Largo


旅路の果て



神の力を手に入れるため五人の人柱、エドワード、アルフォンス、ホーエンハイム、マスタング、イズミが揃い、時が満ちたフラスコの中の小人は人柱達を使いアメストリス全土に張った錬成陣を発動させる。

ついに扉が開けられてしまうのだった。

この錬成によって約5000万人のアメストリスの人々の命が吸収され、賢者の石となり、膨大な神の力を抑え込むのに使われた。

ついに神の力まで手に入れたフラスコの中の小人・ホムンクルスは完全に勝利を確信していた。

しかし日食によって時が満ちたのはこちらも同じ。大地に落ちる月の影、本影を使ってホーエンハイムがこの日のために全土に配置したクセルクセスの人たちの力を借り、アメストリス国民から離れた魂をもう一度元の体へと戻していく。

その頃、上で待機していたダリウス初めザンパノ、ジェルソ、ホークアイはただただ困惑していた。黒い膜で覆われ、よく見えない地下から次々と起こる奇怪現象に。

黒い玉に飲み込まれたかと思いきや次には天井に穴が空く程の巨大な稲妻が出現したり、大人数の魂が呻き声を上げながら渦状になって出てきたりと、自然現象では見られないことが次々と起こっていた。

地下で一体何が起こっているのか…
マスタングは無事なのか…

W五体満足かどうかは保証せんがねW

ブラッドレイの言葉が頭に過ぎる。

“うろたえるな! ”
“思考を止めるな! ”
“生きる事をあきらめるな!”

「大佐…」

ホークアイは何も見えない、黒い闇をただただ見つめた。






「いま…なんて、言ったの…?」

声が、震える。

「変わった髪型をした機械鎧の腕を持った北方兵と言ったのだ」

確か、バッカニアと呼ばれていたか

エナンはぎゅっ、と柄を強く、強く握る。

バッカニアと対峙してこの男がここにいるということは、言い方からして彼はすでに負傷している可能性が高い。最悪の場合…

「…っ…」

不安と怒りで、体が震える。


抑えろ…


抑えろ…!


動揺を顔に出すな。
感情に流されるな。
無表情でいろ。

「……そう」

爪が食い込む程に握りしめ、それでも表情を変えずにエナンはただそれだけを口にした。拍子抜けしたブラッドレイは意外そうに片眉を上げる。

「それだけか?冷たいものだな」

太刀を構え、体勢を低くする。これ以上の会話は必要ないと判断した。戦闘体勢のエナンにブラッドレイはやれやれと肩を上げる。

「君は相変わらず付き合いが悪い」

剣の一本は既に折れており、今彼が手にしている武器は右手に持つ剣のみ。左手は素手で刃物でも触ったのか血が滴っている。あの傷では左手は使い物にならないだろう。

「スカー、私が先に攻撃を仕掛けます。援護をお願い出来ますか」

「あぁ、任せろ」

その言葉を合図にエナンとブラッドレイは走り出す。

スカーは地面に手をつき、後方からブラッドレイに攻撃を仕掛ける。刺に変化した地面がブラッドレイを襲う。

その攻撃に気を取られている隙にエナンは背後に回り込み、ブラッドレイに斬りかかる。しかし使えないと思っていた左手に剣を素早く持ち変え、後ろ手でエナンの攻撃を受け止める。ガキンッ!と刃物同士がぶつかり火花が散る。

「な、にっ⁉」

動揺しているエナンの腹に彼の蹴りがもろに入る。

「ガハッ!!」

後ろに吹っ飛ばされる体。地面を転がりながらエナンは体勢をすぐ様整える。腹を押さえ、呼吸を深くする。少しでも痛みを和らげ、ブラッドレイを見据える。

彼は大怪我を負いながらも二人を相手に闘っている。

強い、本当に強い。

後ろにまで目玉がついているのかと疑いたくなる。もはやこんな単純な攻撃では彼を倒すことは出来ない。しかし先程太刀を振り下ろす際、風も錬成した筈だか術は発動しなかった。

多分ダリウスが言っていたことが今起こっているのだろう。

スカーがこちらを見ている。互いに頷き合い、エナンは深く息を吸いまた走り出したーー…




走り出したエナンを横目に入れ、ブラッドレイは単調な攻撃しかしないエナンより先に厄介な錬金術を使うスカーに標的を移すことにした。

スカーがまた地面に手をつく。“再構築”を使うスカーに対しブラッドレイは彼の心を揺さぶりに掛ける。

「イシュヴァール人よ!錬金術は物質の構築は万物の創造主たるイシュヴァラへの冒涜ではなかったのか⁉」

神を捨てたのか⁉とスカーの攻撃を凌ぎながら声を張り上げる。

「貴様にとって神とは所詮その程度の存在か⁉」

スカーが床で錬成した円柱をブラッドレイに飛ばす。

「否‼!あの内乱で絶望を知った貴様は心のどこかで思っていたはず‼神などこの世のどこにもおらぬと‼!」

ブラッドレイは飛んできた円柱を真っ二つに斬る。こんなものでは私には勝てんよ、と左右にバラける円柱の隙間からスカーを見る。

どうしたイシュヴァール人よ!
こんなものではないはずだ!
もっとその怒りをぶつけてこい!

ブラッドレイは心の中でそう叫ぶ。そして一歩、踏み込んだ際にあることに気づく。


先程から彼女の姿が、見えない。
彼女からの攻撃が…ない。




彼女は、どこーー




「むっ⁉」



彼女の存在に気づいた時には右腕が斬り飛んでいたーーー…






エナンはスカーが飛ばした円柱とともに動き、ブラッドレイが真っ二つに斬ったその影に隠れ、彼の死角に入る。

普段の彼なら見切っていただろう。しかしここに来た時には既に満身創痍で、この男の体はもうボロボロであった。ゴフッと咳き込むと同時に吐血する。その一瞬の隙をエナンは見逃さない。

「むっ⁉」

ようやくエナンの存在に気付いた彼は目を丸くする。刃先が弧を描くように地面を擦る。地面に火花を散らしながらエナンは下から大きく太刀を振り上げた。

ブラッドレイの右腕が飛ぶ。

左腕まで刃が届かなかったのは彼が咄嗟にエナンの腹に剣を突き刺したから。

「ガ、ハッ…!」

エナンは目一杯歯を食いしばり、太刀を放り投げ、ブラッドレイの左手を引っ掴む。

「なっ…に⁉」

「ぐっ…!スカーーーッ!!」

口から吐き出る血と共に声を張り上げる。

「任せろ、ガーネット」

エナンの背後から現れたスカー。見上げるブラッドレイの瞳に映ったのは日食からきらりと光る太陽光。

その光に一瞬でも視界を奪われ反応が遅れる。

スカーは右手を突き出し、ブラッドレイの左腕を分解し切り落とす。

「っ⁉」

両腕を失った彼だが、その目はまだ死んではいなかった。

エナンはその眼光に気づく。しかし彼は今両腕を失っている。

この状態で反撃の仕様が…

カンッ、と何かが当たる音。
宙を舞うそれは先程エナンが放り投げた太刀。


何故ーー?


ブラッドレイの足が目に入る。


まさか、足で弾いて…!


ガキッ!


「っ!?」


彼はあろうことか宙に舞っているそれを歯で咥え、さらにエナンの肩を踏み台にしてスカーの腹部目掛けて首を振るう。


ーー両腕を失っても尚…!


何という男…!


スカーの脇腹に刃が触れる。
エナンは覚悟を決める


ーー元ブリッグズ兵を…


「イシュヴァール人を舐めるな!!」
 

エナンはブラッドレイの足を払い、少しでも軌道を逸らせようと彼の顎目掛けて掌底を突き出す。ブラッドレイは大きく首を振りそれを避ける。

「っ!」

あんな体勢で避けるなんて…!

ブラッドレイはスカーの脇腹に斬り込んでいた刃を振り抜き、矛先をエナンに変える。


「ぐっ…!」


エナンの、



「ガーネット!!」



左腕が飛ぶ。



「ガーネットっ!!!」


血が噴き出す。


「…っ…!」


ドシャリ、と流れる血の海にブラッドレイとエナンは崩れるように倒れ込んだ。

「おい!しっかりしろ!!」

「ス…カー、けが…は…」

「お前のお陰で傷は浅い!俺のことより自分の心配をしろ!」

嘘だ。脇腹から血が流れている。エナンのせいで負った傷もある。

「は、やく錬成陣…を」

「止血が先だ!」

霞む視界の中、斬り飛んでしまった左腕をスカーが探しているのがわかる。

「すかー…はやく…」

腕、なんていいから
止血、なんてしなくていいから


スカーが腹の傷を押さえ、倒れたのがわかる。


あぁ…だめ…


「だ…め…」


だ…れか…だれか…


「だれか…スカー、を…」


「安心シロ。私が連れて行ク」


耳元で、誰かが囁く。
女、の人の…声…?


「だから、安心して眠レ」


その言葉に安堵の息を漏らす。


良かった…
良かったぁ…


ドクドクと流れていく赤い血。


あぁ…


ヒダカがくれた血が流れていってしまう


今まで散々なことを言ってきたのに、今更こんなことを思うなんて笑える


どこにも流れていかないで…。と


床に流れるその血を握りしめるように掴む。


“きみは、いきて…いいんだ”


「ひ、だ…か」


あのまま死んでいたら、きっと私はこの世界を憎んだままだっただろう。


あなたは言った。
君は、生きていいのだと。
この世界に、いてもいいのだと。


あなたが生かしてくれたお陰でたくさんの人に出会えた。


憎しみや後悔を抱きながらも、それに立ち向かっていく人たち。

自分たちの犯した罪を背負い、心に負った傷を抱え、自らの足で立ち上がる人たちに。



私は、出会った。



もしかしたらこの闘いに、この物語に私は必要なかったのかもしれない。



けれど、それでも…



エナンにとって、様々な人の人生に触れ得たことにとても意味があった。苦しみも、悲しみも、全てを背負って人は前を向き、何かしら抱えて生きているのだと…




ヒダカ、ヒダカ…




「あぁ…き、れい…」



ありがとう



憎しみも、憎悪も消えた目で見る空は、とても澄んでいて、とても綺麗だったーー…





ブラッドレイは空いた天井から見える空を眺めた。太陽を神とするイシュヴァラ教。踏みにじったその太陽にまさか戦況を変えられるとは…


シン国の娘・ランファンがスカーを抱え錬成陣まで運んでいるのが見えた。

ブラッドレイは同じように転がっているエナンを見る。

彼女も天を仰いでいた。
初めて見る、その表情はひどく穏やかで、口元は僅かに上がっていた。
それを見てブラッドレイも同じように微笑んだーー…






エドワード・エルリックがホムンクルスを倒し、アルフォンスとともに無事元の体に戻ることに成功した。

まだまだ国の復興までに時間は掛かるがこの国はやっと自分たちの足で一から始められるのである。

表向きは軍上層部が国民に多大な犠牲を強いる錬金術の大実験を企てていた、ということになっている。それを阻止する為オリヴィエとマスタングが軍を攻撃。ブラッドレイの留守を狙った悪しき大実験を敢行した首謀者は無事拘束され事態は収束したかに見えたが、ブラッドレイとその息子セリムはその混乱の中、命を落とされた。

シナリオはこんなもんか、と先手を打ったブレダはそれをラジオキャピタルで流した。





ホムンクルスとの死闘で建物の崩落により埋まったままだった部下の確認が全て取れ、瓦礫の中からブラッドレイの死体も引き上げられた。


「アームストロング少将、此方です」


肩にかけた三角巾で折れた右腕を吊るし、オリヴィエは部下に案内されたテントまで来る。

ベッドで静かに眠るエナンを見て、オリヴィエは眉を寄せる。

「ブラッドレイと闘ったそうだな」

何も言わない彼女。ぴくりとも反応を示さない。その肌は青白く、生気がない。

「お前が仇を撃ったとなればバッカニアも喜ぶだろう」

どうした、返事をしろ。エナン・ガーネット。と肩を揺する。

うんともすんとも言わない彼女。掴んでいる肩をギュッと掴む。


「だれが死んでいいと言った…」


安らに眠るその顔を見て、オリヴィエは徐々に怒りが込み上げてくる。

折れた右腕を振り上げ…

「まったく、馬鹿者が…!」

ドンッ!とエナンの胸元に拳を振り下ろしたのだったーー…









「がはっ…!」






咳き込むエナンにオリヴィエは目を丸くする。

すると近くにいた北方兵の軍医が慌てて駆け寄ってきた。

「ちょっ!少将!なにやってんですか!!」

「死んだんじゃないのかこいつ」

指差すオリヴィエに、生きてますよ!と怒る軍医。オリヴィエは開いた口が塞がらなかった。

「あー!ほら!傷口開いちゃったじゃないですか!せっかく縫ったのに!」

「しょう…しょう…」

「すまん、エナン。ついな、死んだと思ったから」

「はげしい…げきれい…かんしゃ、しま、す」

カクンッと吐血しながら気絶するエナンに軍医は慌てふためく。「少将がガーネット大尉を殺した」なんて騒ぐものだからオリヴィエは背後から軍医にチョップを嚼ました。





腕のギブスも取れ、オリヴィエのみエナンとの面会謝絶から面会の許可がおり漸く病室を訪れることが出来た。

「起きて平気か?」

「大丈夫です。この体勢で失礼いたします」

「構わん。腕の調子はどうだ?」

「スカーの迅速な処置のお陰でこの通りです」

エナンは左腕を上げる。見える繋ぎ目と錬成痕。綺麗にくっついている左腕は指五本とも不自由なく動かせた。

「それで、あの…スカーは…」

「奴の身柄はこちらで預かってる。安心しろ生きてる」

その言葉にエナンは心底安心したように胸を撫で下ろす。

「また生かされたとか抜かしておったがな」

「彼なら言いそうですね」

人を生かして置きながら己は死ぬつもりだったのだろうか、とエナンは苦笑いを浮かべる。

「中央兵には容赦のない攻撃をされたそうですね」

その言葉にオリヴィエはフンッと鼻を鳴らした。結果はどうであれマスタングに花を持ってかれたのが気に食わないらしい。

攻撃は徹底的に。弱いものは死に強いものが生き残る。それがブリッグズ流。

今回のこの暴動では極力死者を出さなかったマスタング組と違いブリッグズ組は一切手加減などなしであった。さらに不味いのはブリッグズ兵はブラッドレイと直接戦ってる姿を見られているということ。中央を味方につけオリヴィエを大総統にする、という計画は頓挫した。

「バッカニアの件は訊いたな」

それにピクリと肩が揺れる。エナンは小さく、小さく頷いた。

「ほかに犠牲になった北方軍の人たちのことも訊きました」

悲しげに眉を寄せるエナン。オリヴィエは声を少しだけ落とし「そうか」とだけ応えた。

「バッカニアも居なくなり、マイルズまでマスタングの奴に取られてしまった」

「イシュヴァール政策の為だと伺いました」

「あぁ、そうだ」

オリヴィエはエナンを見る。その真っ直ぐな瞳を見てエナンはベッドに座ったまま少しばかり背筋を伸ばす。

「お前は、どうする?」

エナンは一度目を伏せ、左腕の錬成痕に触れる。この先、この傷を見てブラッドレイと戦闘したときのことを思い出すだろう。死と生の狭間で思ったことを私は決して忘れない、と決意したように目蓋を上げる。

両の目でしっかりとオリヴィエを見据えた。

「私はイシュヴァールには戻りません」

その返答にオリヴィエは意外そうな顔をする。てっきりイシュヴァール政策に尽力するマスタングについて行くと思ったからだ。

「復興を手伝わないのか?」

「殆どの民が元の地に戻りたいと願っていると思いますが、中には外で暮らしたい民もいる筈です」

戻りたい民の方が多いだろうが、外の世界に触れ違う何かを感じたイシュヴァール人も居るはずだ。そう、それはエナンのように。外に出たからこそわかったことがある。知ったことがある。

「そういう人たちを少しでもサポート出来たらなと思っています」

それに…とエナンは伏し目がちに言葉を続ける。

「私は一度イシュヴァールを捨て私利私欲の為に軍に入った身です」

イシュヴァラの教えは確かに胸の底にある。だから錬金術は極力使わないで生きてきた。けれど、軍に入った理由はイシュヴァールの民の為ではない。スカーと異なりエナンは自身の恨みの為に動いてきた。

そんな人間がのうのうと戻ってイシュヴァールの民の為にイシュヴァラの地で復興を手伝うのは少しばかり違う気がした。

「マイルズがイシュヴァール政策に関わるのなら、彼はスカーを連れて行くんじゃありません?」

「当たりだ。本当は錬丹術の技術が欲しかったのだがな」

「なら、私は北に戻り、時折スカーの元を訪れ錬丹術を習います」

バッカニアやマイルズがいなくなってはさぞかし寂しいでしょうから、と冗談まじりに言う。

エナンの言葉にオリヴィエの目つきが変わる。

「後悔しないな」

低く、真意を確かめる声。それをエナンはハッと鼻で笑った。

「珍しくそんなことをお訊きになるのですね」

「愚問か」

「愚問です」

その返答にオリヴィエもフッと鼻で笑ったあと、満足した顔をエナンに向ける。

「そうか!ならば一生私について来い!エナン・ガーネット!」

オリヴィエの言葉にエナンは「イエス、マム」と敬礼した。

「今の聞いたな、マスタングよ」

オリヴィエは後ろを向き、閉まった扉に話しかける。するとキィッと音を立てて扉が開き、マスタングがなんとも言えない表情で入ってくる。

「遠慮なくこいつを連れて行くぞ」

「賭けは私の負け、ですか」

「賭けてらしたんですか?」

「あぁ、お前がどっちについて行くか口論になってな」

「今夜のディナーを賭けていた」

「…安すぎでは?」

「何を言う。破産される覚悟の身だぞこっちは」

「私は次の仕事がまだ残ってるからここで失礼する。マスタング、くれぐれも私の部下に手を出すなよ」

「書類上はまだ私の部下です」

それにチッ!と舌打ちし、バンッ!と強めに扉を閉めて出て行ったオリヴィエにマスタングは苦笑いを浮かべる。

「大佐、目の方は…」

「問題ない。賢者の石を通行量に視力は取り戻せた」

「では完全に元どおりなんですね?」

「あぁ、心配かけた」

エナンはホッと息をつく。視力を失ったと聞いた時は肝が冷えた。安堵しているエナンを見てマスタングは椅子に腰掛け、少しだけ眉を落とす。

「北へ戻るんだな」

「はい。色々して頂いたのに申し訳ありません」

「君が決めた事だ。謝る必要はない」

少し寂しげに笑う彼にエナンは指を組み、意を決したようにギュッとそれに力を入れた。

「懐かしい。会いたかった。元気だったか」

エナンの言った言葉にマスタングは眉を寄せる。

「なにを…」

「初めての合同演習で、貴方とすれ違ったとき、ヒダカが貴方に抱いた感情です」

それにマスタングは目を開く。

「君に、ヒダカの感情が…あるのか…?」

「少しだけ、ですが」

「記憶も…あるのか?」

「そうですね」

マスタングはゆっくり肩を下ろす。丸まった背中で彼は「そうか」と言葉を洩らした。

「君を焼いたことでヒダカは私を恨んでいると思っていた」

エナンは首を横に振る。

「ヒダカは、誰も恨んだりはしていません」

「フィアンセを焼いたのにか」

「はい」

「ハハ…相変わらずな奴だ。まったく」

寂しげな笑いと力ない声。エナンの眉尻も同じように下がった。

「大佐、色々ご迷惑をお掛けしましたが私を信じ、使ってくださってありがとうございました」

「何を言う。それはこちらの台詞だ。それに有事の際は戻ってきてもらうからな」

「上官の許可が下りれば」

その応えにマスタングは笑う。エナンも小さく笑った。

「今までありがとう。元気で」

「マスタング大佐もどうかお元気で」

差し出された手を、エナンは穏やかな表情で握りしめたーー…。








数年後ーー…

偶然駅のホームで久しい人間に会う。

「エナンさん!」

「お久しぶりですね、アルフォンス・エルリック」

「げっ!」

遅れてやってきた兄が嫌そうな声を上げる。

「もう、兄さんったら!」

「わりぃ、何かつい癖で」

「エナンさんはここで何してるんですか?」

「北へ帰る前にここに住んでいると言うイシュヴァール人に会いに行ってました」

「そういや、最近この辺でよく見かけるな」

「エナンさんのお陰で外でも住みやすくなったってこの間会ったイシュヴァールの人も言ってましたよ」

「少しでも手助け出来ているようなら幸いです」

ふふっ、と笑ったエナンに二人は目を瞬かせる。二人の唖然とした表情に気づいたエナンは首を傾げた。

「なんですか?」

「なんか、あんた雰囲気柔らかくなったな」

「そうでしょうか。あなたも結婚したら随分尖りがなくなりましたね」

「やっぱ相変わらずだったわ」

「あ、それよりも兄さん、ウインリーに電話しなくていいの?」

「あっ、そうだった!ちょっと電話してくる」

慌ただしく電話ボックスまで駆け足で向かう様を二人で見つめる。

「すみません。あぁいうところはまだ変わってなくて」

「いえ、相変わらずなようで安心しました」

「エナンさんは兄さんのこと苦手ですか?」

それにエナンは目を瞬かせる。アルフォンスから見たエナンはそう見えていたらしい。エナンは小さく笑った。

「貴方のお兄さんは向こう見ずで無神経でガサツだと思いますが…」

「・・・・」

「勇敢で立派な人だと思います」

「………えっ⁉」

初めて聞いた兄を褒めるエナンの言葉にアルフォンスは聞き間違いではないかと目を丸くする。

では、と踵を返し歩き出した彼女。その瞬間に見えた彼女の表情を見てアルフォンスも同じ顔をする。

初めて見るその笑顔は以前の無表情の彼女とは違いとても柔らかいものだった。




彼女は空を見上げる。
その空はもう溺れてなどいなかったーー…



end
2020.7.23
改変2020.9.24


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