兄妹 ⑴
「またね!安室くん!」
ハルはそのまま踵を返し、歩調を早める。それでも後ろ髪引かれる思いがあり、断ち切るように数歩目には走り出していた。
これでおしまい。もうおしまい。
分かりきっているあなたの返事を言葉として聞く勇気もないのに、言いたいことだけ言って逃げる自分をどうか許してほしい。
さようなら。
さようなら、あむろく…
「…っ…!?」
ぐんっ!っと腕を掴まれる感覚に足がすくむ。引き寄せられ、驚いた顔をする間も無くハルの顔は硬い胸元へと押しつけられた。
掻き抱かれ「君は勝手だ」と耳元に唇が触れたのがわかった。
「過去や運命がわかってたって、君にっ…僕の何がわかるって言うんだ…!」
その言葉にぎゅうっと胸が苦しいくらいに締め付けられる。
「ご、ごめ…」
「ごめんっ…」
ハルの言葉の前に、彼の少し苦しそうな…掠れた声が鼓膜を叩く。その謝罪の意味がわかり、じわりと涙が滲んだのがわかった。
「…っ…」
なら、なんで…!と彼を力一杯押し退けようとする。しかしさらに強い力で抱き締められ、振り解くことができない。
痛いくらいのそれはハルの心をより締め付けた。
「は、はなしてっ、あむろく…」
ーーピリリリ!
突如鳴る彼のスマホ。
徐々に離れていく体にハルは唇をキツく噛み締めながら顔を上げる。
切なそうに寄せられた眉。
歪んだ口元。
その彼の表情にハルは呆然としてしまう。まるで、彼の方が傷ついているようだった。
「お元気で」
遠ざかる背中。伸ばしてしまいそうになる手をぐっと握りしめ、ハルはその場にしばらく立ち尽くしたーー。
ブー!ブー!と鞄の中から震えているスマホ。こんな時間に誰だろうと気にはなっても、取り出す気にはならなかった。
帰…らなくちゃ…
わたしも…
家路へと向かっていたはずの足先は無意識に先程車で通った公園に来ていた。
誰もいない夜のせいか、見慣れたはずの風景にどこかよそよそしさを感じる。
W過去や運命がわかってたって、君にっ…僕の何がわかるって言うんだ…!W
本当に、何をわかったつもりでいたのだろう。紙面上の彼らが全てではないと、一緒に過ごしてきた自分が一番わかっているはずなのに。今更ながらに恥ずかしさが込み上げてくる。
「はぁ…」
その場に崩れるように膝を抱え、疼くまる。
安室の過去を話しただけではハルが未来を知る証拠にはならない。隠された情報だとしても、調べられる方法はいくらでもあるのだから。それでも潜入中の彼からしたら過去を知る自分など邪魔な存在だろう。
きっと、もう二度と会うことはない。
それでも…こんな別れ方になるとわかっていても…言わずにはいられなかった。
彼の前では正直でありたかった。
夜中でも熱で倒れたハルを気にして訪ねてくれたり…
暗闇で危ないから手を握ったり…
こんな夜更けでも家に送ろうとしてくれたり…
それが例え潜入捜査でのことだとわかっていても、彼の優しさに触れるたび、少しずつ惹かれていってしまった。
彼が自分に好意を抱くことはないと、わかっていても…
「…っ…」
もうない温もりを求めるように自らを抱きしめ、下唇を噛む。
「な…んで…」
なんで…
「おいっ」
「っ!?」
突然誰かに肩を持たれ、ぐいっと膝から引き剥がされた顔は自然と上を向く。
「え…?」
息を切らし、怪訝そうに眉を顰めている兄。自分は今、白日夢でも見ているのだろうか。
「に、いさん…?」
「たくよー!電話には出ねぇし、家にはいねぇし!心配かけさせやがって!」
「…な、んで」
つんっと鼻奥が痛んだ。耐えたものが溢れ出しそうになってしまう。
「キッドのなんちゃらで蘭が遅かったからその迎えのついでだよ。蘭が何回電話しても出ねぇってうっせぇからよ」
で、電話?と鞄に入れっぱなしのスマホを取り出す。蘭から数十件は超える量の着信が来ていた。
「で、でもどうして…ここだって…」
「あ?お前、昔からいじけてた時はよくこの公園に来てただろうが」
昔って…そんな、小学生の頃の話で…
「…お、にいちゃ…」
そんな…昔のこと、
「ったく!ほらさっさと帰ぇ…」
「うっ…」
「あ?」
「うわぁぁんっ」
「ハァッ!?おまっ…えぇ!?」
「お…おにい…ひっ、お兄ちゃぁぁん」
「バカッ!お前今何時だと…!俺が泣かしたみてぇじゃねーか!」
突然子供のように泣きじゃくる自分に兄は慌てふためきながら「シー!シー!」と人差し指を唇に当て、声を潜める。
「ひっ、うぅっ…」
胸が、すごく痛い。
「うっ…うっ…」
なんで…
ねぇ、なんで?安室くん…
どうして抱きしめたりなんかするの?
「うっ…うっ…ひっく」
「……ったく!ほらよ!」
「…………」
背中を向けてしゃがみ込む兄にしゃっくりが止まる。ポカンと阿呆のように口を開けていると兄が催促してきた。
「帰ぇるぞ」
学生の頃の兄の姿と重なる。
昔も…こうして迎えに来てくれた。
この歳になっても未だハルが泣き止むのはおんぶだと思っているのだろうか。
ギャンブル好きで、お調子者で、美人に目がなくて、どうしようもない面ばっかりの人だけど、情に厚く、家族を愛してる。
この世でたった一人のハルの兄。
「早くしろっ」
「う、うんっ」
すんっと鼻を鳴らしながらハルは立ち上がる。手の甲で涙を拭いながら十数年ぶりにその背に身を乗せた。
「落ちんじゃねーぞ」
しゃがんだ時にも膝が鳴っていたが、立ち上がった時にも鳴る兄の膝になんだか可笑しくて兄に分からないよう弱々しく笑う。
「兄さん」
「あ?」
「……ありがとう」
フンッ!と鼻を鳴らす兄。顔は見えないが、照れているのはなんとなくわかった。
年甲斐もなく兄の背に揺られながら、その夜は子供のように眠りにつく。
二人で探偵事務所のある家へと帰ったのだったーー…。
2022.12.24.いいね♡