Fin
誰かが私の頭を撫でている。
「ナノカ…」
優しい声。でもどこか寂しそう。
「ナノカ、起きて」
「んっ…」
耳元から囁かれる甘い声。耳に掛かる吐息がくすぐったく身を捩る。薄く目を開けても部屋の中はまだ暗い。陽が登る前だとわかると、目はまた自然と閉じてしまう。買ってもらった布団は贅沢にもふかふかで暖かく、ナノカをまた夢の世界へと誘っていく。
「キス…してもいい?」
「はーい、はいはい、今起きましたよー」
頬に顔を近づけている彼を無理やり押し退ける。それで一気に頭が覚醒するのだから不思議なものだ。中毒性のある布団からナノカは無理やり這い出たのだったー…。
「準備できた?」
「うん!お待たせ!」
「はい、これ帽子」
ポスッと被せられたキャップ。手で押さえ首を傾げると、彼も同じようにこてん、と頭を傾けた。
「うん、似合ってる」
「…っ…」
何気ない言葉でも心臓が痛いほどに跳ね上がる。帽子を目深に被り、口元が変に緩んでしまいそうなのを隠した。
「ど、どこに…いくの?」
「海」
「海?こんな時間に?」
「うん。チヌを釣りに行こうと思って」
W釣りWの言葉にナノカの表情は明るくなる。
「わぁ!楽しみ!チヌって…クロダイのことだよね?」
「そう、見たことある?」
「刺身の状態か、もしくはたぶん水族館…」
「ハハッ、素直でよろしい」
ご主人が帰ってきたのと、散歩に行けることで大喜びのハロを抱き抱え、車に乗り込む。
揺れる釣り道具。後部座席に乗せられているそれを横目に入れ、彼から久しぶりの釣り講座に耳を傾ける。
「チヌは鳥や大魚を避ける為に、夜間に捕食活動することが多いんだ」
「夜行性ってこと?」
「うん。まぁ海が濁ってなかったら…だけど。因みに日の出前と日没後の時間帯が一番釣れる」
「だからこんな暗い時間から行くんだね。チヌだとエサは何使うの?」
「この時期だと甲殻類や小魚…かな」
「え?時期によって違うの?」
「うん。チヌはね、季節によって食べるものが違うから餌もそれに合わせる必要があるんだ」
「へぇー!そうなんだ!」
釣り方も季節によって変えた方がより多く釣れるのだとか。ちなみに今シーズンだと落とし込み釣りというのがいいらしい。
暫く車を走らせ見えてきた海に、窓を開け、ハロと一緒にほんの少しだけ顔を出す。外はまだ暗いが微かな潮の香りに心は弾む。車を停め、釣り道具を持って堤防まで来るとそこに人はおらず、自分たちだけであった。
堤防に腰掛け、魚が掛かるのをひたすらに待つ。波が堤防壁に当たりちゃぽちゃぽと音を立てる。海や風の音意外に余計な音は存在せず、心地がいい空間に耳を傾ける。
「子供の頃は…親友と…よく釣りに来てたんだ」
海の先を見つめる彼がぽつりと言葉を落とす。その横顔はどこか寂しそうだった。
「今は行かないの?」
「うん。もう…来れないかな」
それが何を意味しているのか。それ以上踏み込んでいいのかナノカにはわからなかった。寂しそうに海を見つめるその瞳だけが答えだと思った。
「そっか…それは…さびしいね」
「うん…」
儚げに笑った彼の横顔。その親友とは喧嘩別れでもしてしまったのだろうか。
「気になる?」
ジッとナノカが彼を食い入るように見ていたからだろうか。ちらり、と彼の横目がナノカを捉える。
「気になるよ」
うん、気になる。
「訊きたい?」
「ううん、訊かない」
だって、
「どうして?」
だって、
「君が…泣きそうだから」
ぴくり、と竿を持つ手が揺れ、釣り糸の先が震える。
「泣きそう?…僕が?」
「うん…」
「悲しい顔なんて…してない筈だけど?」
「そうなの?」
「そうだ」
「そっか…じゃあ、私の勘違いだ。勝手にそう思って…ごめん」
「…っ…」
彼は俯き、視線はまた暗い海へと戻ってしまう。しまった…。変な空気にしてしまった。
ナノカを起こしにきた時から彼の様子はどこか変だった。どことなく、元気がなくて…。そこでハッと額に手を添える。支度に急いでいて出かける前に線の長さを確認しなかった。
あと、どれぐらい残ってるーー…?
「嘘だ」
「え?」
彼がか細い声でそう口を切った。額に触れていた手が力なく下ろされていく。海を眺めている寂しげな瞳が微かに揺れていた。
「僕は…君に嘘をついてる」
あんなに心地の良かった波の音は今は押し寄せてくるように聴こえてしまう。
「仕事も…探偵じゃないんだ」
ナノカは何も言わず、黙って彼の言葉に耳を傾ける。釣り糸の先が微かに生む波紋は彼の手が震えているからだ。
「僕は、警察の人間で…訳あって今は潜入している身なんだ」
今までずっとナノカにひた隠しにしていた彼が真実を告げている。あぁ、彼も、額の線の存在に気づいているのだと…頭の傍らでぼんやりと思った。
起きる直前にナノカの頭を撫でていたのは夢などではない。彼が額の線を確認していたのだ。
タイムリミットが近いのだと…悟った。
「安室透という人間は存在しない。けど降谷零として公に生活することも出来ない」
ハロが彼の異変に気付いて心配そうに体を擦り寄せている。それを彼が優しい手つきで安心させるようにその背を撫でる。
それを見てどうしようもない愛おしさが生まれていることに気づく。
「僕は…君がこの世界に来てくれたこと…ずっと、好都合だと…思っていたんだ」
「好都合…?」
「戸籍もなく、多田野ナノカだと知る人間が一人もいないこの世界なら身分を偽る僕のそばに置いても何ら問題はない…と」
ハァ、と出されるため息からは嘲笑が入り混じっていた。
「君が、悩んでいることは知っていた。不安になっていることも。でも僕は気づかないフリをして、どうしたら君が僕に依存してくれるかそのことばかり…」
「どうして、わざわざ私に嫌われるような言い方ばかりするの?」
彼の言葉を遮り、先ほどから感じていた違和感をぶつける。
どうして、わざわざ自分を蔑むような言葉ばかり…選ぶの…?
黒い海を見つめていた彼がようやくナノカを見た。Wあの時Wと同じ顔をしていた。
「君を…愛して、しまったから」
「…っ…」
あの時と同じ、辛そうに寄せられた眉。苦しそうな声。
「君を、手放したくないと…思ってしまったから」
愛を説かれている筈なのに胸をつんざくような痛みが走る。いっぱいいっぱいになった心は零れ出すようにナノカの目から涙が溢れ出てくる。
「私…きっともうすぐ…元の、世界に帰っちゃう…」
うん…と全てを悟ったように頷く彼。
「もう、二度と会えないかも…しれないんだよ?」
「わかってる」
「…っ…」
キュッ、と唇を硬く閉じる。彼はそれでもナノカと一緒にいたいと願ってくれている。未来のない関係だとか、報われない気持ちだとか、そんなことを言い訳にして逃げていた自分と違い、彼は真っ直ぐに気持ちを伝えてくれている。
自分も逃げずに、それにきちんと応えなくてはいけない。
「好き…」
水平線を超えた太陽が彼の瞳を照らす。
「私…零くんが…好き」
泣きそうな顔で笑った彼。伸びてくる手がナノカの頬に触れ、涙を拭う。
見つめ合う瞳。互いに目を閉じ、ゆっくりと重ね合わさった唇は少し冷たかった。
「帰ったら…君を、抱きたいんだ」
いい?と訊ねる彼。ナノカの顔は赤く染まる。けれど応えるように目を閉じ、ゆっくりと頷いたーー…
人肌の温もりに心地良さを感じて目を覚ます。擦り合わさる足がくすぐったいと感じた。彼が優しくナノカの頭を撫でる。ナノカは気持ち良さげに目を閉じ、彼の胸板に額を擦り付ける。
とても幸せだった。
とても暖かかった。
彼の指先がナノカの首筋を這い、血管に沿うように鎖骨へと滑らせていく。
「ふふ、くすぐったい、よ…」
耐えきれず小さく笑って身を捩る。
「いち…にー…さん…しぃ…」
「…何の数?」
「ん?何の数だと思う?」
「んー…ホクロ?」
「外れ。僕が君に付けた痕の数…ごー…ろく…」
「嘘⁉そんなに⁉」
クスクス笑う彼の喉仏が男らしく上下に動く。互いに指を絡め、抱き締め合った。目を閉じ、幸福感を存分に噛みしめる。
彼の目尻が嬉しそうに下がったのがわかった。ナノカも彼の目を愛おしそうに見つめる。
あぁ…離れたく、ないなぁ…
彼の指がナノカの前髪を払う。
今度は寂しそうに下がる目尻を見て、もう時間なのだとナノカの眉も悲しそうに下がる。
彼がナノカの上に覆い被さるように組み敷く。彼の唇が優しく額に落とされた。
「零くん…大好き」
それに応えるように彼の唇が至る所に落とされていく。キスとともに降り注がれる滴。それは初めて見る、彼の涙だった。
「れ…くん…」
視界が白く霞む。
あぁ…嫌だ…
「零くん…!」
離れたくなんかない…
帰りたくなんかない…
やっと、自分の気持ちに素直になれたの…!
ずっと、ずっとここにいたい…
零くんの、そばにいたい…!
なんでもする。なんでもするからここに居させて。お願い、お願い神様!お金でも、服でもなんでも持って…いっ…て…
ふ、く…
「ちょ、ちょ、ちょっとまって!!」
ガッ!と彼の肩を掴む。涙を流している彼が驚いたように目を丸くしている。それはそうだろう。感動的な別れの最中だ。それをぶち壊すような声を上げれば誰だってそのような顔になる。
「ど、どうした」
「私!服着てない!!」
「ッ!?」
「えっ?素っ裸でロッカー室に戻るの⁉」
「落ち着け、急いで服を…」
「絶ッ対!間に合わない!!あー!せめて下着だけでも!!」
そうこうしているうちに体は白く発光し始める。徐々に強まっていく光に目は開けていられなくなる。
「ずっと!零くんのそばにいたいー!!」
最後はヤケになり、気持ちをぶつける様に叫ぶ。だんだんと光が消えていく。あー!もう最悪だと恐る恐る目を開ける。するとそこには目をまん丸にして固まっている彼がいた。
「ナノカ…?」
「あ…れ…?」
「額の線は⁉」
急いでナノカの額を確認する。前髪を上げ、彼の瞳が左右に揺れているのを不安げに目で追う。
「綺麗に消えて無くなってる…」
「ほ、ほんとう…?」
「本当だ」
「・・・・」
「・・・・」
「ぷっ…」
「くっ…」
「あはは!」
「ははっ…」
二人で目に涙を溜めながら大笑いをしているがホッとしたのか今更ながらに体は震えている。しかし何故だかパンツだけ握りしめてるのも可笑しくて堪らない。ずっと心配そうにしていたハロが布団によじ登る。ハロごと抱き締め合い、泣きながら二人で可笑しそうに笑い合ったーー…
ポアロ、カウンター席にて。コナンは隣に座る、ほぼ初対面の女性に今ガン見されている。居心地悪そうにズズッとオレンジジュースを啜った。
そして公安の人間であり、現在探偵として身分を偽っている安室透がカウンター越しで皿を拭きながら同じく自分をガン見している。
「あ…の…」
「ん?」
「どうしたんだい、コナンくん」
だらだらと変な汗を流しながらコナンは安室と先ほど彼に紹介された隣の女、多田野ナノカをチラチラと目を泳がせるように上目遣いで見る。
「僕の…顔に、何か付いてる?」
「ううん…付いてないよ」
「透君から聞いたんだけど…コナン君って…すごく頭がいいんだってね」
ちらっ、と安室を見る。こくん、と頷かれた。何が?と言いたくなった。
「噂によると名探偵毛利小五郎にも引けを取らない推理力を持っているとか…」
え?話したの?信じられないと安室に視線をぶつける。すると何故だかまた頷かれた。だから何が?と言ってしまいそうになるのをグッと堪えた。
「何か…悩んでることはない?」
「え?」
「例えば、人に言えない秘密を持っている…とか?」
なにやら含みのあるその言い方にバッ、と顔をまた安室に向ける。だが彼は知らないはずなのだ。自分が薬で小さくなっていることを。中身は高校生だということを、知らないはずである。
まさか、バレて…
すると全てを悟ったような顔で優しい眼差しを向ける安室。微笑みながらゆっくり頷く彼にコナンはついに声を上げる。
「だからそれなに⁉」
「あの子が透君が言ってた、もしかしたら自分と同じかもしれない境遇の子?」
「あぁ。調べたら江戸川コナンの戸籍は存在していなかったからもしかして…と思ってね」
「ごめん…もう少し親睦を深めてから訊くべきだったね」
失敗したな…と肩を落とす彼女に安室は気にする必要はないと首を横に振る。
「彼の反応を見たかっただけだから敢えて君に頼んだんだ」
「でも次会った時はもっと警戒されて避けられちゃうかも…透君ならそうするんじゃない?」
「まぁ…確かに警戒はするかな」
「ほらー!やっぱり!」
私はあの子ともう少し仲良くなりたかった!と口を尖らせる彼女に安室は苦笑いを浮かべる。
「それよりも僕が入れたコーヒーはどうだった?」
「うん!いつもインスタントで済ませてたから新鮮だった。引いたばかりの豆ってあんなにいい香りがするんだね」
「毎日飲みたくなる?」
「うん!あー…でもちょっと贅沢だなぁ」
嬉しそうに笑う彼女の手を握る。少し恥ずかしそうに頬を染めるナノカを安室は愛おしく見つめる。
「あっ、セロリそろそろ買い足さなくちゃね」
「なら帰りにスーパーに寄ろう」
見つめ合い、互いに微笑み合う。
手を繋いで、ハロが待つ家へと二人で帰るのだ。
end
2020.01.11.いいね♡
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