最後の話33
「あっ、こんにちは!安室さん」
「・・・・」
「…安室さん?」
「・・・・」
店外で掃き掃除をしていた彼の手は止まっており、代わりに唇に触れ何やら考え込んでいるようだった。何度声をかけても反応はなく、安室さんってば!と少し強めの口調で服の裾を引っ張れば漸く反応を示した。
「あっ、ごめんよコナン君。少しぼーっとしてた。学校帰りかい?」
「唇…どうかしたの?ずっと気にしてるように触ってたけど」
無意識だったのか触れていた手を背中に隠し、困ったように笑った。そんな彼にコナンは訝し気に眉を上げる。
「大丈夫?なんかちょっと変だよ?」
「あぁ…大丈夫だよ。ちょっと唇が荒れちゃってね」
「ふーん…そういえばかやお姉さんの出発、今日だね」
ピクッとホウキを持つ手がまた止まる。先ほどから彼らしくない行動にコナンは首を傾げる。しかし表情はいつもどおりの笑みを浮かべ、そうだねと普段通りに返された。
「結構長い間、家を空けるみたい。『緋色の捜査官』のドラマ化が決まったでしょ?その主題歌を任されたらしくてね、ツアーの後ロスに行くんだって。どんどん忙しくなるね」
「あぁ、ドラマの脚本も工藤優作さんが手掛けるらしいね。すごい人が近所に住んでるよね」
チッ、とコナンは胸の内で舌打ちする。かやの話題を振ってるのに、その返答はかやの話から逸れる。
「下手したら半年ぐらい会えないかもよ?」
「仕事があるのは良いことだよ」
「ま、まぁ確かにそうだけどっ」
本当にいいのかよ、とコナンは薄目で安室を睨む。その視線に気づいた彼は一瞬寂し気に瞳を揺らした。
「彼女は、僕がここにいる限りもうここには来ないんじゃないかな」
「えっ、なんで?」
「傷つけて、しまったから」
「えっ?」
「君との約束を破ってすまないと思ってるよ」
「えっ、ちょっと、なんでそんなことっ」
「今日の僕のシフトはこれで終わりだ。それじゃあ、元気でね。コナン君」
エプロンを外し、止めるコナンを無視して安室は店の中へと戻ってしまった。
連絡が来ない、とかやはスマホの前で正座する。トントンと人差し指がスマホ画面を忙しなく叩く。むぅ、と睨みつけるように見たあとハァと溜息が漏れる。
安室が触れた唇を指の腹で撫でるように触る。
連絡、してみようかな…こういうのって待つべきなのだろうか…。うーん、とかやは頭を悩ませる。
まさか無かったことにされているのだろうか。
たらり、と顔全体に冷や汗が伝う。すると突然スマホが震え、慌てて手に取る。ヨーコから迎えが来たとの連絡だった。あからさまに肩を落とす自分にあー!もー!と頭を抱えながら何をしているのだとぐしゃぐしゃと髪を乱す。
今は沖野ヨーコとのツアーに集中しよう。彼女の思いが詰まった大事なコンサートだ。
帰ってきたらちゃんと…話し合おう。
会って話さなきゃダメな気がする。
「行って、きます…」
後ろ髪引かれる思いで一人呟き部屋を出る。静かに閉まった玄関の扉がやけに寂しく感じたーー…
あれからかやには一度も連絡をしていない。すべきなのはわかっている。だが、彼女の返答がもし自分を拒絶するものだったら…。そう考えると仕事を言い訳に送信画面から送れず、日だけが経っていく。先延ばしにすればする程今更感が増していき結局何も送れなくなってしまった。
ベルモットを車に乗せ街中を走っていると大型ビジョンに映る国民的アイドルにふと目がいく。【沖野ヨーコ・公演中のトラブル。ピアノ伴奏のみで回避】とニュースで取り上げられていた。
赤信号により車は止まり、ちらりと映ったライブ映像、画面の端に映るピアノ伴奏者に目が釘付けになった。帽子を目深に被り、映っている時間はとても短かかったが、間違いなく彼女だった。国民的アイドルよりもそこに気づいてしまう自分にほとぼと呆れる。
「バーボン?私の話、聞いてる?」
「えぇ、もちろん。聞いてますよ。組織がそろそろ大きく動き出すのでしょう?」
「あら、ちゃんと聞いてたのね」
「あなたと大事な話をしているというのに脇目を振るうわけないじゃないですか」
「そう?随分あのアイドルに興味があるように見えたけど?」
バーボンが先ほど見ていた視線の先をベルモットは横目で流し見た。沖野ヨーコを見ていたと勘違いしたのだろう。
「ご冗談を。眠りの小五郎がファンとしているアイドルですよ。それでただ目がいっただけです」
「まだあの毛利小五郎とかいう探偵の近くにいるの?」
「いえ、もう必要ないと悟りましたので先日店も辞めました」
それにベルモットは「そうなの」とさして興味なさそうに呟いた。
「そういえばあなた、随分質素な暮らしをしているのね」
外の景色に目を向け、彼女は普段通りのトーンでそう口にした。ぴくり、とハンドルを握る手に力が入る。悟られないようにバーボンは鼻で笑った。
「勝手に入ったんですか?悪趣味にも程がありますよ」
「犬がいたのは驚いたけど」
知られている。ハロは無事だろうか。大丈夫。あの家は安室透としての家。それ以外の痕跡は何も残していない。
「あなたみたいな人がいるのでね、番犬にと思いまして」
「安心して、犬は無事よ。あなたの弱味を握ってやろうと思って入っただけだから」
「結構長く一緒に仕事しているのに心外ですよ。気分が悪い」
組織が入った。あの家を引き払わないといけない。
Wなんか家の雰囲気が実家と似てて…すごく落ち着くから…ここがいいな、ってW
あの家を手放すのか。結構気に入っていたのに。
「てっきり彼女の痕跡があると思ったんだけど」
「彼女?梓さん?」
言い方からして組織が入ったのは最近のこと。かやとはここ1ヶ月程、会っていない。米花町にすら居ないのが幸いしたかもしれない。
彼女のことを聞かれたとしても情報源として利用しているに過ぎないなどと適当な理由はいくらでもつけられる。しかしかやを組織の目に触れさせたくないのも事実。
「梓?あぁ、喫茶店のね。違うわ、前に私の変装を訝し気に見ていた彼女よ」
とっくに調べがついているくせに遠回しな言い方をするベルモットに胸の内で舌打ちする。
「かやさん?あぁ、居ましたね。ここ最近見かけませんけど」
「別にあの子に危害を加える気はないわ。ただ、興味があっただけ」
「調べてもいいですけど、何も出てきませんよ」
「でしょうね。無駄な時間は費やしたくないもの。あなたは大事なものほど念入りに隠すと思ったから少しからかっただけよ」
「で、話の本題はまた僕がNOCであることが疑われてるってところでしょうか」
「さすが、察しがいいわね。ジンがね、計画が近づくにつれて過敏になっているのよ。最近のあなたの行動に疑問を抱いてる。だから巻き込まれる前に忠告しておいてあげたってわけ」
「感謝すべきところなのかな?」
「どっちでもいいわよ」
ベルモットは窓へと視線を外し、どうでもよさそうに頬杖をついた。
降谷は悟られないよう、動揺している心を落ち着かせる。落ち着け、大丈夫だ。彼女のことを調べられてもたまたま引っ越した先が同じアパートであっただけのこと。最悪かやをストーカーに見立てることだって…。そこまで考えて降谷の手は寂しそうにギアに触れた。
家を引き払う日、かやの家へ侵入する。安室透の痕跡を消すためとはいえ、ベルモットに悪趣味と言っておきながら彼女の部屋へ入ることになろうとは。結局彼女は引っ越してもピッキングに合う運命らしい。
テーブルの上に置きっぱなしのスケッチブック。置いていくなんて珍しいな、とページを捲る。
白紙のページが残り少なかった。しばらく家を空けるから新しいのを持っていったのだろう。最後のページが寄れており何か描かれていた。
そのページに手を触れて、目を開く。
ここで、居眠りした日だろうか。
こんな気を抜いた顔で寝ていたのか。
「隅の方に小さく何か書いてあるな」
目を凝らし、その文字を見てスケッチブックを持ったまま固まってしまう。
I care for you
口元を手で覆い、降谷はその部屋を後にする。ガチャリと閉まった鍵が寂しく部屋に轟いたーー…
Wあなたを大切に思うW
34
無事沖野ヨーコとの最終公演もうまく行き、すぐに次の仕事、『緋色の捜査官』のドラマ主題歌の制作に取り掛かる。
依頼されたプロデューサーと有希子は昔から付き合いがあるらしく、今回かやを指名したのも有希子だそうだ。曲に関しては全て有希子の指示に従ってくれと言われた。
多少の疑問は残るが有希子とメールでやりとりする中、ヨーコのライブが終わり次第すぐロスに来るよう懇願される。仕方なくかやは一時的にロスへと飛んだ。
目紛しい日々に気づいたら米花町を離れて二つの季節を跨いでいた。無事曲も出来上がり日本へ帰る支度をしているとあるニュースが耳に流れ込んでくる。
《謎に包まれていた大きなテロ組織が壊滅し…》
そして死んだと思われていた工藤新一が生きていたこともニュースで大々的に取り上げられた。生きていたことはもちろん知っていたが、元気そうな姿をネットで確認し、かやはホッと胸を撫で下ろす。
「新一君、本当に無事でよかったです。しばらく会えなかったから心配してたんですよ」
「あら、かやちゃん知らなかったの?てっきり気づいてたと思ってたけど…」
「え?何のことですか?」
「ふふっ、何のことでしょ〜」
このはぐらかし方は新一にそっくりである。いや、優作も似たようなはぐらかし方をする。工藤家全員がそうなのだ。蘭の今後の苦労が目に浮かぶ。
「あっ、有希子さん。仕事も無事終わりましたし、そろそろ日本に帰ろうかと思います」
「確かに、もう帰っても大丈夫そうね」
「え?ロスに呼んだのって歌い手がロスにいるからメールでのやりとりは面倒だからってことでわざわざ呼んだんじゃないんですか?」
「あはは、それもあるわね」
「それWもW?」
「まぁ、まぁ難しい話は後にして、急いで身支度、身支度!」
背中を押され部屋を追い出される。ここにきておかしな点ばかりでかやの頭はそろそろパンクしそうだった。ロスへ呼んだのは有希子なのにかやが来た途端、工藤夫妻は日本へ帰ってしまった。自分がロスに来なくても良かったのでは…とあの時は愕然と四つん這いに倒れた。まぁ、お陰様で歌い手との濃密な時間が取れたわけなのだが…。
無事飛行機のチケットも取れ、空港で有希子はかやにハグをしながらこう告げた。
「彼にもよろしくね」
「え?彼?」
「あのハーフの彼よぉ!もうしらばっくれちゃって!」
「えっと…?」
「確か、安室透君だったかな?」
「えぇっ⁉優作さんも透君のことご存知なんですか?」
「一度、工藤邸で沖矢君も交えてティータイムをね」
「透君が工藤邸で昴さんとティータイム?」
「まぁ、その時はもう秀ちゃんだったんだけどね」
「えっ?えっ?秀ちゃん?二人して私の頭を爆発させようとしてます?」
頭を抱え困惑するかやに二人は可笑しそうに笑う。訳がわからず首を傾げるが、この温かい雰囲気がはじめて工藤家と出会った日をフラッシュバックさせる。
「懐かしい、ですね」
え?と二人がかやを見る。かやは顔を綻ばせ、仲のいい二人を見つめた。
ずっとこの人たちは変わらない。出会った時からずっとだ。
「あの時、私を日本へ帰る手助けをしてくださってありがとうございます。お陰で今の人生があります。沢山の人とも出会うことが出来ました。感謝しても仕切れません。」
日本へ帰ってからも沢山の出来事を経験した。過去へも向き合うことが出来た。
「僕たちはただ君を日本へ送る手助けをしたまで。ロスで出会った頃の君も日本での君も変わらない。君が頑張ったから今の人生があるんだよ」
優作の言葉にかやは目を微かに開く。
W俺も警察官になるの頑張るから。かやも頑張れっW
頑張れ。と景光の声が聞こえる。あの時と同じ光景が白昼夢みたいに蘇る。景光のその言葉があったから見知らぬ土地で、一人寂しくても音楽は続けてこれた。
私、頑張ってこれてたかな…?
優作のその言葉はかやの今までの生き方を肯定してくれたかのようだった。
「私の目に狂いはなかったってことよね」
有希子の言葉に、優作もかやも顔を見合わせて笑う。そうだ、ちゃんと笑顔で日本へ帰ろう。
「有希子さんには敵わないなぁ」
行ってきます、とかやは笑顔で工藤夫妻に別れを告げた。
日本へ帰ったらまず最初に彼に会いに行こう。
早く、君に会いたいーー…
「えっ…辞め、た…?」
空港に着いたそのままの足でポアロを訪れたのだが、梓の言葉に持っていた鞄を落とす。
「えぇ、結構前に。かやさんは知ってるとばかり…」
「…今、初めてきいた」
「安室さん、人気あったから急に辞めちゃって大変だったんですよ」
当時を思い出しているのか残念そうに肩を落とす梓にかやも寂しそうに背中を丸めた。
空港に着いた際に一度メールをしているが、ポアロを出て続け様に送る。今どこにいるの?と。しかし返信は返ってこず、妙な不安から急ぎ足で安室の自宅へと訪れる。呼び鈴を鳴らし反応を見るが、出てくる気配はなく留守のようだった。
「おや、そこの人に用事?」
びくり、と肩が跳ねる。振り向けばちょうどここを掃除していた管理人がかやに気付いて声をかけてくれた。
「管理人さん、こんにちは」
「こんにちは。そこの人ね、随分前に引っ越したよ」
「えっ…」
「そこからずっと空き家だったんだけどね。明日新しい人がやっと引っ越してくるんだよ」
「そ、そうです…か」
管理人に礼を言うも、頭の中は真っ白だった。なんで…。とふらふらと自宅へと戻り、震える手で電話をかける。
《お掛けになった番号は現在使われておりません…》
「うそ…」
かやはペタン、とその場に座り込む。なんで、どうして急に。まるで彼は初めからそこに居なかったかのように跡形もなく消えてしまった。ゾクッと背筋が凍る。
急いで部屋を飛び出る。当てもなく走る。走って、走って、走った先には彼と歩いた河川敷。足がもつれ、盛大にこけてしまった。
「いっ…た…」
擦りむいたであろう膝よりも、心が痛かった。
「かやさんっ!」
蘭の声に、かやは慌てて地面から体を起こす。学校帰りの蘭が慌ててかやの元へ駆け寄った。
「やっぱりかやさんだ。新一から帰って来るって連絡あったからもしかしてって思ったんです。大丈夫ですかっ?」
「ら、蘭ちゃん…ごめん、こんな醜態を晒した場面に…」
「そんなこと気にしないでください。足擦りむいてるじゃないですか、手当てを…」
「あ、あのさ!透君っ…どこにいるか知らない?」
蘭の手が止まる。スクールバックから取り出した絆創膏が寂しそうに下を向く。途端に暗い顔をする蘭にかやはぎゅっと心臓を鷲掴みにされた気分だった。
「実は、1.2ヶ月前に探偵はもう辞めるって父に連絡が来て…」
「探偵を…辞める?」
「はい…。何か、みんないなくなっちゃって…寂しいですよね」
「みんな?」
「あっ、そうなんです。実はコナン君、やっと本当の家族と住めるようになって…哀ちゃんは親戚の人が見つかったとかで…」
ほんの数ヶ月、米花町を離れただけでみんな、いなくなっちゃうの?
そんな…、なんでっ
「かやさん?」
やだっ。どうしよう。泣きそう…
「かやさん?大丈夫ですかっ?顔色が」
「はは…友達だと思ってたのは私だけだったみたい…」
「かやさん…」
「もう、行くなら言って欲しいよ。まったく…」
うまく笑えてるだろうか。
「そっかぁ…透君、探偵辞めたんだね。でもコナン君と哀ちゃんは新しい門出を喜ばなきゃいけないね…」
彼は初めから友達だと思っていなかったのかもしれない。彼のことを本当に何も知らなかったんだな、とかやは自嘲気味に笑う。探偵を辞めるってことさえ知らなかった。悩んでいたのだろうか。ずっと、辞めたかったのだろうか。全てを消して居なくなるほどに。
「バカだなぁ…わたし…」
ずっと、一緒にいれる気がしてた。失うなんていつも一瞬で…そんなことわかってた筈で…
「教えてくれてありがとう。蘭ちゃん」
「いえ、あのっ」
「ん?」
「こんなこと、言うべきじゃないと思うんですけど…。安室さん、本当にかやさんのこと大事にしてたと思います!だからっ」
「蘭ちゃん…」
「し、新一なら安室さん探してくれるかもっ」
そう言って携帯を出した蘭の手をかやは優しく握る。
「ありがとう。でもきっと何か事情があって、いなくなったんだと思う。だからこのままで大丈夫」
「かやさん!でもっ…」
ぎゅっと握っている手に力が入る。ハッと気づいて慌てて手を離した。
「あはは、気を使わせちゃってごめんね。もう大丈夫だよ!別に恋人でもなんでもないんだから。こんなことでしょげててもね。それにまたひょっこり来るでしょう」
「かやさん…無理してる。私、新一が急に居なくなったとき、すごく不安になった。もう、会えないんじゃないかって…」
「蘭ちゃん…」
「だっ、だから…かやさんの、気持ち…痛い、ほどっ…わかり、ます…」
途中まで耐えていた涙はポロポロと出てきてしまう。そんな蘭にかやは慌てふためく。
「ら、蘭ちゃんっ」
ハンカチを持っていなかったため、服の袖で蘭の涙を拭うが、止まる気配がない。ポロポロと蘭の涙がかやの手を濡らしていく。
「うぅ〜、かやちゃん…」
ぎゅっと温かい、優しい手がかやの腕を掴む。
「うっ…安室、さんっ、なんで…かやちゃん、置いてくのぉ…?」
「蘭ちゃん…」
「ヒック…かやちゃんが、辛いと…うっ…私も辛いっ」
「…っ…」
バッ!と蘭を抱きしめる。かやの頬にも涙が伝った。夕陽色に染まった涙が地面を濡らす。新一がいない間、彼女は何度陰で涙したのだろう。蘭の背中を優しく撫でてやる。
日が落ちるまで、二人で寄り添って小さく泣いたーー…
「かやちゃん…、今日うちでご飯食べてって?」
すんっと鼻を啜って、小さい頃の呼び名で目尻いっぱいに涙を溜めて言う蘭。まるで幼少期に新一と喧嘩した後のようだった。高校生になったけれど変わっていない部分にどこか安心し、かやは眉を下げて笑った。
「ありがとう、蘭ちゃん」
彼女の手はもうあの頃と違って小さくない。優しい、温もりのある手がかやの手を掴んで歩く。
かやもその手を出来るだけ優しく握り返した。
透君、約束したよね。
先に行ったりしないって。置いて行ったりしないって。
信じてるから。
だから、だから、どうか…無事でいて
35
「なんかすごい久しぶりだね」
ポアロでばったり新一と会った。本当にすごい久しぶりだ。戻ってきていることはニュースや新聞での活躍で知っていたが、本人にはなかなか会えずにいた。学校にも少し前から通えているらしい。
「コナン君から元気にしてるとは聞いてたけど、さすがに心配したよ」
「俺もいろいろ聞いてたよ。相変わらず無茶してたそうじゃねーか」
「聞こえない聞こえない」
新一はコナンとたまに連絡を取っているそうで、家族とロスで元気に暮らしているのだそうだ。
「それよりこれから蘭ちゃんとデートなんでしょ?こんなところで油売ってていいの?」
「何か用事を済ませてくるとかでここで待ってるよう言われたんだよ」
「どこ行くの」
「まさか、ついてくる気じゃねぇだろうな」
「バレたか」
「ただでさえ園子が張り込んだりしてんだから勘弁してくれ」
「あはは、園子ちゃんらしい」
「…あ、のさ」
喉を潤すようにコーヒーを一口飲み、ジッとかやを見つめる。側から見れば告白でも始まるかのような雰囲気だが、かやはこの顔を知っている。きっと、新一の口からは言いづらいことをかやに聞きたいのだ。そう、例えばエッチな話とか…
「おい、今思ってることぜってぇ、ちげーからな」
「え?違うの?てっきり蘭ちゃんと…」
「まぁ、それはおいおい聞くとして」
「やっぱり聞きたいんじゃない」
「そりゃあ、まぁいずれは…って!違う違う!話をはぐらかすなっつーの!」
はぐらかした覚えはないんだけどな、とかやは苦笑いする。
「かやはさ…その、会いたくねーの?」
「新一君…」
「その…なんていうかさ…やっぱり…」
「その呼び方…」
「へ?」
「今、かやって…」
「あー…なんかこっちの方がしっくりくるっていうか…。って違ぇ!そうじゃなくて…」
「新一ごめーん!お待たせ!」
「ほらほら!蘭ちゃん来たよ!デートしておいで!」
どこか照れて、中々蘭の所に行かない新一の背中を押して無理やり店から追い出す。お互いぎこちなく照れ臭そうに手を繋いで歩いていく二人に頬を緩める。
「かやさん、少しやつれました?」
「え、そうかな?」
「ちゃんと食べてます?」
「食べてる食べてる。心配しないで」
「なら、いいんですけど…」
陽の光が入る店内を見渡す。どこを見ても彼がいる筈はないのだが、カウンターからはあの優しい瞳の色と目が合い、客席に目を向ければ注文を取っている彼の後ろ姿が見えた。外ではホウキを持って掃除している姿が目に浮かぶ。こんなにも自分は知らずの内に見ていたのだ。一体いつから惚れていたのだと呆れたように笑い、寂しさが混ざった溜息を鼻から出す。
カラン、カランと音を立てて開いたドアに我に帰る。入ってきた客を見てかやのテンションは上がる。
「キャメル先生!お久しぶりですね」
「はい。あの…実は、先程工藤君に会いまして、あなたのことを聞いたらここにいると教えてくださって…」
「あっ、私に何か用事ですか?」
「明日の夜アメリカに帰るんです」
「え?そんなっ!まだ焼酎や泡盛、一緒に飲んでないのに。戻って来たりは…」
「大きな仕事が片付いたので、たぶん日本には戻らないかと、思います」
それにかやは寂しそうに目尻を下げる。どんどんここ米花町から人が居なくなっている気がする。
「そうなんですね。寂しくなります。また日本にいらした時はぜひ…」
「あなたに!ついて来てほしくて!」
キャメルはかやに一歩近づき、声を張る。かやは驚いて目を丸くする。そこまで意気込むということは、一人では行きにくい場所なのだろうか。
「えっと…どこに、ですか?」
「アメリカ…にです」
「ア、アメリカ⁉」
てっきりここ近辺の話だと思っていたのだが、まさかのアメリカ。どうしてアメリカなのだろう。キャメルはあの時と同じようにかやに花束を渡す。
「け、結婚を前提にお付き合いさせていただきたくて…」
「え、けっ…えぇっ⁉」
言っている意味をようやく理解し、かやは口を開けてしまう。もう一度言われた言葉を頭の中で冷静に繰り返し、徐々に意味を理解する。ぶわっと顔が熱くなる。
「へ、返事は今頂かなくても結構です。明日の昼、あの公園で待ってます。では」
惚けているかやの手に花束を持たせ、キャメルは店を出て行ってしまった。梓が騒ぎ、カウンターから身を乗り出してかやの服を引っ張っている。
「かやさん!いまの!」
「・・・」
「かやさん!息してます⁉」
そこでハッと呼吸を再開する。あまりの衝撃に息をするのを忘れていた。
「いまの、プロポーズでしたよね⁈」
「ぷろ、ぽーず…?」
「大丈夫ですかっ、理解してます⁈」
「して、る。してる」
「かやさん!しっかりしてー!」
どうやって、帰ってきたのだろう。覚束無い足取りで家へと戻り、部屋の中央にぺたん、と座り込む。
けっこんって、あの結婚?それを前提にお付き合いするってことを言われたんだよね、とかやはもらった花束を見つめる。以前もキャメルはかやに花束をくれた。もしかしてあの時からずっと一途に想ってくれていたのだろうか。
「どんだけ鈍いの、私…」
持っている花束の花弁を優しく撫でた。キャメルとは工藤邸で会ったのが初めてで、その後公園を散歩して、先ほどのポアロで会ったのを含めると3回しか会っていない。逆にその短い間で、かやとの結婚を考えてくれたということである。
かやのご飯を美味しそうに食べ、笑うと優しく目尻を下げるのが印象的で可愛いと思った。この花束を渡す時だって、大事そうに抱えていた。壊さないように…。まるで繊細なガラスで出来てるかのように…。
心がとてもきれいな人なのだとかやは思う。
「キャメル先生から頂いたお花、早く生けなきゃ…」
Wその、先生ってなんだW
Wえ?ジョディ先生と同じ職場っていうから英語教師だと思ってたんだけど…W
かやは持っている花束を静かに下ろす。手で顔を覆った。
ひらりと一枚、花弁が畳の上へと落ちた。
酷い女だ。キャメルに貰った花なのに、思い出すのは彼のことばかりだ。
いつのまにか畳の上で寝てしまったらしい。差し込む朝日に目を細める。硬い床で寝たせいか、体のあちこちが痛かった。洗面所の鏡に映った顔は布団でちゃんと寝なかったせいか、酷い顔をしていた。頬についた畳の跡を意味もなく服の袖で拭う。
シャワーを浴びて、濡れた髪を拭きながらギターの弦を爪弾く。
ポーンッと部屋に寂しく響いた。
時間を見てかやは悲しそうに目を伏せた。
ふらふらと立ち上がり、約束したあの噴水の公園を目指したーー…。
その日から一年が経った。
かやは今アメリカに来ている。ベンチでのんびりホットドックを頬張り、チラッと腕時計を確認する。待ち合わせの時間が迫っていることに気づき慌てて口の中に放り込む。ゆっくりしている場合ではなかった。
「かや」
クラクションを鳴らされ呼ばれた方に体を向ける。赤い車にかやの顔は綻ぶ。
「赤井さん!」
「ようやく覚えたな」
「すみません。名前何度も間違えて」
「それよりもこれから打ち合わせだろう。途中まで送ろう」
「ありがとうございます」
赤い彗星の如く現れたその車に乗り込み、かやはシートベルトを装着する。流れる景色にかやは目を細めた。
「今日が打ち合わせって知ってたんですか?」
「キャメルから聞いてたしな。式の準備は順調か?」
赤井の言葉にかやは苦笑いする。何も言わないかやに赤井は呆れたように溜息を吐いた。
「相変わらずだな、君は…」
「仕事が立て込んでて…でもなんとか間に合わせます」
「楽しみにしているよ」
「赤井さんのアコーディオンも楽しみにしてます」
「一度日本に帰ると聞いたが?」
「はい、今夜帰ります」
「寂しくなるな」
「あはは。赤井さん、そう思うなら寂しそうな顔をしてください」
可笑しそうに笑うかやを赤井は小さく口角を上げ、横目でかやを見る。
「君の幸せを祈ってるよ」
突然の言葉に首を傾げる。しかしかやはすぐに笑って応えた。
「ありがとうございます。私も赤井さんの幸せ祈ってますよ?」
あまり理解していないかやに赤井は鼻で笑った。
□□□
「今日だろ?かやが帰ってくるの」
「うん!久々にかやちゃんに会えるから楽しみ」
「最近はずっと向こうだもんな。写真が届いたんだって?」
「うん、これ見て」
「おっと、わりぃ、目暮警部から電話だ」
「まーた事件?」
「まぁ、まぁ」
ジト目で睨む蘭にすまん、と手で謝る仕草をして電話に出れば、新一の顔が徐々に曇っていく。声を荒げる彼に蘭もただ事でない何かを悟る。
電話を切り、切羽詰まった顔の彼が慌てて店を出ようとする。蘭は新一の腕を掴み何があったのか問いただす。新一は蘭の不安そうな表情を見て顔を渋らせた。教えて!と掴んだ腕をもう一度強く握る。
「かやがっ…」
「えっ…」
「帰りの飛行機でハイジャックに遭って…」
蘭は持っていた写真を落とす。ひらりと、笑顔で写る彼女の写真がテーブルの上に落ちた。
どくどくと流れる血。どうしてこうなったんだっけ、と霞む視界の中でぼんやり機内の天井を見つめる。ほんの数時間前まではあんなに笑ってたのにな。
確か、ハイジャックに遭って…。
あぁ、そうだ。女、の人が撃たれそうだったから…
危ないと思っ、て…
暗くなっていく視界に言いようのない恐怖が襲い掛かってくる。このままずっと暗かったらどうしよう、と迫りくる死がすごく怖かった。
すごく、寒い。
やだ、怖い。誰か、誰かっ。怖いよっ。やだ、やだよっ!
だめっ、だん、だん…
くら…く…
『かや』
だれ、かが…呼んでる
『かや、ここに来るのはまだ早いんじゃないかな』
だ、れ…?
『ずっと迎えに行けなくてごめん。ゼロのこと、よろしく頼むよ。あいつ変なところで意地っ張りだからさ』
ひろ…なの?
『かやが傍にいてあげて』
ヒロっ!まって!まって、行かないで!
「愛してる」
誰かに、そう言われた気がした。
繋がれた管。心音を知らせる電子音。喉が酷く乾いている。口につけられている酸素マスクが苦しかった。点滴をしている腕も痛い。この全ての不快感が生きてることを教えてくれた。
重くて動かない体の変わりに目をゆっくり動かす。
「透…くん…?」
久方ぶりに見る彼はまん丸に目を見開いてかやを見下ろしていた。
驚いた顔のまま動かない彼に思わず幻覚?と不安になる。死ぬ前に会いたいなんて思ったから都合の良い夢を見ているのかもしれない。
まるで重石がついてるみたいに重い腕を伸ばす。彼はハッと何かに気づいて、ナースコールで医師を呼んだ後すぐ様立ち去ろうとする。必死に手を伸ばして、声を絞り出す。しかし掠れた声しか出ず上手く言葉が出なかった。
「いか…ないで…透…くん…いかないで…」
懇願するように何度も何度も呟いた。背を向けたままドアの前で立ち止まった彼は、踵を返し渋顔で戻ってきた。
伸ばした手を温もりのある手が包み込む。そこで初めて現実なのだと分かった。
涙が溢れ出てくる。会えた、やっと会えた。会いたかった。会いたかったよ。
「ば、か」
「…っ…」
「何か、言ってよ」
「結婚…したんだってな…おめでとう」
久々に会って瀕死だった人間に言う言葉がそれ?しかも何の話?
「だれ、が?」
「君が…」
「わた、し?まだ、だれとも…けっこんするよてい、ないけど…」
「は?」
「え?」
「如月さん!目が覚めたんですね」
入ってきた看護師に話は中断される。すぐに医師も駆けつけ、診察されている間、どこにも行かないようにずっとスーツの袖を掴んでいた。
酸素マスクを外してもらい、だいぶ呼吸が楽になる。まだ安静にと告げたあと医師は病室から出て行く。看護師もベッドの背もたれを少し上げてくれたあと病室を後にした。二人きりの空間。微妙な空気は流れたままだ。
「えと…だれが、なんだって?」
腕を組んで顔を背けたままの彼にそう尋ねる。すると言い淀んでいた彼はようやく口を開いた。
「何の、ために…アメリカに?」
「キャメル…さんが、けっこんしきのサプライズで…おくさんに曲をプレゼントしたいっていうから、ギターのれんしゅうもかねて、それで…」
これ、今目覚めた人間にさせる話?と些か疑問に思いながらもかやは話を続ける。
「だって、君…彼にプロポーズされたんだろ?」
それにかやは首を傾げる。しかし一年前のことをすぐに思い出し、頷きながら応える。
「あー、あったね…そういえば。なんでしってるの」
「は?」
は?って言われた。なんなのこの人。勝手に消えて、勝手に現れて言いたいことばっかり。
「よくじつにきちんとおことわりしたよ。すきな、ひとがいるから…って」
それでその一年後には美人の奥さんをゲットしたのだ。知らせを受けたときはすごく嬉しくて、お陰で自分がプロポーズされていた過去なんてすっかり忘れてしまっていた。いや、大切な思い出だけども。
「・・・」
好きな人がいると言ったのにスルーしたままの彼に、かやは眉尻を上げる。
「っていうか、あなた…ほかに何かわたしに言うことあるんじゃないの?」
「・・・・」
「ずっとれんらく、まってたんだけど?」
「…すまない」
「けっこう、きずついた」
「悪かった」
「うそ…げんきそうであんしん…した」
「…っ…」
「いきてて、よかった」
Wいきてて、よかったW
自分が死にそうだったくせに降谷の心配を口にしたかや。降谷は触れそうになる手を、強く握りしめる。だから目が覚める前に立ち去りたかったのだ。歯止めが効かなくなる前に。いや、歯止めなんて当の昔に効いてない。
もう彼女に本当のことを言おう、と少し間を置くように短く息を吐き出した。
「僕は…とある大きな組織を追っていて潜入捜査で探偵として君たちに近づいた、公安警察だ」
警察、と聞いてかやは驚いた顔をする。
「ヒロもそうだった…?」
その言葉にきゅっと拳を握る。本当にこういうところだけは妙に察しがいい。
「あぁ、潜入先で、命を落とした」
そう、伝えれば静かに「そう…」とかやはベッドのシーツを握りしめる。
近づいたと、君を騙していたんだと、そう告白したのに特に気にする素振りも見せず平然と景光の事を気にかけている彼女に相変わらずだな、と降谷は寂しげに小さく笑う。
「もう、すべておわったの?」
「あぁ、まだ細かいことは残っているがこの一年でだいぶ片がついた…」
「もう、W降谷零Wくん?」
「え?あぁ、そうだな。もう安室透ではなくなった」
かやはスーツの袖をちょんちょんっと軽く下に引っ張った。降谷はかやを不思議そうに見る。
「どうし…」
「おかえり」
優しく目尻を下げて、ぎこちない笑顔が降谷を見る。ずっと昏睡状態だったのだ。当たり前だ。まだ呂律だってうまく回ってないのに、その口はゆっくり降谷に告げる。
「おかえり、零くん」
たまらず降谷はかやの顎に手を添えキスをしそうになる。直前で思い留まり行き場をなくしたそれは額に辿り着く。チュッと軽いリップ音。
「ただいま」
ただいま、かやと彼女に何度も何度も呟いて、優しく抱きしめたーー…
□□□
工藤新一からキャメル捜査官がかやにプロポーズしたとメールが来た。いつでも力になると連絡先を交換したはいいが最初に送られてきたメールがこれだった。ますますFBIという存在が嫌いになった。
FBIとの合同捜査でキャメルが来月結婚すると聞き、さらにかやが渡米するとなれば彼のプロポーズを受けたと勘違いもする。
彼女が結婚するとわかった途端、心にぽっかりと穴が空いたようで何も手がつかなかった。彼女を放置しておいてこんなことを言う資格はないのだが、心のどこかで景光と同じようにずっと待っていてくれるのではと勝手に思い込んでいたのだ。なんて浅はかで自分勝手。あぁ、そうだよ。僕は本来我儘なんだ、と誰にするわけでもない言い訳を心の中でする。それで彼女の幸せを心から祝福することが出来ないなんて本当どうかしている。
そんな荒んだ気持ちの中、とある空港を爆破するとテロ予告があった。急いでその空港へと向かう。爆発は未然に防ぐことが出来たが別件でのハイジャックに頭を抱える。そして搭乗者リストに如月かやの名を見て愕然とする。
風見から彼女が撃たれたと聞き、飛行機から担架で運ばれてきた血塗れの彼女に血の気が引いた。
彼女が婚約している身など一切構わず昏睡状態で眠るかやに死ぬな、死ぬな、死なないでくれと何度も心の中で叫んだ。愛してるんだ。
「愛してる」
そう、口に出すとかやの瞼はぴくりと動く。久方ぶりに見る彼女の黒い瞳が降谷を捉える。
懇願するかやの悲痛な声に耐え切れず、結局彼女のもとへ戻ってきてしまった。
婚約すらしていなかった彼女。随分な思い違いをしていたようだ。公安のゼロの名が聞いて呆れる。それほど彼女のこととなると余裕がなくなってしまう。
抱きしめた体を傷口に触れないようゆっくり離す。怒った顔のかやが頬を膨らませ降谷を見上げた。
そして思い出す。アイドルの胸倉を掴んだ時も、犯人を素手で殴った時も、男にビールをぶっかけた時もそうだった。
彼女は意外と手が出るのが早い。
握った拳。振るうそれに甘んじて受け入れようと降谷は目を閉じる。ペチッと力のない拳が降谷の胸板に当たる。うっ、と声を上げたのはかやだった。撃たれた腹の痛みに悶えている。当たり前だった。彼女は起きたばかりで、人を殴る力すら今はないのだ。
「おいっ、無理するな」
「するよ!ばかっ」
またバカと言われた。あまり人生で言われたことのない言葉だ。
「キスしといてほうちはない」
「君に好きな人がいると…」
「それ、いまひろう?わたしもひとのこと言えないけど零君もたいがいだよね。よく探偵を名乗ってこれたものだよ。小五郎さんに恋の助力でも乞うてきたら?」
だんだん喋り慣れてきたのか呂律が回り始めてくる。トゲのある言い方にこれは…、と降谷は顔に冷や汗を掻く。
「私から言ってもいいけど、ぜってー言ってやんない!バーカ!」
相当、怒っている…。
「その、好きな男にその気がなかったらどうす…」
ギンッと吊り上がった目に地雷を踏んだのだとわかった。
「今後の人生!彼しか考えられないから!向こうにその気がなくてもお婆ちゃんになるまで待つつもり!」
寝る!!っと勢いよく布団を被った彼女は傷口に響いたのか悶絶していた。その姿に降谷の目は点になる。
「また来て!」
布団を被ったまま言う彼女に降谷はわかったよ、と声を抑えて笑った。
なかなか仕事が抜けられず、2週間経ってようやく時間が出来た。しかし面会時間はとっくに過ぎておりひと目でもいいからと夜、病院に忍び込み彼女の病室へと訪れる。しかしベッドはもぬけの殻で降谷は顎に手を当て思案する。そういえば今夜は星がとくに綺麗だったな、と彼女のせいですっかり空を見る癖がついてしまった。
屋上へ足を踏み入れる。案の定、かやはベンチに座って星空を眺めていた。
人影に気づいて肩をビクつかせた彼女だったが降谷だとわかると一旦嬉しそうに顔を綻ばせる。が、すぐ様思い出したのか慌てて怒った顔に戻す。まだ怒っているのか。しかも一瞬忘れてただろ、と胸の内で突っ込む。
かやの前に蹲み、座っている彼女の顔を下から覗き込む。無理やり目を合わそうとするがぷいっと顔を背けられる。
「どうすれば君の機嫌が直る?」
小首を傾げ、彼女に尋ねる。そっぽを向いていた彼女はチラッと横目で降谷を見た。
「…なにか面白い話をして」
「は?面白い話?」
「うん」
開口一番に発した言葉に降谷は困ったように目を動かす。何かあっただろうかと顎に手を当て、口角を上げた。
「モノレールの走行路を車で走ったよ」
「へ?」
「運悪く目の前から走ってきたモノレールを片輪走行で爆走して回避した」
「うそ、でしょ?RX–7で?」
「どうかな?」
冗談なのかそうでないのか否定しないまま、したり顔でかやを見る。ようやく目が合うと彼女はぷっ、と吹き出した。
「あははっ、どうしたらそういう状況になるの?お、お腹痛いんだから笑わせないでっ」
「君が面白い話をしろと言ったんだろ」
「ペーパーに愛車を任せるなんて鉄道路線に車を走らせる気分って言ってたのに」
ケタケタ笑う彼女にいつのことかと記憶を巡らせる。あぁ、あの朝焼けを見に行く時に気を使って運転すると言った彼女に降谷が返したセリフだと思い出した。
「懐かしいな」
「もう、ペーパーじゃないけどね。友達の美和子が色違いだけど零君と同じ車でね。たまに運転させてくれるんだ。この一年で大分上達したよ」
「ほー、それは楽しみだな」
機嫌が直った彼女は一頻り笑った後、はー、と長く息を吐き出す。長いまつ毛が下を向き、瞳が揺れたのがわかった。
「来てくれてありがとう」
「来てと言われたから仕方なくだ」
「相変わらずのツンデレ」
ツンデレ?とこれまた人生で初めて言われた言葉に降谷は首を傾げる。
「あ、そうだ。スケッチブックがないんだけど…」
ピクッと降谷の髪が揺れ動く。
「どこにあるか知ってる?」
「さぁ、わからないな」
「ふーん」
含みのある言い方。これは降谷が持っていると勘付いているのだろう。こればっかりはしらばっくれるしかない。自分の顔が描かれているのにそのままにしておくわけにもいかず、かといってその部分だけを切り取るのも不自然。致し方なく持ってきてしまったとは言えない。
「私の人生で絶対に失いたくないものがあるんだけど、何かわかる?」
「失いたくないもの?それがそのスケッチブック?」
参ったな、そんな大切なものだったのか、と降谷は大切に保管してあるそれをどう返そうか考えあぐねていると彼女はふるふると首を横にふる。
「ううん。スケッチブックは最後のページを見られたら社会的に死ぬかなって思ってるけど…失いたくないものじゃない」
僕の寝顔を描いたのがそこまで恥ずかしいのかと突っ込みたい衝動を抑える。
「なら、どんなもの?」
彼女は指先を擦り合わせ、緊張しているのか、間を置くようにふぅと短く息を吐き出した。
「ヒロに書いてもらった歌詞と…」
揺れていた瞳は輝く夜空を見上げる。
「ヒロからもらったギターに時計…」
遠い空に呟くように言葉を綴る。
「あと…」
かやは顔を綻ばせたあと降谷を見た。
「きみ」
少し照れ臭そうに笑って告げた彼女に降谷は顔を手で覆い、頭を垂れる。あぁ、彼女にはどうしても敵わない。いつだって降谷の心を優しく抱くのだ。前髪をくしゃりと触り、ハハッと力が抜けたように笑った。
「あぁー…参ったな、僕の負けだよ」
わかってるよ。君の好きな人が誰だか、本当はわかってるんだ。あのスケッチブックを見て、本当に?夢じゃないんだよな?と何度も己に問うた。
途端に怖くなる。公安のゼロでいる限り危険は伴うし、もしかしたらまたどこかへ潜入することだってあるかもしれない。君が危険な目に遭っても立場上、直ぐに助けに行けるかどうかさえわからなかった。逆に自分が傍にいるせいで最悪君を失ってしまうかもしれない。だからロスから帰った彼女に会いに行けなかったし、連絡も出来なかった。
だが、自分が傍にいなくても彼女は事件に巻き込まれ、撃たれた。僕の知らないところで君を失うところだった。大切な人をまた目の前で失うところだったのだ。
彼女にここまで言わせて、何を躊躇していたのだろう。
何をぐだぐだ悩んでいたのだろう。
そんなこともうどうでもいい。
僕が君を全てのものから守ればいいだけの話だった。
降谷は立ち上がりかやの頬を両手で挟む。コツンと彼女の額に自分のそれを重ね合わせた。額に、瞼に、頬に。唇を落としていく。くすぐったいのか、恥ずかしいのか下を向く彼女の顔を上に、上にと互いの鼻先を当てがい上へ向けさせる。星空が映った黒い瞳が降谷を捉える。
ヒロ、ヒロ…
迎えに来るのが遅くなってしまってごめん。
もう独りになんてさせないから。
ずっと傍にいると誓うから。
彼女を、僕にください。
「愛してる。愛してるよかや」
耳元に唇を持っていき、
キスをするように、
心に触れるように、
優しく囁いた。
それはまるで星灯で奏でるアルペジオのように…
「僕と、結婚してくれないか」
かやは大粒の涙を流す。ぎゅっと降谷の首に抱きついた。耳元で彼女が小さく息を吸ったのがわかった。
「はい」
静かに重なる唇。互いの温もりを確かめ合うように抱きしめ合う。言葉を交わすように何度も、何度も唇を重ね合わせた。
フッと力が抜けたように彼女が笑う。同じ笑顔で降谷も笑った。
「一緒に帰ろう」
かやは頷く。絡めた手が互いを引き寄せる。見つめ合い、また深く深く唇を重ね合わせたーー…
新一は蘭を迎えにポアロを横切る。ガラス張りから見えた店内には梓と楽しそうに話をしているかやの姿。コーヒーカップを持つ左手薬指にきらりと光る指輪を見て新一は優しく目を細めた。
「新一?何見てるの?」
階段を降りてきた蘭はポアロを見て微笑んでいる新一に首を傾げる。視線の先を辿り、理由が分かると新一と同じようにかやの指輪を見て蘭も嬉しそうに微笑んだ。
新一は蘭の手を握り、照れる彼女を愛おしそうに見てから二人で歩き出した。
「かやちゃん、幸せそうだったね」
「まさか本当に結婚しちまうとはなぁ」
「交際期間ゼロ日って本当かなぁ?」
「かやだからな、ありえそう」
確かに、と二人で見合ってクスクスと笑った。
コーヒーを飲みながら資料を確認する上司の左手薬指を風見はジッと眺める。視線に気づいた彼は風見を薄めで睨んだ。
「なんだ」
「いえ、指輪をするのは意外だと思いまして」
「・・・・」
「失礼しました。プライベートなことを」
ギロリと睨まれた為、謝罪を口にする。しかし次にはポカンと口を開ける羽目になる。
持っていた資料で顔半分を覆い、目だけしか見えないが、少し照れているのがわかった。
「あなたにもそんな人間らしいところがあるんですね」
「うるさい」
そんな上司に風見は嬉しそうに笑ったーー…
end
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