようだった。もうミルクティーはすっかりぬるくなっているはず。彼女は少し薄着だし、ここはモチーフが海であるので、女性だと少し寒いかもしれなかった。
 会計周りを担当している新人アルバイトに、クルーウェルの1件を託ける。承知の返事と「共有しておきます」と落ち着いて対応しているのを確認して、フロイドもカウンター内に入った。客はこれから引いていくだろうから、アルバイトの半数は徐々に上がりにして良いかもしれない。支配人は表に出てこないこのラウンジの指揮は、副寮長に一任されていた。

「ジェイド、そろそろ良いんじゃない」
「そうですね、フロイド」

 ハットを外しながらジェイドに声をかける。ジェイドも同じことを考えていたようで、そうですねと言いながら指示を出すために裏へ入って行った。

 さて、カウンターに座っている客は彼女のみである。先の会話が聞こえていたのか、彼女はこちらの様子を伺っているようだった。客には聞こえないように配慮したつもりだったが、存外響いてしまったのかもしれない。目が合ったので、外したばかりのハットをかぶり直しながら彼女に近寄った。

「そろそろ閉店ですか?」
「まだ大丈夫。寒くない?」
「それはまったく…じゃあ、もう少しだけ。すみません」

 彼女は刺繍の入ったブラウスを着ていた。白いブラウスに白の刺繍だから、正面でしっかり見るまで気が付かなかった。スカートは黒だったと思う。いつも重めのスカートを履いていて、ふわふわ、ひらひらというよりは、ぶわぶわとさせながら歩いているのだった。今はスカートを上手く畳んでカウンターの小さい椅子に座っている。自然と会話が繋がりながら、フロイドは白のブラウスの襟元を見ていた。胸元まで刺繍が入っているのを目で追って、そのままティーカップまで視線を下げる。苗字は、ちょうど彼がティーカップまで視線を下げたところで、彼の顔を見上げた。フロイドがティーカップを見ていることに、気が付いたようだった。

「ミルクティーがいつも美味しくて、私、これしか頼んだことがないんです」
「そうなの?ありがとお、ジェイドが喜ぶよ」
「ジェイド・リーチさんが淹れていらっしゃるんですか」
「いつもではないけどね。好きだし、得意だから。紅茶の仕入れは大体あいつも立ち会うし」

 なるほど、と彼女はうなずきながら律儀に相槌を打つ。

「フロイド・リーチさんは?フロント以外には何か担当されているんですか?」

 自分の名を知られていることは、何ら不思議ではない。彼女はジェイドの名も知っていたし、彼は自分単体でも、それ以外でも、内容の良し悪し関係なく目立つ存在であることが、客観的にわかっていたからだった。彼女が発音した自分の名前はひどく異質さを持っていた。それは、彼女の語尾までしっかり発音する喋り方のせいかもしれなかったし、彼女の声質がやわいせいかもしれなかった。脳みそに彼女の声を響かせながら、彼は答える。器用だったので、少し上の空でもそれなりの会話は成立させられた。

「仕入れの立ち会いもだけど、厨房も。業務内容はジェイドと被ってることが多いかな」
「そうなんですね。アーシェングロットさんの采配だと、てっきりお二人は役割が違うのかと思っていました…効率や負担を考慮して」
「本当はそうしたいだろうけど」
「本当は?」
「ジェイドはああ見えて極端な決断することがあるし、俺は気分に波があるし。補完させるために同じことやらせてんの。問題児なの、俺ら」

 ええ、と言いながら彼女が笑った。いつも安定した穏やかさを持っているのは知っていたが、笑った顔をフロイドは初めて認識した。目尻の下がる笑い方は、やわい声とよく合っている。

「ひとりの時間邪魔した、ごめんね」
「いいえ、とても楽しかったです。もうそろそろお暇します」

 言いながら彼女は持ってきていたストールを手にかけた。客はもうほとんどいない。まだ学生なので酒の注文もなく、食事さえ終えればみな帰っていくからだった。カウンターを挟んだまま入り口まで見送る。入り口まで、特に会話は無かった。

「お代はイシダイ先生から貰ってるよ」
「えっ」
「何か押し付けられたんでしょ?さらにプレッシャーかけられちゃって、大変だね」

 彼女はまた笑った。フロイドのこの口のジョークは好みに合っているらしい。ハットをとって見送りのポーズをとる。

「また来てね。お待ちしてます」
「ありがとうございました。また」

 彼女はほほえみを携えたまま少し頭を下げて、スカートをぶわぶわさせながら店を出て行った。カウンターに戻ると、すでにクローズの準備を指示し終えたジェイドが戻ってきていた。しっかり磨きあげられたグラスをチェックしていたジェイドは、特に顔も合わせずフロイドに声をかける。

「お疲れ様でした。彼女とは知り合いでしたか」
「いーや。今日初めて話した」
「おや。話が弾んでいるようでしたので、てっきり」
「うんまあね」

 向こうは客なんだから、それなりに会話の内容やテンポは合わせるものでしょ、とか、たまたま気が向いてたからだよ、とか、本当はいろいろな偶然や考えが彼なりにあるのだが、説明するのは面倒だったのでやめた。大事な会話ではないので、皆まで伝わらずともなんの問題も無い。

 今日の営業もつつがなく終わった。今日は賄い希望のアルバイトもいないから、フロアの片付けが終われば今日は上がりである。フロイドはハットもジャケットも雑に脱ぎながらマジカルペンを振った。入り口付近からゆっくりフロアが片付いてゆく。最後に、彼女が座っていたカウンターの椅子が少し傾きを直して、フロアはまたしんと元に戻った。本当は3年生で習得する魔法だが、彼は優秀なので、履修していない魔法でもそれなりに使うことができた。アルバイトと何か話しているジェイドを置いて、脱いだハットとジャケットを指に引っ掛けながらその場を後にする。彼女のことは、今はもう頭に残っていなかった。