変化
「今日は…ご馳走さまでしたっ、と」
送信しました、と表示された画面にふぅ、と力が抜けたようにソファに身を預ける。話の流れで連絡先まで交換してしまった…と酔いが醒めた頭は少し後悔している。食事に誘ったのはマフラーの礼と言っていたが、内実はコナンが大尉に託したレシートの件が聞きたかったのだろう。だとするならば原作通りに彼の意識は完全に兄を外れ、コナンへと調査対象が移ったと思っていいのかもしれない。
W緊張を解く方法の一つとして話し方から変えてみる、というのはいかがでしょう?W
酔っていたのもあるが、フランクに接する彼の提案を受け入れたのは軽率過ぎただろうか。『安室透』という先に紙の上で得た先入観が邪魔をする。彼が好意的な態度を示してくれていてもバーボンという裏の顔がチラつき、素直に喜ぶことが出来ない。果たして今日の彼はどちらだったのだろう。
「何が目的かな…」
安室透のメールアドレスに指を這わせ、目を細める。たった、あの一瞬…レシートに目を奪われただけで疑いをかけられてしまうとは…。やはり彼は油断出来ない。
数日後ー…
探偵事務所の掃除を終え三角巾を外し、はたきを戻す。するり、と足元に何やら毛の感触。すりすりと体を擦り寄せて来たのは英理が預けていった猫のゴロ。抱き上げ一人用の椅子に腰掛け一息つく。同じタイミングでドカリ!とネクタイを緩めながら斜め前の長椅子に座る兄。手にしているのはTVのリモコン。依頼人との約束がない限り客用のテーブルと椅子はTVが見やすい位置に移動される。折角綺麗にしたのにテーブルの上には灰皿やら雑誌、馬券やらがごちゃごちゃと置かれ始めた。
TVから流れてくるファンファーレの音楽。真剣な顔で開く競馬雑誌。いつもこれぐらい仕事にも真剣に取り組んでくれたらいいのに…なんて思いながらゴロと一緒にチラッと出馬表を盗み見る。印がしてある馬とその騎手。ライブ映像に映るコース形態と天気を見てハルはボソッと言い放つ。
「3-7じゃなくて5-7だと思う」
「あ?なんでだよ」
「カミナリボーイ、名前が強そう」
「はっ、これだから素人は」
なにもわかっちゃいねぇ、と鼻で笑われる。ハルは「さてどうだろうねぇ」とこちらの様子を窺ってくるゴロに話しかける。ニャァとまるでこちらの言ってることがわかっているかのように鳴くゴロにハルは小さく笑った。
「なかなか見る目がなくてねぇー」
「おい、そりゃーまさかと思うが俺のこと言ってんじゃねぇだろうなぁ」
「まぁまぁ二人とも、落ち着いて」
部活から私服に着替えて事務所に降りてきた蘭が宥めに入る。二人でお茶でも飲もうかと話していると事務所のドアが開いた。
「ただいまー」
「あっ、おかえり。コナン君」
出迎えるハルたちとは違い小五郎は依然、馬に夢中だ。しかしドアの隙間から顔を出すだけで中々入ってこないコナンにハルは首を傾げる。何やら気まずそうな顔をしている。
「どうしたの?入らないの?」
「実は…」
すると「お邪魔しまーす!」と元気の良い声とともに入ってきた少年探偵団の子供たち。と、もう一人の人物にハルは思わず口が開いてしまう。
「あれ?安室さんまで。皆揃ってどうしたんですか?」
「毛利先生のお力を是非お借りしようと思いまして…」
思わず力が抜ける。抱っこしている腕が自然と下がり、支えがなくなったゴロは不服そうに地面へと降りた。そうか、今日はその日だったか…。
「何ィ⁉︎猫の飼い主探しだとォ⁉︎」
事情を聞いた小五郎はそんなものは他でやってくれと面倒臭そうな顔をした。各馬一斉にスタートした馬が気になるらしい。皆を追い返そうとする小五郎にハルと蘭はジト目で睨む。だがすっかり彼の扱い方を心得ている弟子は沖野ヨーコのサマーライブプレミアムシートのチケットという餌で釣る。皮肉なことにハルの頭には人参をぶら下げられて走る馬の姿が頭に浮かんだ。
「あっ、そろそろお茶っ葉切れるの忘れてた」
「じゃあ私が夕飯の買い出しついでに今買ってくるよ」
「えー!ハルお姉さんいなくなっちゃうの?大ちゃんだってこの後くるよ?」
「これから依頼人も何人か来るみたいだし…あんまり人数多いとゴロや大尉も落ち着かないだろうからね」
残念そうな顔をする歩美にハルも申し訳なさそうに眉尻を下げる。
「ハルお姉ちゃん、ついでに紅茶もお願いしていい?」
「任せて!いつものでいいんだよね?」
「うん!折角来てくれたのにごめんね?」
「いいよいいよ!私がいても即戦力にはならないだろうし」
むしろ好都合だと急いで支度をする。事務所を出る際にコナンに声を掛けた。
「夕飯何がいい?」
「え?えーっと、じゃあ…」
「とんカツ」
椅子とテーブルを元の位置に戻しながら横から入ってきた小五郎にハルは顔を顰めた。
「兄さんには訊いてないんですけど?」
「いいじゃねぇか、仕事すんの俺だし。今夜は事件解決後に揚げたての肉で一杯飲みてぇ気分なんだよ」
その事件を解決に導くのはコナン君でしょ!とは言えず、渋々小さな名探偵に尋ねる。
「コナン君は豚カツでいいの?」
「うん!」
ならいっか、と事務所を出ようとしたところで視線を感じた。安室がジッとこちらを見ていたのだ。え?と嫌な汗が頬を伝う。なんかまずかった?今のやり取りに変なところあった?目が合ってしまったからにはこのまま逸らすことも出来ず、ハルは適当に口を開く。
「安室くんも豚カツ…食べてく?」
いや、適当でももっとなんかあっただろうと引き攣りそうになる顔を抑えた。
「いや、またの機会にさせてもらうよ」
「そう?」
ん?と今度は別方向からの熱い視線に気づく。まぁ、だいたい予想はつく。あぁ!だから早くこの場から去りたかったのに!と肩を落としながら突き刺さる視線を辿るとそこにはキラキラした顔の蘭と目が合う。勘のいい彼女は自分たちの会話の変化にいち早く気づいたようだ。そしてそれはコナンも同じ。彼は反対に怪訝そうに目を細めてこちらを見ていた。あっちこっちと多方面から寄せられる眼差しに耐えきれず付けっぱなしのテレビに逃げた。
「に、兄さん!」
「あ?」
「やっぱり5-7だったね!」
わざと大きめな声を出す。ハルの言葉に小五郎は背を向けていた体を慌てて捻りテレビ画面へと釘付けになる。
「ほーら、私の言ったとおり。前に競馬や競輪で500万すったこともあるんだし、ギャンブルやめたら?」
「〜っ!!」
ワナワナと震える肩。予想が外れだけでなく、ハルに負けたとなれば機嫌も悪くなるだろう。さらに小言なんて今は聞きたくもないはず。
「だいたい兄さんは…」
「わ!ちょっ、お父さん!」
振り返った兄の顔には青筋が立っていた。やば、やり過ぎた。と慌てて扉を閉めると同時にバンッ!と投げられた競馬雑誌がドアに当たったのが分かる。帰ったらビールでご機嫌を取ろうと苦笑いを浮かべつつも、これであの地獄のような空間から逃げることに成功したとハルは胸を撫で下ろしたのだった。
三人名乗り出た大尉の飼い主事件は無事解決し、皆で大尉にお別れをする。日は暮れ始めており、そのまま解散となった。マスターに呼ばれた梓は先に店の中へと入っていく。自分も戻ろうとドアノブに手を掛けたところで買い物を終えたハルが帰ってきた。安室に気づくと彼女は小さく手を振った。
「蘭からメールで聞いたよ!無事に解決出来たみたいだね」
「うん、コナン君のおかげでね。荷物多いね。上まで運ぶの手伝おうか」
「すぐそこだし大丈夫だよ」
ありがとう、と笑った彼女は先程会った時より穏やかに見えた。
「まだお仕事あるの?」
「うん、あと少し」
「そっか。あんまり無理しすぎないようにね」
彼女はそのまま階段を登ろうとする。安室も店へ戻ろうとしたが体はそのまま動くことはなかった。
「君はコナン君がこの事件を解くことをわかっていたのかい?」
立ち止まる足。振りむいた顔は不思議そうな顔をしていた。何故そんなことを訊くのかと問いたいのだろう。
「夕飯の献立を毛利先生ではなく真っ先にコナン君に訊いたから」
惚けた顔をする彼女。しかし次にはふふっ、と可笑しそうに笑った。
「どうやら安室くんはこの間からコナン君がとても気になるみたいだね」
「職業柄気になるタチで」
どんな些細なことでも、と付け加えると彼女の表情は困ったような笑顔へと変わる。
「夕飯の献立を子供の食べたいものにするのは変?」
彼女のいうことはもっともだ。普通ならそこまで疑問に思わない些細なこと。ただ、真っ先に彼に訊ねたことがどこか引っかかっただけ。引き止めて聞くほどでもなかったのに。ただーー…
「いや、どこも変じゃない」
「まぁ、でも兄さんよりコナン君を贔屓にしてるのは確かだよ」
安室さーん!と店奥から梓の呼ぶ声がする。彼女も気づいたのか、じゃあ、またね、と笑って階段を登っていった。
「……」
飲み込んだ言葉を、安室は胸の奥深くへと仕舞い込む。
そう思ったのはきっと、どこか物悲しさを感じるこの夕焼けのせいだと一度頭を振り『安室透』の笑顔で店へと戻っていった。
ーーただ、もう少し君と話していたかったなんて
2021.09.10.いいね♡