あれから彼女がラウンジに現れることはなく、彼が彼女の存在を思い出すのは、彼女が視界に入ったときだけだった。鏡舎の近くで彼女が土を運んでいるとき、魔法薬学室へ大量の瓶を運搬しているとき。授業で使用する魔法薬学室の隣に植物園があるので、彼女を見かけることはほとんどの生徒にとって必然だった。

 ここまでは彼にとっても彼女にとっても特に変わりないことであったが、ラウンジで少しの会話をしてからというもの、彼の方ではその様相が少し変わってきていた。彼女を認識するとき、彼女の"存在"以外のことにも気付くようになったのである。

 例えば、植物園の近くで土を混ぜている━彼は植物育成に明るくないので、彼女が何をしているのかは一切不明である━とき、そのときだけは作業着のようなものを身につけていることや、化粧が日によって少しずつ違うこと、首元を少しだけ日焼けしていること。それから、意外と多くの生徒が、彼女に話しかけているということ。彼女に話しかけている生徒は、軽く挨拶だけ交わすものから、何かしら質問して彼女から教示を受けているものまで、様々であることも分かった。トレイやルークが、彼女から数個の小瓶を渡されている場面も見たことがある。なるほど、あの分であれば、やはり自分や片割れのこともある程度知っているだろうなとフロイドは思った。先日のラウンジでは「問題児なんだよ」と簡単に、冗談めかして済ませたが、ああも生徒と繋がりがあるようであれば、自分たちのどこがどう問題だと云われているのかも、知っているだろうなと想像できる。ここまで考えて、フロイドはどこか腸を撫でられているような気分になって、彼は唇を結んで首の後ろを掻いた。

 彼はこの心地悪さを、不公平からくる不満であろうと結論づけた。つまり、彼女が知っている自分の情報より、自分が知っている彼女の情報の方の方が、圧倒的に少ないのである。海での生活では生存をかけ、陸での生活では圧倒的利益のため、強者であるために、情報収集は必要不可欠であった。彼にとっては本能であるとも言えるその部分が、刺激されているのだろうと思った。

 この不快感を拭うことが必要であると思った。彼にとって終わりも理由も見えない不快感は何の得にも成り得ないからである。



 これを皮切りに、フロイドは苗字に話しかけるようになった。彼女が土を混ぜているとき、いつものスカートではなく作業服でいるとき、化粧がいつもと違っているとき。フロイドは、遠目で彼女を見ていただけのころに比べて、彼女についての多くのことを知っていた。彼女について何となくわかってきたなと実感したころには既に、ふた月の時間が経過していた。土を混ぜているのは、植物ごとに適した土があり、それを用意するためであること。作業服は学園の経費で調達したものであること。化粧が違うのは、あまりこだわりが無いからだということ。首元の日焼けについては、まだ何となく触れらていない。

「おはよお、これから大食堂?一緒に行こ」
「フロイドさん、おはようございます」

 彼女の朝がわりかし早いことも、この頃のフロイドは知っていた。いつか、彼が偶然早く起きて鏡舎へ姿を現したとき、スカートをぶわぶわさせた彼女がちょうど外を歩いているのを見かけたからである。そのときも、彼女は何かの苗を持っていた。早いねと声をかけたら、この時間に起きていることは珍しくないというような答えが返ってきたので、そっか、と会話を締め括った。具体的に何時なのかは聞いていない。彼の興味関心は、やはりあまり長く続かない。それは会話の内容についても同じだった。
 彼女が朝早いのだと知ってからも彼の気まぐれな起床時間に変化はなかったが、たまたま朝早いことがあると、彼女を朝食に誘うようになっていた。彼女は朝も大食堂で摂っているらしいので、誘うというよりは、フロイドが着いて行くような形で朝食をともにするようになっていったのだった。

「またマリネ?しかも玉ねぎだけのやつ…好きだね」
「本当に美味しいんですよ。フロイドさんも食べてみたら良いのに」
「気が向かねー」

 カフェの中核を担う存在であるとは言っても、フロイドはやっぱり男子高校生であった。酸いものより濃くて腹に溜まるものでないと、特に昼から夜にかけてはやっていけない。
 彼女の食事は相変わらず静かだった。朝はスープとサラダ、それから小さめのパンだけ。食堂はバイキング形式なので、この昼まで本当に持つのかどうか分からない小食セットは彼女のセレクトである。確かに、爪の大きさから何まで全て、彼女は彼の半分くらいの大きさしか無かったので、食事量の少なさには納得できる。食べるスピードもゆっくりなので、咀嚼している間に腹も膨れてくるのだろうと思った。

 フロイドはいつも、彼女の食事中、他の騒音から壁を作るように静かだった。頰杖をついて、横からじっと彼女を見つめる。彼女を見つめている自覚はあったし、彼女も見られている自覚はあった。でも二人は何も話さない。フロイドは彼女の倍くらいあるモーニングを彼女の倍早く食べ終えて、そのあとは何を話すでもなく、何を聞くわけでもなくじっと彼女を見る時間が好きだった。
 スープを飲む。喉が動く。サラダを口に運び、パンをちぎって口に入れて、噛む。あまりにも儀式のようで、フロイドはこの間、口をきくことが憚られる思いだった。彼は口をきかないし、彼女も特に話さない。まるでそれは何かを赦すための儀式のようだと思った。彼女は食事の最初と最後に手を合わせて何かを呟くので、フロイドにとってはそれが余計にその一連を神秘たらしめていた。
 彼女の食事も終わると、二人は席を立ってそれぞれの場所へ戻っていく。フロイドは教室へ、彼女はおそらく、植物園へ。フロイドに雑音が戻ってくるのはいつもこの瞬間だった。

「フロイドさん、お誘いありがとうございました」
「ん。じゃあまたね〜」

 ひらひらと手を振って歩き出す。食事が終わった後の、テーブルにやわらかく置かれた彼女の手の甲を思い出して、そこから、スカートのぶわぶわした部分から背中にかけて一番くびれた部分を思い出して、たぶん、近いうちにそれを触りたくなるだろうと確信していた。