怪我した安室さんを手当てする

28


ハロは帰ってきた主人の足音が聞こえ、尻尾を振りながら玄関の前で座って待ち構える。

しかし苦手な刺激臭と血の臭いに振っていた尻尾を徐々に降ろす。ゆっくり開かれるドア。倒れるようにして入って来た主人にハロは吠える。しかし彼は反応を示さない。脱いだ靴が挟まり、ドアがわずかに開いていた。彼が手に持っている鍵を咥え、ハロは体をねじ込ませてその隙間から外に出る。反動で靴は外れパタン、とドアが静かに閉まる。



風見は今降谷のアパートに来ている。

電話をしても繋がらず呼び鈴を鳴らしても誰も出なかった。念のためドアノブを回してみる。開いてしまったドアに風見は嫌な予感が頭を過ぎり慌てて中に入る。

いつもいる白い犬はおらず、靴は乱雑に脱がれていた。シンッ…と静まり返る部屋。後ろ手で鍵を閉め、音を立てずに寝室へ向かうと上半身裸でベッドにダラリと横たわる降谷の姿が。肩から腹に掛けて巻かれている包帯が痛々しかった。熱で呼吸は浅く、脈も少し早いが、病院に連れて行く程では無かった。

自分が来たことにも気づかず、気を失ったように眠っていた。警戒心が強い彼からは想像できなかった。

テロ集団の一味を追い詰めたはいいが、犯人が最後に仕掛けた爆弾が爆発し、一番近くにいた彼が部下を守った際に負った傷だった。病院では必要な治療だけ受けた彼だが入院もせずあとは自分で治療が出来るからと自宅へと戻ってしまった。

案の定様子を見に来て良かった。

だからといって包帯は変えたばかりのようだしあまりやれることは少ない。飯でも作っておけば普段褒めない彼も喜ぶだろうか。しかしゼリー飲料を買ってきたしな、と考えあぐねていると玄関の外が騒がしいことに気づく。女性の声が聞こえる。ガチャリと回る鍵に風見は咄嗟に寝室の隅へと身を隠す。

透君!と言いながら女性が降谷に駆け寄る。透という名を言うからには彼女は安室透の知り合いなのだろう。

たまたま彼女の死角に隠れられたが、後ろを振り向かれたら完全に終わりである。汗が頬を伝う。すると気絶していた降谷の目が薄く開かれ、風見と目が合う。瞬時に状況を理解した彼は彼女の後頭部に手を添え己の胸板に押し付けた。騒ぐ彼女を他所に降谷は顎でクイッと玄関の方向を示す。行けと目で言っている。

軽く会釈し、玄関に向かう風見に向かってハロが吠える。シーッと口元に人差し指を立てる。彼女にバレないかヒヤヒヤしたが、未だ降谷が彼女を押さえていてくれた。急いでその場を立ち去る。

瞬間的に見えた上司の優しい眼差し。彼女を見るその目に風見は貴重なものを見てしまったとそっと胸に仕舞い込んだ。




かやは出先から戻るとハロが家の前で座って待っていた。

「えっ⁉ハロ、どうしたの?透君は?」

ハロは何やら口に咥えており、それをかやの足元に置いた。

「家の鍵?」

かやがそれを拾い上げるとハロはかやのコートの裾を口で引っ張る。まるでこちらに来いと言うように。

「ハロっ!待って!いったいどうしたの?」

安室の部屋の前まで来ると早く開けろと言うように目一杯吠えた。これは安室に何かあったのかもしれないとかやは慌てて鍵穴に鍵を差し込んだ。

「透君、いるの?」

そろり、と中を覗くように部屋に入るとツンと鼻を刺激する消毒液の臭い。ハロがこちらだというようにご主人の元へ一目散に走っていく。かやもその後を追った。

ダラリとベッドに横たわる傷だらけの安室にかやは口を手で覆う。

「透君!」

首筋に手を当て、熱と脈を測る。肩から腹にかけての包帯を見て、唇をきつく結んだ。ひどい怪我だ。熱も結構高い。顔も擦り傷だらけである。包帯はまだ新しいようだが、抗生物質や痛み止めは飲んだのだろうか。

すると安室の目が薄く開き、痛みがあるのか眉を寄せ、身を捩る。虚な瞳が視界を廻り最後にかやを捉える。

「透君!目が覚め…わっ!」

起きたと思ったら安室の手が伸びてきて顔を胸板へと押しつけられた。

「ちょっ、ちょっと」

本当に怪我をしているんだろうか。強い力に抵抗出来ない。ハロがどこか遠くで吠えている。

「な、んで…ここに…?」

酷く掠れた声で安室はそう口にする。やっと手の力が緩み、かやは安室の手から抜け出す。

「ハロが連れてきてくれたんだよ。ご主人がこんな状態だったからすごく心配したんだと思う」

「そう…か…」

「お水飲む?」

「いや、いい…」

「薬は?」

「昼、飲んだきり…」

腕時計を確認してそろそろ飲んでも良さそうだった。

「お粥食べれそう?」

コクリと頷く彼にかやは小さく笑って頷いた。

「待ってて、今作るから」

「セロリ…入れてくれ」

「はいはい」

えっ、セロリ?と思いつつもかやは立ち上がる。しかしぎゅっと手首を掴まれ揺れている瞳と目が合う。

「透君?」

まるで置いてかれる小さな子供のような目をしている安室にかやは苦笑いする。

「甘えん坊さん、これじゃご飯が作れないでしょ?」

その言葉で我に返ったのか、パッと手を離し今度は拗ねたように睨まれた。そんな顔で睨まれても怖くない、とかやは笑った。

コートを脱ぎ、エプロンを着ける。【セロリ、粥の作り方】で検索したら結構レシピが出てきた。あるんだ、なんて思いながら勝手に食材をお借りしてレシピを参考に粥を作る。ベランダから目当てのセロリも少し頂いた。細かく刻んで一緒に入れる。

ちらりと安室が寝ている部屋を見る。あんな怪我を誰にも何も言わずに一人でなんとかするつもりだったのだろうか。

ぐつぐつ煮える鍋をぼんやり眺める。

探偵というのは時にはすごく危険な目に合うらしい。コナンだってあれは確か帝丹高校の学園祭の少し前に拳銃で撃たれたのだ。あの時はすごく肝が冷えた。

短く息を吐いて火を止めた。

お盆に乗せベッドまで運ぶ。安室はしんどそうに額に腕を乗せこちらを向いた。

「食べられそう?ゼリー飲料が冷蔵庫に入ってたけど…そっちにする?」

「お粥がいい」

「わかった。でも無理しないでね」

支えながらゆっくり体を抱き起こす。出来たばかりの粥は熱く、レンゲで少量掬い口で吹いて冷ます。安室の口まで持っていくと彼はポカンと口を薄く開いてかやを見た。食べない安室に首を傾げる。

「やっぱり無理そう?」

レンゲを持った手を降ろすと手首を掴まれる。驚いて腕を伝うように彼を見た。かやの手首ごと引っ張り、パクッと粥を口にする。惚けるかやを他所にゆっくり咀嚼してゴクンと飲み込んだ。かやは思わず動く喉仏に目がいってしまう。

「美味い」

「よ、よかった…元気そうで」

決して元気ではない。

そっと離れる手。熱のせいか触れられていたところがじりじりと熱い。

「も、もう少し食べる?」

頷く彼にかやは誤魔化すように小さく微笑んだ。

服用した薬が効いてきたのか皿洗いから戻ると安室はぐっすり眠っていた。静かにベッド脇に腰を下ろしその顔をまじまじと見る。

頬にあるガーゼ、無数にあるかすり傷。

かやは彼の手首を掴みドクンッ、ドクンッと力強く打つ脈に涙が溢れ落ちそうになる。そのまま彼の手を握り締め、頭を垂れた。はぁー…と深く安堵の息を漏らす。

生きている。
ちゃんと、生きてる。

痛いのが飛んでいきますように、少しでも楽になりますように、そう願いを込めて何度も何度も胸の内で呟いた。

「んっ…」

少し眉を寄せて身を捩る彼に慌てて触れていた手を離す。起きることはなく、ぐっすり寝ている彼に何をしているんだと触れていた手を隠すようにもう片方の手で覆う。

本当に、何をしているんだろうーー…




「…うっ…」

微かな痛みを覚え、降谷は目を覚ます。いつの間にか眠ってしまっていた。氷枕なんていつ用意したんだろう。そういえばかやが来ていた気がする。夢だったのだろうかと暗い部屋を見渡す。

「…っ…」

ぱさり、と額に乗せてあった濡れタオルが落ちた。ベッドの脇で突っ伏して寝ている彼女に目を開く。薬のせいとはいえ人がこんなに近くに居たというのに反応出来なかった。それほど深い眠りに就いていたということなのだろうか。

幸せそうな彼女の寝顔に毒気を抜かれ、フッと零れるように笑う。

「かや」

愛おしそうにその名を呼ぶ。起きる気配がないのをいい事に差し込むようにして手を入れ頭を撫でる。指先に髪を絡め、その綺麗な黒髪を指で掬う。頬に触れるように髪を耳に掛け、顎を軽く持ち上げる。ぽてっとした下唇。親指で軽く押す様にして触れればふにっと柔らかい感触。ジッとそこを見つめ、そのまま唇の形をなぞるようにして弧を描く。


好きだ


もうどうしようもなかった。景光を想うことで気持ちに歯止めを効かせていたが、それも無理そうだ。

自分が彼女を幸せに出来るわけがないのに。増してや今は潜入中の身。やらなければならない使命もある。そんな中で色恋沙汰に時間を割く暇はなく、彼女とどうこうなるなんてさらさら望んでいない。この気持ちを伝えるつもりなどないのだ。なのに、どうしてだろう…

W零くんは、生きてねW

爆発に巻き込まれる刹那に聞こえてきた彼女の声。前後の記憶が飛ぶが、目が覚め命があるとわかったとき、一番に会いたいと思ったのはかやだった。だから入院せず、ここに戻ってきた。

「ん、ヒロ」

その寝言に手を離す。何を頓珍漢なことを考えていたのだろうと自嘲気味に笑う。あぁ、そうだ。彼女の心には景光がいる。それはきっと永遠に。

自分だってそうだ。親友の景光が記憶から、心から消えることは一生ない。今も大事な親友は彼だ。

矛盾している気持ちは心を苦しめた。下唇を強く噛み、この不可解な感情に煩わしささえ感じる。

「ふふっ…ゼロも一緒だね」

その寝言に目を開く。一気に力が抜ける。たった一言。その一言でこんなにも彼女に気持ちを左右されるなんて。

「いったい…どんな夢を見てるんだよ」

痛む体を起こし、彼女の体を抱き寄せた。





□□□

朝日が差し込んできた所でかやは目を覚ます。すごく暖かい。え、暖かい?あれっ、と思い体を捩る。次にはぎょっとした。安室の顔が近くにあることに…。

なっ、んで!

そう声を上げそうになるのを抑える。
昨夜はベッドの脇で安室の様子を見ていたはず。寝てしまったにしても潜り込んだ記憶はない。もしかして寒くて無意識に安室で暖を取ってしまったのだろうか。怪我人で暖を取るって終わってないか?もぞもぞと安室を起こさないようにベッドから起き上がると手首を掴まれた。

「えっ?」

慌てて安室を見る。パッチリ開いてる目と目が合った。

「お、おき、おき、おっ…」

「おはよう」

パクパクと鯉のように口を動かして安室を指差す。恥ずかしくて声が出ない。

「まったく、看病してる怪我人のベッドで寝るなんてな」

穴があったら入りたい。顔が真っ赤なのが自分でもわかる。顔が熱い。何も言えず安室を申し訳なさそうに見つめていると彼の手が伸び、かやの顔を隠すようにガバッと手の平で覆われる。

「ぶっ…えっ、な、なん…?」

「・・・」

戸惑うかやを他所に安室は手を離し黙って起き上がる。起き上がれる安室にかやは驚いた。

「もう起き上がれるの?大丈夫?」

「あぁ、薬が効いてる。君のお陰だ。ありがとう」

「大したことはしてないけどね。朝ごはん食べられる?」

「あぁ」

「じゃあ作ってくるよ。顔色も良さそうだし、うどんとかにしてみる?」

「いいのか?」

「うん。あとそろそろ服、着てほしいな」

「・・・・」

台所に向かった彼女を横目に安室は仕方なくシャツを羽織る。ハロが心配そうに安室の足元に擦り寄る。抱き上げ頭を撫でてやれば安心したように尻尾をゆさゆさと振る。

「すまなかったな、ハロ」

彼女を連れてきてくれてありがとう、と小さく耳元で囁くとハロは嬉しそうに尻尾を振った。



出来上がったうどんを二人分。そしてハロの朝食も忘れずに二人で手を合わせていただきます、と食べ始める。

「帰らなかったのか?」

「熱もあって心配だったし…。それにハロがね…」

困ったようにハロの方を向いて、かやは言葉を続ける。

「玄関の前に座って動かなかったんだよね」

まるでかやが帰るのを阻止するように。散歩に連れて行こうとした際も唸ってそこから動かなかった。

「・・・」

「だいぶ心配したんだろうね」

「…悪い」

「私も熱出した時蘭ちゃんに看病してもらって助かったの。お互い様だよ」

「聞かないのか?」

「え?」

「この怪我のこと」

「聞いたら教えてくれるの?」

黙ってしまった安室にかやはほらね、と胸の内で苦笑いする。

「コナン君や、服部君も、時々事件に巻き込まれてこんな大怪我をしてくるんだよね」

「…っ…」

「ここまでくると流石に入院するけどね」

少し怒った口調で言ってみる。ちらりと安室を覗き込めば彼は観念したように肩を上げる。

「わかったよ。次からはちゃんと病院で診てもらう」

「ご飯食べ終わったら傷の手当て、手伝わせてくれる?」

「…あぁ、頼むよ」

素直な安室にかやは満足したように微笑む。



食べ終わった食器を片し、包帯を取り替えると言えば彼女は席を立つ。

「熱い濡れタオル持ってくる。体も拭くよね?」

「…悪いな」

湯が入ったボールとタオルを持ってかやは安室の隣に腰掛ける。包帯を取り払い、拭きずらい背中はかやが拭いていく。慣れた手つきに安室は思う。

「やったことあるのか?」

「え?あ、まぁばあちゃんのときにちょっとね。流石に傷の手当てとかは出来ないけど」

体が拭き終わるとかやはタオルと熱湯が入ったボールを片しに一旦その場を離れる。その間に安室は肩とお腹に貼ってあるガーゼを剥がした。

「…っ…」

感じる痛みに顔を歪ませる。消毒をし軟膏を着ける。新しいガーゼを押し当て、サージカルテープに手を伸ばした所でかやの手がそれを掴んだ。

「手伝うよ」

そう言って彼女の手が安室の肌に触れる。ピクッと体が思わず小さく跳ねる。

「あっ、ごめん。痛かった?」

「…っ…、大丈夫だ」

先程とは違い、近い距離の彼女。直視出来ずふいっと視線を外す。

「じゃあ包帯を…」

「自分で出来る」

「でも背中とか…」

「自分で出来る」

「そう?じゃあ私はあっちのほうにいるね?」

かやがハロのところに向かったのを横目で確認してから、はぁと短く溜め息を吐く。部下には精彩を欠いてるなどと説教をしておきながらこの様だ。まったく人のこと言えんな、と呆れたように鼻で笑った。

上着を羽織り、ハロと遊んでいる彼女を遠目から見つめる。


かやがいる。
今だけは自分のそばにいる。
もうそれだけでいい。
それだけでいいから、
何も望まないから、
もう少しだけ…彼女のそばに居させてほしい。



ヒロ、ごめん…



29


《今さ、私の親友と飲んでてさ、あんたもどう?》

由美タンこと宮本由美からそんな電話がかかってくる。場所を聞けば割と近くだったのでかやは二つ返事でそこの居酒屋へと向かう。

居酒屋の暖簾を潜ると由美がこちらに向かって手を振っている。ショートカットの女性と一緒だった。

「かや、こっち!」

かやも手を振って席へ近づくと由美は隣に座るショートカットの女性を紹介してくれた。

「私の親友の佐藤美和子」

「はじめまして」

彼女は立ち上がり手を差し出す。かやは笑顔でその手を握った。

「はじめまして如月かやです」

「あなたがかやさんね。噂は予々聞いてるわ」

「かやでいいよ」

「私も美和子って気軽に呼んで」

とりあえず椅子に座り店員にビールを頼む。そういえば、と先程ちらっと聞こえた単語を口にする。

「あの…W噂Wというのは…?」

「えっと、男にビールをぶっかけてとんずらこいたって」

それにズルッとコケる。店員からビールを受け取り、出所を薄目で睨む。

「ちょっと、脚色しすぎじゃない?由美タンよ」

「だーから!その呼び方やめてって。ほぼ事実じゃん」

「さ!乾杯しましょ!かんぱーい!」

ビールのジョッキがぶつかり合う。一気に飲み干し、口についた泡を拭き取る。

「はーっ!」

「美味い!」

「生き返るわぁ!」

オヤジ臭いセリフを三人で吐く。顔を見合わせて笑い合った。




酒はどんどん進んでいき、会話も弾む。年の近い女性と飲むのは久しぶりでつい、酒のペースも早くなってしまう。由美や美和子はもともと酒に強いのだろう。ビールに日本酒、焼酎と見境なしのちゃんぽんにかやは酔いが回り始めていた。

「あはは、それでビールをかけたの?」

合コンの時の話を由美が事細かに説明する。かやは反省するように頭を抱えた。

「つい頭がカッとなっちゃって」

「暴行罪で捕まらなくてよかったわね」

「一緒にいた友達が丸く納めてくれたみたいで」

「友達って…まさか男?」

「うん。そうだよ」

赤い顔で枝豆を一口頬張る。少し目が据わっている由美がずいっと体を詰めた。なぜわかるのだろうと首を傾げると刑事のカンを舐めないでほしいと言われた。

「彼氏?」

「こうなると由美はしつこいわよ」

「えーマジか。彼氏じゃないって、ただの友達」

「怪しい…」

じろりと睨まれ、まるで職質を受けてる気分になる。沖矢と違い、今度は冷静に返せたと悟られないように安堵する。すぐさま話を変えるべく三池から聞いた情報を彼女に振る。

「由美ちゃんだって将棋の彼とはどうなの?」

「なっ、なんでかやがチュウ吉のことを知ってるのよ!」

「チュウ吉と呼んでるのね」

「三池だな!」

「苗ちゃんをあんまり苛めないで」

「私も由美の恋愛話聞きたい」

「あんな男の話はしたくないの!美和子こそ、彼とはもう一夜を共にしたわけ?」

「ちょっ!由美!」

「美和ちゃん付き合ってる人いるんだ!」

茹で蛸のように赤くなっている美和子をかやがキラキラした目で尽かさず突っ込む。

「どんな人?」

「えっと…」

「同じ職場の後輩で、ちょっと頼りない優男」

「な、なんで由美が答えるのよ」

「優しい人?」

そう微笑んで聞くかやに美和子はコクンと小さく照れながら頷く。

「ちょいちょいちょい」

「え?」

「何メモってんのあんた」

手帳を取り出して何やら書いているかやに由美が怪訝そうに聞いてくる。

「あ、ごめん。なんかいいのが浮かんで」

「はい?」

「いいのいいの、こっちの話。付き合ってどれくらいになるの?」

「んーと、まだ半年も経ってない」

「たまのデートの日を捜査一課の男ども総動員で張り込みされてる」

「あはは!なにそれ」

「ちょっと、まだ張り込みされてるの私っ⁉」

「出会いは?出会いはなんなの?」

「あんた、人の話は興味深しげに聞くわりに自分の恋には興味ないわけ?」

「ない」

「いやにはっきり言うのね。結婚願望ないの?」

「ないない。恋愛も興味ないし、結婚もしない」

ズイッと由美が顔を近づける。気迫迫るその顔に思わずゴクリと喉を鳴らす。

「……レズなの?」

カクンッとかやの肩がズレる。

「ちがうちがう。ちがう…と思う、よ?」

「おーい、そこははっきり言わんのかい」

「あはは、冗談だよ。ずっと心に決めている人がいるってだけ」

苦笑いしながらそう答える。酔った頭はいつもより口を割りやすかった。そろそろ話を変えなくては、と別の話題を探す。これ以上話してると余計なことまで口走ってしまいそうだ。

由美がかやに話しかけている最中、美和子はずっとかやの表情を見ていた。

「その人と…恋仲になることはー?」

「うーん…ない、かな」

「どうして?今からそいつここ呼べないかな」

「あはは、もう会えないから無理だよ」

「え?」

ハッとして口を噤む。驚いている二人に気付いて誤魔化すように笑い飛ばした。

「じ、冗談だよ!もうこの話やめよう。自分の話するの苦手」

変な空気になってしまい、しまったと後悔する。いつもなら適当に流して、はぐらかすのに。明るい空気を取り戻そうとかやは今度こそ話を変える。

「仕事の話聞かせて?コナン君と関わること多いんでしょ?」

「かや…」

「かやちょっといい?」

しかし今まで黙っていた美和子が遮り、かやの肩に手を置いた。

「いきなりこんなこと…言われて困ると思うし、お節介だって…思うかもしれないけど…」

深刻な表情で前置きをする美和子にかやはどことなく身構える。

「違ってたらごめんなさい。あなたを見て、その…少し前の自分と重ねちゃって」

少し緊張しているのか間を置くように彼女は短く息を吐き出した。

「実はね、私の…その…前の好きな人…事故に巻き込まれて死んじゃったの」

突如、美和子がそう告げる。え?と顔の力が抜けるようにかやから笑顔が消える。

「あんた、その話…」

「ごめん、急にこんな重たい話…」

由美はわかっているようだった。戸惑った目で美和子を見る。身内にしかしていない話を会ったばかりの自分にするなんて。

優しい手がかやの手を包み込む。

「言いたくなかったらそのままでいいの。その…あなたも大切な誰かを亡くしたんじゃないか、って思って…」

かやの目を真っ直ぐ見つめるその瞳に何も返すことが出来なかった。景光のことが頭を過り、つい目線を逸らしてしまう。それを見て美和子は確信へと変わる。

「私ね、彼が亡くなってから中々前に進むことができなかったの。だってね?その人、すごく呆気なく死んじゃったもんだから…ひょっこりまた現れるんじゃないかって思って…」

そんなはず…ないのにね、と美和子の睫毛は下を向き、寂しそうに揺れた。

「それにまた失うのが怖くて、またこの手からこぼれ落ちるぐらいなら恋愛なんて二度とごめんだわって思ってた。でも…」

包み込む手に力が入る。何かが胸の奥を衝いてくる。

「恐かったけど、今の彼が私の手を取ってくれたから… 。だから今はね、その彼に恋が出来て良かったって思ってる」

彼女が愛する人の死を受け入れ、ここまで来るのにどれぐらいの月日がかかったのだろう。

「どうして…」

それでも今はもう力強い眼差しで前に進んでいる美和子に芯の強さを感じた。

「どうして、また恋をしようと…思ったの?」

気付いたらそう口にしていた。口を開いたかやに少し驚いた美和子だったが、次には寂しげに笑って応えてくれた。

「忘れなくていいって、言ってくれたから…」

その言葉にかやは悲し気に眉を寄せる。景光の笑顔が頭を掠めた。

「亡くなったその人はあなたの中でしか生きられないんだ、って…そう言ってくれたの」

波紋のように広がる言葉はかやの心にも響いていく。

「だからね、かや…その人を想ったままでもいいんだからね」

前に進むことを恐れないで、と優しい声が背中を押す。

そんなことを言われるとは思っておらず、かやは美和子を見つめたまま固まってしまう。

「えっ、かや⁉」

頬に伝う滴はポタポタとテーブルに染みを作る。茫然と目を開けたまま、意識とは関係なしに出てくるそれにかやは止める術がわからずひたすらに涙を流す。

「…っ…」

景光とは恋人同士でもなんでもない。かやの片思いだ。しかしそれでも他の誰かと恋愛なんて考える気が起きないほど、彼の死は受け入れ難いものだった。

皆がかやに言う。恋人は?結婚は?と。しかし景光がこの世にいないと分かった途端、バラバラと何かが崩れてしまった。

もっと前に自分の気持ちを伝えていたら。もっと早くに日本へ帰ってきていたら。そうしたら景光は死なずに済んだのかもしれない。

そんな意味のない後悔をする中で同時にある思いが芽生えてきてしまう。

彼は…大丈夫なのだろうか。辛くはないだろうか。苦しんではないだろうか。

景光のことを考えているのにその人の心配をしている自分に気づき、酷く戸惑った。そしてそれがとても非情に思え、そんな自分が許せず、景光のことだけを想って生きようと誓った。

けど、そう思った時点で違うのだと気づく。

あぁ…そうだったのかとかやは自分の手の平を見つめた。

「かや?」

ヒロ、ヒロ…ごめんね。
私ね、もうずっと前からそうだったんだと思う
彼が独りで苦しんで、辛い日があるんじゃないかと思うと傍に居たくなるの。
元気がないと抱きしめてあげたくなる。
機嫌が悪いとどうしてか理由を知りたくなる。

でもこの気持ちを認めてしまうとあなたが心の中から消えてしまいそうで怖かった。それが一番恐ろしかった。


「わ、たし」


景光を想ったままで、許されるのなら…


「…き…なの…」


透君、私はあなたの傍にいたいーー…


「あんた、今…なんて…」

W好きなのW

衝いで出た言葉は酷く小さく掠れていて、誰の耳にも入ることはなかった。だけどそれで良かったのかもしれない。

W君は嘘でもその言葉を口にするのか?W

安室の怒った顔。本当にね。なんでこんな大切な言葉をあの時あんな簡単に口に出そうとしたんだろうね。

いつから自分は安室に惹かれていたのだろう。もしかしたらあの紅葉の時にはもう、落ちていたのかもしれない。高揚する気持ちとは裏腹に何とも言い難い哀情が胸を衝いて来る。それほどに景光のことが好きだった。

大好きだったーー…。



「・・・・」

「・・・・」

「うぅ…っ…」

涙と鼻水でグチャグチャの顔を見て二人が若干引いてるのがわかる。由美と美和子がそれぞれハンカチを取り出し、かやの顔を拭く。

「かや、もう何も聞かないから泣き止んで」

「まったく、きったないわねー!」

「ちょっ、あんたねぇ!」

「ぐす…」

「由美がそんなこというから泣き止まないじゃない」

「あんたが泣かせたんでしょーが」

「わ、私はかやの手助けになればと…」

二人のやりとりにまた泣いてしまう。会ってまだ日は浅いのに、かやを思っての言葉に心が温かくなる。

「美和ちゃん、由美ちゃん…ありがとう」

泣いた顔で無理やり笑顔を作る。顔が引き攣っているのがわかる。その顔を見て二人は顔を見合わせ、プッと噴き出す。

「あっはは!あんたその顔」

「無理に笑わなくていいわよ」

ぐしゃぐしゃに髪を撫で回され、かやもぎこちない笑顔のまま三人で笑った。





30



如月かやから見た安室透は

拗ねやすく
ちょっとしたことで機嫌が悪くなり
意外と寂しがり屋
すぐ怒るし、説教も長い
だけど、心に触れるとすごく優しい気持ちにさせてくれる。

そんな男(ひと)




自分の気持ちを自覚してからかやの行動は明らかに挙動不審だった。

「なんか、最近様子が変じゃないか?」

そう、安室に指摘され、口に運んでいたケーキをポロリと落とす。新作のケーキがあるとメールがきてそれに釣られて今日は来てしまったのだが、やはりまだ近距離は無理のようだ。

「へ、変じゃないんじゃない?」

「日本語変だぞ」

「うっ…」

「家にも最近来ないだろ」

「あっ、えと…」

「ハロが寂しがってる」

「ハロ…」

「何か怒ってるのか?」

「お、怒ってないよ!」

「ならなんだ。今だって目も合わせない」

カウンターから少し身を乗り出してかやを覗き見る。ちらっと彼を見れば不機嫌に眉を上げた安室と目が合った。ピクッとフォークを持つ手が跳ねる。赤くなっていく顔にバレてしまうのではと顔をまた伏せる。

幸い客はかやだけで、二人のこの異様な空気に突っ込む者は誰もいない。梓も外の履き掃除で今はいない。

聞こえるはずはないのに高鳴る鼓動を目の前のこの人に聞かれてしまう気がしてさらに緊張が増す。赤い顔のかやに安室は上げていた眉を下げ、今度は心配そうに声をかけた。

「具合悪いのか?」

「わ、悪く…ない…」

「ならいいが…」

カランカラン、と店のドアが音を立てる。外を掃除していた梓が戻ってきた。

「今日は天気がいいですね」

「て、天気!天気ね!天気すごく良いよね!」

挙動不審のかやに梓も首を傾げる。



「安室さん、かやさんに何かしたんですか?」

かやが帰ったあと夜の仕込みをしていると梓がそんなことを安室に問う。

「え?」

「なんか、安室さんにだけ!態度が変でしたよね?」

「そ、そうでしたか?」

梓でも丸わかりの行動に安室も苦笑いを浮かべる。やはりどうみてもかやの様子は変だった。

「まるで、あれは…」

そう言ってから梓は動きを止めてだんだん顔を赤くする。

「梓さん?」

「あっ、いえ、いや!」

「梓さん?」

「き、気のせいかもしれませんね!かやさんが変なことは今に始まったことではないですし!」

「はぁ…」

「さぁ、さぁ!午後も頑張りますよ!」

まるで小骨が喉につかえているようなこの感覚に安室は酷く居心地の悪さを感じた。



□□□

【家に来い】

なんとわかりやすい直接的なメールにかやは苦笑いする。

行きたいし、会いたい。

だが、今日の調子だといつか傷つけてしまいそうだ。以前のように接することが出来るまで少し距離を置こうかと思ったのだが…。再度メールを見てぐるぐる悩む。もういっそのことこのまま寝たふりをしてしまおうか。

【寝たフリをしても無駄だ。起きてるのはわかってる】

続けて来たメールにまるで追い詰められた犯人のような気持ちになる。顔が引き攣り、諦めたようにため息を吐く。

スーッと息を吸って、ハーッとゆっくり吐き出す。緊張している指先がチャイムを押す。

ガチャっと開かれる扉から顔を出す安室の表情はやはり機嫌が悪かった。

「寝たふりを…?」

「い、いえ、チガイマス…」

「まぁ、いい。どうぞ」

口数が少ない安室にやはり今日のポアロでの態度は彼を傷つけたのかもしれないと焦る。

「ごめんね。今日の態度、良くなかったよね。怒ってる、とかじゃなくて…その調子が悪くて…」

背中を向けていた彼はこちらを振り向く。安室はずいっと顔を近づけてかやの顔をまじまじと見た。うっ、と逸らしそうになるのを必死に耐える。しかし3秒も持たずに顔は熱くなり、涙目になる。

「顔が赤いな。熱、あるんじゃないか?」」

スッと彼の手が伸びてくるのを思わず避けてしまう。その行動に彼は怪訝そうに眉を寄せ、かやの腕を掴んだ。

「大人しくしてろ。測れないだろ」

ギロリと睨まれ、諦めるようにぎゅっと目を瞑る。安室の手がかやの額に触れる。熱い顔に彼の手は冷たく感じ、「ひぁっ…」と変な声が出た。ぱっと手が離れ、ゆっくり目を開くと安室は背中を向けていた。

「熱は、ない…みたいだな」

「そ、そう…」

「ご飯、食べていかないか?作りすぎたんだ…」

「お、お言葉に甘えていただこうかな」

声が裏返ってしまう。手の甲で顔を隠す。顔が爆発しそうなぐらい熱い。背中を向けていてくれて助かった。こんな顔を見られたら確実に爆発する。しないけど。



ぎこちない空気のまま二人で食卓を囲う。ハロが首を傾げて不思議そうにこちらを見ている。箸で里芋を掴もうとするがつるんと滑ってなかなか掴めない。手が震える。美味しい料理の筈なのに、味が全くわからない。

「あっ…」

「え?」

途端安室が声を上げる。煮物を口にしたまま固まっている。

「どうしたの?」

「…醤油、入れ忘れた」

へぇ?とかやは間の抜けた返事をする。そしてやっと掴めた里芋を口の中に入れる。あっ、本当に味がしなかったんだ、と胸の内で苦笑いする。

「珍しいね、こういうミスするの」

「つい、考え事をしてて…味見もしなかった。それより君も食べて気づかなかったのか?」

ギクっと肩を揺らす。あなたに緊張していて味がわからなかったとは言えない。

「こ、こういう味付けなのかなって」

誤魔化すには苦しかったのか冷や汗を掻いているかやに彼は訝しげな顔をする。すると違う意味で捉えた彼は呆れたように溜め息を吐いた。

「はぁ…口に合わなかったら気を使わずに言ってくれ」

席を立ち、かやによそった煮物まで下げようとする安室の手を慌てて掴む。

「だ、だめ!」

それにはぁ?と彼は眉間にしわを寄せる。一瞬怯みそうになるが負けじと彼を見た。

「だめって…味なくて美味しくないだろ」

「で、でも!それでも全部食べたいの」

彼の手を掴み懇願する。すると諦めたのかまた短く溜め息をして皿をかやの前に戻す。

「言っとくけど、無理して食べられても僕は嬉しくないからな」

ぶっきらぼうに言ったその言葉にかやは小さく頷いて嬉しそうにパクパクと煮物を口にする。

その様を安室は頬杖を突いてじっと見つめた。

「やっと、元気になったな」

ぽつりと言った彼にかやは照れ臭そうに頷いた。

「うん。透君も人の子なんだなって思って」

「人のミスを嬉しそうにするな」

先程の空気とは一変。穏やかな雰囲気にハロは嬉しそうに尻尾を振った。



□□□


心の中の風見メモ

それは手帳には書けないプライベートなことを心に書き留めて置くという意味で時々使用する風見ならではのもの。

公安としてより優秀に、優れた上司に似合う右腕になれるよう日々努力を重ね、その一歩としてまず降谷零という人物をよく知る事から始めた。

少し前からネクタイピンをつけており、恐らく最近買ったものだと思われる。もちろん心の中の風見メモにきちんと記載してある。休憩の最中、時折気にするように触れることもありその仕草はとても珍しかった。

彼が執着するものはとても少なく、情には厚い人だが仕事であれば簡単に切り捨てるという冷酷な部分もある。その中で彼の愛車は数少ない彼の執着するものに入るだろう。無残な姿になって現場からよく戻ってくるが…。

対象を追いかけている際に、たまたま犯人の手がそのネクタイピンに触れた。降谷の目つきは途端に変わり、いつもならその半分の力でも十分倒せるのを渾身の力を込めて殴り飛ばしているのを見て、風見はまた心のメモに記載する。

ネクタイピン触るな危険、と。

大事なものなのだな、と目に浮かんだのは以前部屋を訪れた女性。女性の背後にいた為顔は定かではないが、降谷が彼女に向けた優しい眼差しを思い出す。まさかな、と変な勘繰りをしてしまう。潜入先で物をもらうことは今までになく、それを身につけるなんて初めてのことだ。降谷の性格からは考えられず、ありえないことだと風見はこの考えを捨てた。

「ご苦労だったな風見」

「降谷さんこそお疲れ様でした」

「今日は早めに上がろう。君もたまにはゆっくり休むといい」

「はっ、ありがとうございます」

上司に頭を下げ、ちらりとその表情を盗み見る。潜入先用のスマホから連絡が来たようで車に乗り込む際、来たメッセージを確認しているようだった。すると突然フッと口角を上げた。その初めて見る柔らかい表情に面をくらってしまう。こちらの視線に気づいた降谷はなんだ、と元の厳しい顔つきに戻ってしまった。

「いえ、どなたからですか」

動揺からつい口走ってしまう。怒られると思ったが、彼は一瞬悩んだあと素直に答えてくれた。

「潜入先の近所に住む女性からだ。全く困ったものだよ」

あまり困っていない柔らかい言い方に、風見は拍子抜けする。この人もこんな顔をするのだな、と。

「じゃあ、僕はこれで失礼するよ」

行ってしまった降谷に風見はどこか嬉しいような悲しい気持ちで見送る。

普段、どこかずっと張り詰めている空気を出すあの人は完璧な上司で、ミスもなく、二つの潜入先をも器用にこなす。そんな彼があんな柔らかい表情をするなんて、いったいどんな女性なのだと風見はとても気になった。



数日後の朝、出勤前に一度潜入先で使う降谷の服を届けにアパートへ寄る。事前に連絡した時刻よりだいぶ早めに着いてしまった。遅れるよりはいいだろうと階段を登る。すると慌てて降りてきた女性とぶつかりそうになった。

「わっ、とごめんなさい!」

「いえいえ」

「待てかやっ!忘れ物だ」

部屋から出てきた上司が女性に鍵を投げる。彼女はぎこちない動きで慌てて両手を出してそれをキャッチする。

「ありがとう!」

走って行ってしまった女性と、投げたまま固まっている降谷に風見は気休めに眼鏡を上げて咳払いをする。降谷も同じく咳払いをして部屋に入るよう促された。

「一緒に暮らしているのですか」

次には盛大に咳き込んだ降谷を見て風見はやはり、と受け入れるように瞼を閉じた。彼の部屋から出てきた姿を目撃したわけではないが早朝にあのやりとりを見てそう思うのが自然。それが鍵となると尚更。

「そう見えるか?」

パチリと目を開ける。落ち着きを取り戻した彼は風見をギロリと睨んだ。しまった、さすがにプライベートなことだったか。

しかし部屋を見渡しても以前来た時と変わらずベッドとテーブル、そして立てかけてあるギターしかない。とても女性が住んでいるようには見えなかった。風見は首を横に振り失礼しました、と謝罪する。降谷は短めに溜息を吐いて首の後ろに手を添える。

「まぁ、さっきのはその、なんだ。君が思っているような関係ではない」

「はぁ」

「煮物の味付けをし直したから彼女に味見をしに来てもらっていただけだ。」

こんな早朝に?と突っ込みたい気持ちを飲み込む。

「服を届けに来てくれたんだろ。着ない服を今纏めてるからもう少し待っていてくれ」

「はい」

白い犬と久方の挨拶をし、買ってきた朝食を彼に手渡す。

「まだなようでしたらどうぞ」

「ありがとう、助かるよ。煮物、少しだけ余りがあるんだ。君も食べていくといい」

「ありがとうございます」

里芋を口に入れ、はふっとまだ温かいそれをゆっくり咀嚼する。しっかり味が染み付いておりその優しい味付けに心までもが染み渡る。

里芋を箸で掴み、ジッと見つめる。

先程の彼女もこれを食べたのか、と複雑な思いでそれを見る。以前ここを訪れた女性なのだろうか。協力者にも見えない。恋人…にしては距離があるような…。もしや一夜限りの…?

「風見?」

いや、そんな軽率な行動をとる人ではない。例え仕事で止む終えずそういう行為があるのかないのか知らないがあったとしても対象をこのアパートに連れ込んだりはしないだろう。もしやストーカー?いやストーカーに里芋は出さない。なら彼女の片思いだろうか。この人、顔も良いから…。きっと丁重にお断りされて終わりである。罪な人だよな。

「おい!風見!」

「はっ!な、なんでしょうか」

物思いにふけっていると目尻を吊り上げた上司と目が合う。風見はスッと背筋を伸ばし、ずり落ちた眼鏡を上げる。

「何か不備がありましたか?」

「何か、勘違いしてないかと思って…」

「は?」

「いや、なんでもない」

「はぁ」

「待たせた。これを頼む」

「了解しました。そういえば降谷さん」

「なんだ」

「前にお渡ししたループタイが見当たらないのですが、ご存知ですか?」

「あー…すまない。あれだけは買い取らせてくれないか」

「構いませんが…お気に召しました?」

「まぁな」

またも珍しい、と風見はメモに追記した。ループタイお気に入り、と。





31



ドアノブに手を掛け、店に入るといらっしゃいませ、と安室が一人出迎える。今の時間帯、梓は居ないらしい。客も一人しか居らずカウンターに座る女性にコナンは声をかける。

「あっ、かやお姉さんやっぱりここにいた。メールした…の、に」

頬杖をついたまま反応を示さない彼女に首を傾げると安室が人差し指を唇に当て、しーっと眉を下げて小さく笑った。

そーっと彼女に近づきカウンターに両手をついて顔を出す。下から覗き見れば小さな寝息を立てていた。

再度安室に視線を戻すと困ったように彼は笑い、なるべく小声になるよう口元を手で隠し「昨日遅くまで仕事だったんだ」とコナンに耳打ちする。

まるで昨日の彼女の行動がわかっているかのような言い方だ。半信半疑だったが近くに住んでいる、というのはあながち嘘ではないのかもしれない。

とりあえずオレンジジュースを頼み、かやの隣に座る。すると彼女の体がピクッと小さく跳ね、頬杖から顔を離す。おはよう、と声を掛ければまだ少し眠いのか虚な瞳がコナンを捕らえる。

「・・・・」

ふに、と摘まれる頬。かやの行動にコナンは咄嗟に理解が出来ず固まってしまう。

「かやお姉さん?」

ふにふにと未だ頬の感触を楽しんでいるかやにコナンは困惑の表情をする。

「起きたらコナン君がいたから夢かどうかの確認を…」

自分の頬でやれ、とコナンは胸の内で突っ込む。とろんと目尻を下げて熱の篭った視線をコナンに向けてかやは言う。

「今夜家に来ない?」

「なに言ってるの?」

男を口説くようなそのセリフに何寝ぼけてんだと冷めた目で塩対応する。すかさずスマホを取り出した安室にいち早く気づいたのはかやだった。

「待って。ごめんなさい。通報しないで」

その言葉にかやを睨みつつも静かにスマホを仕舞う。コントのような二人のやりとりにハハハとコナンは乾いた笑いをする。沖矢の言葉が本当ならばかやを見ていれば安室に惚れていることが一目瞭然とのことだが…これじゃ全然わからねぇっ!と前髪をガシガシと掻く。そんなコナンに安室とかやは不思議そうに首を傾げる。



予約していた団体客が入店し安室はカウンターを離れる。その隙にコナンは当初の目的を思い出し、かやに耳打ちする。

「あ、そういえばかやお姉さん」

「なになに?コナン君」

まだ寝ぼけているのか若干距離が近い気がするが、気にせずコナンは話を進める。

「あのさ、沖野ヨーコさんが小五郎のおじさんを使って探そうとしてるよ」

コナンの言葉にぱちり、と目蓋を瞬かせる。その言葉だけで意味を汲み取ったのかかやは困ったように眉を寄せた。

「あっれー…丁重にお断りしたんだけどなぁ」

「どうしても会って話がしたいからってことだったけど、どうする?」

「うーん…もう少し考えてみる」

「断る理由ってさ…。あの、前の事件が関係してるの?」

声のトーンを落とし真っ直ぐにかやを見つめる。彼女の瞳は少し揺れ、諦めたように鼻から息を吐き出した。

「コナン君には、敵わないなぁ…」

コナンは肯定と取り、更に核心を突いた質問をする。

「まだ、誰かと深く仕事で関わるのは怖い?」

一瞬面を喰らった顔をしたかやだが次には困ったように小さく笑う。黙ったままのかやに新一ならともかく小学生に話すべき内容か迷っているのかもしれない。

俺をはぐらかせると思うなよ、と彼女のペースに持ち込まれないようジッと見つめた。

「その顔、新一君にそっくり」

ぎくりっ、と肩を揺らす。かやの手が伸びコナンの頭をくしゃくしゃに撫でる。

「わっ!なんだよっ、かやっ」

思わず新一の時のような応え方で反応してしまった。やべっ、とかやを見ると嬉しそうに、にんまりとした顔と目が合う。

「い、今のは!かやお姉さんの話をよく新一兄ちゃんから聞くからで、それが…そのっ、移っちゃって…」

苦しい言い訳をしているなか、撫でている手は止まり、両手で包み込むように頬を挟んだ。

「本当に新一君みたいね…」

「だ、だからっ」

「だからかな…新一君が居ない間、君が蘭ちゃんのそばに居ると安心する」

「…かやお姉さん?」

かやの憂いを含んだ瞳がコナンを映す。しかし次にはパッと笑顔に変わり明るい口調へ戻る。

「大丈夫だよっ、コナン君!ヨーコさんとはこれでも付き合いは長いの。会ったことはないけど、もう一度連絡してみる」

「なら、いいけど…」

「知らせてくれてありがとうね」

安室が注文から戻ってきたことによりこの話は終わる。沖野ヨーコに連絡する為なのかは定かではないがかやは早めに店を出て行った。そして当たり前のようにないコナンの伝票に溜息を吐く。いつまで経っても子供扱いだ。まぁ、子供なのだが。

結局、肝心な部分は聞けなかった、とズズッと不機嫌そうにオレンジジュースを啜る。

かやは犯人が捕まってもなお、一定の距離を保って仕事を続けている。もちろん向こうの趣旨に合わせて、プロデューサーに会ったり、曲のイメージのために歌い手にこっそり会うこともあるそうだが、基本は謎の多い人物とされている。

沖野ヨーコに会わない理由は国民的アイドルであまりにも人に知られすぎているからだろう。あの男と少し重なるのかもしれない。ヨーコがあの男のようになるとは思わないが、かやにとってそれ程までに二度と繰り返したくないトラウマなのだろう。

また無茶をしなきゃいいが…、とちらっとカウンター越しで仕事している安室を見る。新一で電話をかけるより彼のほうがまだ気持ちを吐露しやすいかもしれない。

今夜また沖野ヨーコが相談しに来る。彼ならその場に居合わせれば自ずとかやの話だと理解し、彼女に接触してくれるだろう。

コナンはさりげなく仕掛けに入る。

「安室の兄ちゃん、今日とびきり美味しいサンドイッチを小五郎のおじさんに差し入れして欲しいんだけど…」

子供のように笑って安室にお願いすれば小首を傾げた彼だが、次には笑って了承してくれた。



□□□


かやは自宅へと戻ってきて、上着を脱ぎながら、はぁー…と長い溜息を吐き出す。3ヶ月か…と初めに送られてきたメールの内容を思い返す。ずんっと重くのし掛かるプレッシャー。まるで胃にまで重石がくくり付けられているようだ。

かやはぶんぶんと顔を横に振る。いけない、いけない、と冷蔵庫からバニラカップを取り出して、お気に入りのリキュールを少し垂らす。

スプーンで掬い、パクッと口に入れる。
ほろ苦く、甘いリキュールがバニラの甘みに合う。

「ふふっ、うまっ…」

程よいアルコール。ほわほわと良い気分になってくる。もう一口、のところでピンポンとチャイムが鳴る。モニター越しで誰が来たか確認し、スプーンを口に咥えてドアを開ける。





「ふぁーい」

スプーンを咥えたまま出てきた女に安室は拍子抜けする。手に持っているアイスカップがふと目に入る。ほんのり香る甘い匂い。アルコールだと分かると安室は顔を顰めた。

「この匂いカルーアか?」

靴を脱ぎながら安室はかやに聞く。口からスプーンを外し、かやはアイスを掬って答える。

「正解っ!たまーに食べたくなるんだよね。ってそんな顔しなくても」

まだ酒を飲む時間には大分早く、眉間にシワを寄せていると彼女は苦笑いで返す。

「酔ってギター壊すなよ」

「こんなんで酔わないよ。何か飲むー?」

「酒じゃないので頼む」

「バニラアイスにウイスキーって合うのかな?」

「待て、僕はこの後仕事なんだ」

「なんだー、残念」

「毛利先生が沖野ヨーコから正式に依頼を受けた」

冷蔵庫を開けて飲み物を取り出していた彼女はピクッと反応する。ゆっくり、こちらを振り向いた。

「W英雄Wというソングライターを探して欲しいとのことだ」

「・・・・」

「ライブツアーにどうしても一緒に回って欲しいと言っていたが?」

「小五郎さんは英雄の見当はついてそうだった?」

「いや…まだだ。だが男だと思ってるから躍起になって君を探してるよ。恋に発展する前に潰すと意気込んでた」

「怖いなぁ、もう」

「本当に怖いと思ってるのは違うことだろ」

「・・・・」

黙ってしまった彼女を気に留めることなく安室は核心を突く。

「深く関わることであの男のようなアーティストを生んでしまうことが怖いんだろ」

「…っ…」

目線を合わせないことで、確信に変わる。彼女の心の奥底に巣食うトラウマに気づいてはいたが、安室はずっとそれには触れずにいた。

「あの男は、君がまだ何も知らない中学生というところに漬け込んだんだ」

調書によれば彼は初めからかやの名を世に出すつもりはさらさらなかったという。彼女自身も名を売り出すことが目的ではなかった為、互いにとって都合が良かったのかも知れないが、安室からしたら自分の都合の良いように彼女を利用したことが許せなかった。その上勝手な妄想に取り憑かれ拉致・監禁までして彼女に曲を書かせようとしたのだ。

外に出られないよう顔に傷までつけようとして…。

ぎゅっと組んでいる腕に力が入る。思い出しただけでも腹が立った。かやは望んでいないのかもしれないが、それなりの罰は受けてもらうつもりだ。

取調室で語った男の話ではヒットしたデビュー曲以降、次曲の売り行きが良くなくそのままスランプに陥る。麻薬はその頃に手を出し始めたもので、皮肉にもそんな中で彼女の音楽と出会ってしまう。

いくら彼女の曲に魅せられたからといって、それを大金で買ったのは賭けだったという。しかし男には何故か確信めいたものがあった。運命とは残酷なもので彼が見込んだ通り、その曲は瞬く間に売れることとなる。そして男の私生活はまた華やかな世界へと舞い戻り味を占めていく。

しかしかやに関われば関わるほどその若さと才能に嫉妬していく。歪んだ心がもたらした末路は依存だった。彼女が手元を離れた後も私生活を変えることが出来ず借金だけが嵩んでいく。それさえも彼女のせいにしていたのだから完全なる逆恨みである。

金に溺れたのも、薬に溺れたのも彼の弱さが原因であり自業自得。かやのせいではない。

だから…

「だけど、沖野ヨーコは違う。実力だけで今の国民的アイドルにまで上り詰めた誠実な女性だと思う」

君が立ち止まる必要はないんだーー…




かやは中身がトロトロに溶けているアイスカップを見つめる。バニラ色とブラウン色のリキュールがぐるぐるとゆっくり一つに混ざり合う。

「君もまた、あの頃とは違う。もう何も知らない中学生ではないだろう?常に一生懸命に、純粋に音楽と向き合ってる姿を僕は知ってる。怖がる必要は何もない。僕が保証する」

かやはようやく安室を見た。真っ直ぐで綺麗な澱みのない瞳。本心で言ってくれているのだとすぐにわかった。先程まで感じていた胃の重みがスッと軽くなる。なんて単純なのだろう。

鼻から息を吸いゆっくり吐き出すことで泣き出しそうになるのを留める。鼻の奥が痛い。喉の奥が熱い。

きっと今情けない顔をしている。見られたくなくて、溶けたアイスをテーブルの上に置き、安室の胸板にとんっと額を擦り付ける。

「ずるいなぁ」

少し鼻声なのは花粉症だから。泣いてなんかない。ぎこちなく彼の手が頭に触れる。

「大丈夫だ。君は上手くやれる。あんなことは二度と起きない」

「うん…うん…」

何度も、何度も頷き、小さく掠れた声でありがとう、とかやは言った。



32



降谷零から見た如月かやは

人の話は聞かないし
予想とは反することばかりするし
怒ると意外と手が出る
嘘をつくのが下手
マイペースな癖に変なところで察しは良くて、
人の心を振り回す天才。
だけど思いやりに溢れ、優しい心を持つ

そんな女(ひと)



珍しく鼻歌を歌いながらお皿を拭いている梓に安室は声を掛ける。

「ご機嫌ですね、梓さん」

「あ、すみません。今ハマっているドラマが昨日やっていたのでついその歌を…」

「へぇ…ドラマですか」

無意識だったようで少し恥ずかしそうに皿で顔を隠す梓に安室はクスリと笑う。

「どんなお話しなんです?」

「主人公の親友がある日突然不慮の事故で亡くなってしまうんですけど、その事故に関わった人たちが次々に不審な死を遂げていくっていうお話しで…」

「ミステリーですか、面白そうですね」

「なかなかのサスペンスもあって面白いですよ。毎週ハラハラしながら観るんですけど、昨日は特に手に汗握っちゃいました」

「すごい嵌りようですね。ちなみに犯人はもうわかってるんですか?」

「実はそれが昨日わかって…」

そこでハッと口を閉じる梓に安室は首を傾げる。

「どうしました?」

「危うくネタバレしてしまうところでした。すみません」

「いえ、もう見るにはだいぶ見逃してますし、遠慮せず話して下さい」

昨日の興奮が覚めていない梓は誰かに話したくて仕方なかったのか嬉しそうに頷いた。

「犯人、実は主人公だったんです」

「えっ、主人公なんですか?」

「そうなんですー!もうびっくりしちゃって!まだドラマは中盤なので来週が待ち遠しくて…」

笑顔で話す梓に安室も笑顔で頷く。しかし頭の傍らで、親友の不慮の事故で復讐に走る主人公が自身と重なり、あの時の光景が頭を掠めていた。赤井の横顔とその顔に付着する返り血と硝煙の臭いが…

「安室さん?」

ハッと現実に引き戻される。

「あぁ、すみません。来週が楽しみですね」

「はい!待ちきれません。あっ!そういえばかやさん、このドラマが始まる大分前に原作の小説読んでたな…。ドラマ見てるかなぁ」

「おーい!店員さん!水道の調子おかしいよ!」

「あっ僕、様子見てきますね」




結局水道の修理が必要となり、修理業者との兼ね合いで午後はマスターが来ることになった。人手は足りているため安室の午後のシフトは急遽なくなる。小五郎はパチンコに出かけており、探偵事務所に寄る予定も、本庁に寄る予定も今日はない。珍しくポッカリ時間が空いてしまった。

かといってやる事はあるため安室はトレーニング後、仕事をしにアパートへ戻ってくる。

今日は天気も良く、窓を開けている者が多い。かやの部屋も例外ではなく、微かに聴こえてくるギターの音に気づけばハロを連れて呼び鈴を鳴らしていた。安室だとわかるとかやは笑顔でドアを開けた。

「透君、おかえり。お仕事お疲れ様」

まるで一緒に暮らしているかのようなそのセリフに満更でもなさそうにただいまと応える。

散らばっている楽譜だらけの部屋に上がる。納期が近いといつもこうだ。

「ハロ!」

尻尾をブンブン振り回すハロをかやは優しく抱き寄せる。気が済むまで撫で回し、頬をすり寄せる姿に少し妬いてしまう。

「少しだけ作業してても良い?」

戯れが終わったのか少し乱れた髪を整え彼女は言った。沖野ヨーコとの同行の件は無事解決したとかやからメールがきて知っていたが、そのコンサートに併せて新たに曲を作っていると言う。

「悪い、タイミング悪かったな」

「ううん、透君が退屈じゃなければ居て平気だよ」

彼女のその言葉を素直に受け取り、安室はこのまま部屋にいることにした。

チューニングしている彼女の姿を安室も適当なところに座って眺める。

窓から入る陽の光が彼女を照らす。心地よい風がカーテンレースを揺らした。

ギター特有の弦が擦れる音。
微かに聞こえるハミング。
爪弾く弦に奏でるアルペジオ。

その姿を愛おしそうに見つめる。

居心地がいいその空間に安室は耳を澄ませ、そっと目を閉じたーー…。




かやは凝り固まった体を伸ばす。なんとか納期に間に合いそうだと安堵の息を漏らす。せっかく休みになったという安室に申し訳なかった。胡座を崩し、待たせている彼の方を向く。

パチリ、と目を瞬かせる。

壁に寄りかかって気持ちよさそうに寝息を立てている彼に珍しい、と覗き込むように寝顔を見る。ハロも安室の膝の上で静かに寝ていた。

暖かい風がそよそよと安室の髪を揺らす。かやは音を立てずにスケッチブックを取り出し鉛筆を手にする。静かな空間に聞こえるのは紙の上を鉛筆が滑っていく音だけ。かやはその心地いい空間に小さく口角を上げた。




「透君、おまたせ」

肩に手を置かれ、優しく微笑んだかやの顔が視界に入る。随分気を抜いて寝ていたらしい。ぐぅ、と鳴る腹の音にかやは笑った。

「お腹空いた?何か食べる?」

「ん、あぁ…そうだな」

安室はぐいーっと腕を上に伸ばして、体をほぐす。ふいっと恥ずかしそうに顔を背ける彼女に見ていた視線を辿ると体を伸ばしたせいで服が捲れ上がり腹が見えていた。

普通、逆じゃないか?

「な、何食べたい?作るよ」

「僕も手伝うよ」

しどろもどろに言うかやに安室は笑った。



□□□

ダイニングテーブルに二人で作った料理を置き、手を合わせて食べ始める。もちろんハロの分も忘れずに。少し疲れた顔をしているかやに安室は声を掛ける。

「悪いな、大変な時に来て」

「え?ううん、逆に顔見れてよかったよ。結構煮詰まってたから。お陰であとタイトルつけるだけ」

「ならいいが…」

ふと梓との会話を思い出し、話のタネに訊いてみる。

「そういえば君も本を読むんだな」

「え?なに突然」

「今日梓さんが今やってるミステリードラマの原作を君がポアロで読んでいたのを見たって聞いて」

「あー、そういえばあったかも」

箸を置き、視線を上に廻らせ記憶を探る彼女は思い出したのか小さく頷いた。

「そうそう、思い出した。ドラマの挿入歌を頼まれたから曲もその内容に添うようにしたくて」

「難しい顔をして読んでたらしいな」

「あはは。確かにそうかも。内容が内容なだけに気持ちが引っ張られちゃって…」

「梓さんから犯人は主人公って聞いたけど?」

「そうそう。後半は、その主人公の葛藤が描かれててね…色々と考えさせられた」

「少しは探偵に興味持てたか?」

「うーん…どちらかというと主人公の気持ちを考えちゃって、やるせない気持ちのほうが強かったかも。同じ立場なら自分はどうするんだろう、とか…」

「復讐する?」

「結局答えは出なかったなぁ。憎しみが生まれるほど大切な人なら尚更想像したくなくて…」

「そうか…」

「それで、主人公目線で歌詞を書くのをやめて…親友目線で書いたんだよね」

「親友の気持ちならわかるって?」

握る箸の力が強くなる。少し嫌味な言い方だったろうか。景光の気持ちならわかると言われたようでついそう口走ってしまった。

「まだ…自分が死ぬ想像をしたほうがマシだと思っただけだよ」

「冗談でも聞きたくない」

ピシャリと言い放つ安室にかやは物悲しげに安室を見た。そんな彼女の表情に安室は握る箸の力を弱める。

「だよね。やめよっか、この話…」

暫く気まずい沈黙が続く。不味くなってしまった飯に安室は食べるのを止める。同時に反省した。冷静さを欠くとわかっていながらも自らこの話題を振ってこの様だ。かやは悪くない。自分が悪い。最後まで彼女の意見を聞くべきだ。

安室は一度目を伏せ、冷静に、と短く息を吐き出してから箸を置いた。




「親友が、憎しみを糧に復讐を目論んでいたら…君は…何を思うんだ」

沈黙の後、安室が発した言葉の意味をかやはよく考える。この話題になってから安室の空気がピリついている。どういう想いでその言葉を口にしたかはわからない。

ただ小説の話をしているだけなのに、まるで大切な誰かと重ね合わせているような…そう、景光の死は誰かが関わっているとでもいうような、そんなことを勘繰ってしまうほど今の彼の瞳は弱々しく揺れ動き、かやの応えを待っている。

誰かに復讐しようとしている親友は、あなたなの?

考えた言葉をかやは咀嚼するように飲み込む。自然と背筋が伸びる。少し緊張しているのが自分でもわかった。

「もしね、私がその…死んじゃって誰かが復讐しようとしてたら、ちゃんと私のことを見て。って思ったの」

かやは手を伸ばす。トンッと安室の胸、心臓がある部分に触れる。

ちゃんと、見て。
ちゃんと、聞いて。




かやが触れた部分がじんわりと温かい。彼女は今、物理的にではなく言葉で心に触れようとしているのがわかった。

「ここにいる私のこと、見えてる?って」

目を開いてかやを見る。心臓が痛い。胸が熱い。

「そりゃあね、死んで喜ばれるよりは悲しんだり惜しんだりされる方がいいし、時々思い出してもらいたいんだけど…それが復讐の引き金になってしまうなら、いっそのこと忘れて欲しいとすら思う」

そんなの綺麗事だと安室は思う。君は景光の最後を知らないからそんなことが言えるのだと。あの場にいたらきっと彼女も赤井を殺したいほど憎むに決まっている。

別に本当に復讐をしようとしているわけではない。己の本分も、立場も弁えているつもりだ。だがそれでも憎しみが消えるわけではない。

黒くどろっとした感情が心を染めていくなか、彼女の言葉がそれを阻止する。

「大切な思い出を…楽しかった日々を…憎しみに染めないで。辛いかもしれない。悲しいかもしれない。でもっ、私は時々思い出して…幸せそうに笑ってほしい。それだけで満たされる。だから…だからね…」


もう十分だよ、ゼロ


そう、ヒロの声が重なって聞こえた気がした。

触れていた彼女の手を掴む。かやの肩が跳ね、驚いている表情が瞳に映る。

「透君?」

「・・・・」

黙ったままでいる安室を彼女が心配そうに覗き込む。近づく顔に安室は手を伸ばし、彼女の後頭部を引き寄せた。

ガタンッ!とテーブルが動く。コップが倒れ、水が溢れ落ちた。



気付いたら、




「…んっ」




彼女の唇を奪っていたーー…。





ぽたっ…ぽたっ…とテーブルに溢れた水が床に落ちる音。

びっくりしてまん丸に目を見開く。どうして安室の顔がこんなに近くにあるのだろう。この唇に当たる柔らかい感触はなんだろう。

彼の目蓋が徐々に上がり、大きく見開いた綺麗な瞳と目が合う。

「っ!?」

ガタガタッとテーブルやら椅子やらにぶつかりながら体が離れていき、赤い顔で触れていた唇を指先で押さえる。その仕草にポカン、と口を開けてしまう。

その反応、逆じゃない?

「悪い…つい…」

まるで乙女のような反応だ。

「今日は帰る」

ハロを抱えてバタバタと出て行く。パタン、とドアが閉まった音と共にぺたん、とその場に座り込む。

濡れた床を見つめ、熱い顔を両手で覆う。

な、んだったんだろう…今の…

え、なに?

なんでキス…された、の?

「わぁぁ!」

冷静になったら恥ずかしくなり、奇声を上げながら床を布巾で拭きまくった。




安室は自宅へ戻り、ガチャン!と乱暴に鍵を閉める。ドアに背を預けてずるずると体が下へと落ちていく。ハロが心配そうに安室の手を舐める。

やってしまった。気をつけていたのに。体が勝手に動いてしまった。

「…顔、赤かったな」

可愛かった、なんて思っている場合ではない。もう後には引けない。

「はぁ…何をしてるんだ、僕は」

頭を垂れて安室は顔を手で覆った。




かやがヨーコのツアーに同行するまであと3週間。



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