(エルヴィンと犬シリーズ。初めにこちらをお読みください)


とぼとぼと長い廊下を歩きながらナマエはため息をついた。エルヴィンの犬となったあの衝撃的な日から数週間。未だに彼からの呼び出しはない。正式に団長へと就任したエルヴィンは今までの比ではないくらい忙しいだろう。猫の手も借りたいくらいであろうに、ナマエのような一般兵に構っている暇など無いのだ。


「私は犬だしね…猫じゃないし、なんてね…ははは、」


独り言が寂しく廊下に響く。ぐっと下唇を噛み締め、溜め込んだ息を深く吐き出した。
憧れのエルヴィンに、近づけたと思ったのだ。訓練兵の時から見つめ続けていた彼にようやく。犬としてだけど、それでも嬉しかった。それくらい特別なのだ。しかしエルヴィンにとっては、きっとそうではない。自分の犬だと言ったことすら忘れているかもしれない。


「おい」

「…はい?」

「お前がナマエか」

「はぁ…そうですが」


声をかけられ振り向いた先にはエルヴィンが地下街から連れてきたというリヴァイの姿があった。初めての壁外調査では大変な成果を上げたと聞く。そして近々、兵士長という彼だけの特別な地位が作られそれに就任することも決まっていた。


「何か御用でしょうか」

「…お前、今暇か?」

「えーと、そうですね…今は特にすることがないです」

「ならちょっと付き合え」

「は…?あ、ぇえ!?ちょっと、…!」


腕を引かれて半ば引きずられるようにリヴァイについて行く。一応抵抗のようなものをしてみたものの弱まるどころかどんどんと腕の力が強くなっていき、このまま骨でも折られるのだろうかと泣きそうになった頃ようやくリヴァイの足が止まった。


「ここだ…入れ」

「え…は、はい…」


ついたのはとある空き室(だったはず)の前だった。リヴァイが開けたドアを恐る恐るくぐり中に入ると背中の方でドアが閉められる。


「あ、あの…何でここに…?」

「…わからねぇか?」

「わ、わからない…です、すみません」


ちら、とリヴァイの顔を伺うと鋭い三白眼と目があった。食われる。何故だか反射的にそう思い後ずさるとその分だけリヴァイもゆっくり歩み寄ってくる。


「あ、わ、私…あの、」

「お前に拒否権はねぇ」

「え…」


伸びてきた腕にびくりと肩をすくめると咄嗟に目をつぶる。頭の上で何かごそごそと布が擦れるような音がして、よし、というリヴァイの声が聞こえたのを確認しそっと目を開いた。


「お前はそこの本棚を拭け。俺は窓をやる」

「…………は?」

「呆けてる暇はねぇぞ。今日中にこの部屋の掃除を終わらせる」

「……そ、掃除…ですか?」

「そうだ。塵ひとつ残すな」


ずい、と雑巾を差し出したリヴァイは頭に三角巾をかぶりご丁寧に口布まであてていた。ナマエはそっと自分の頭に手をやると同じように三角巾が被せられている。状況をうまく整理できないでいるナマエにリヴァイはひとつ舌を打ってから口を開いた。
この部屋は今日からリヴァイが使うことになっているらしい。兵士長に就任するにあたり個室を持てることになったのだが、いかんせん手続きやらで忙しく今まで空き部屋だったここを掃除する暇さえなかったのだ。そのことをエルヴィンに愚痴るとナマエの名前が出され、好きなように使えと言われたそうだ。


「…そういう、ことですか」

「理解したならとっとと動け」

「あ、はい…」


受け取った雑巾を水につけぎゅう、と絞る。本棚を拭きながらナマエは静かに口元をゆるませた。嬉しかったからだ。エルヴィンの口から自分の名前が出たことが。忘れられていなかったのもそう、リヴァイに自由に使えと言ったのもナマエのことを自分の犬だと思っているからだ。


「(あぁ、嬉しい…掃除はあまり好きじゃないけど、エルヴィン団長の言い付けならいくらでも…)」

「おい」

「はっ…はい!」

「さっきから同じ所ばかり拭いてんじゃねぇ。もっとてきぱき動けねぇのか」

「す、…すみません」

「ちっ…エルヴィンのやつが言うからどれ程使える奴かと思えば、…当てが外れたな」


不機嫌そうに舌を打つリヴァイを見てナマエはさっと顔を青くした。自分のせいでエルヴィンに対しての評価が下がってしまう。それだけではない、エルヴィンがナマエに対して向けてくれているかもしれない信頼まで踏みにじることになる。
ちらりとリヴァイの後ろに視線をやると先程彼がやるといっていた場所はすでにピカピカだった。ナマエはぎゅ、と拳を握り勢いよく頭を下げる。


「すみませんでした!頑張るので、最後までやらせてください」

「…時間がねぇと言っただろう。さっさとしろ」

「はい!」


再び雑巾を絞り手早く、丁寧に拭いていく。時々リヴァイからの怒号を浴び、やり方を指導してもらいながらひたすら汚れを落としていった。


「そろそろバケツの水を換える。おまえもひとつ持ってこい」

「あ、はい」


真っ黒になったバケツの水を見てナマエは思わず顔を歪める。両手でそれを持ち上げると重くてふらついたが、リヴァイの鋭い視線とこぼすなよ、の一言にぎゅっと手に力を込めた。廊下に出ると軽々とバケツを2つ持ちながら先を歩くリヴァイの背を見る。小柄ではあるが広い背中はやはり男のそれで、捲られた袖から覗く腕もナマエとはまるで違うもののようにたくましい。正直、羨ましい。ナマエはまだ実際に目にしたことはないが、リヴァイの立体機動の腕は相当なものらしい。自分にも彼のような力があればもっとエルヴィンの役に立てるのに。いっそ男に生まれていれば、そう思ったことも何度もある。ナマエはひそかにため息を吐きながらリヴァイの後をついていった。
井戸の前まで来ると汚れた水を捨て新しい水に入れ換えていく。水汲みはリヴァイがやってくれる(ナマエに任せると日が暮れるらしい)のでナマエは井戸のそばに腰を下ろしリヴァイの様子をじっと見つめていた。


「……何を見てる」

「あ、…すみません。その…腕、すごいなぁって」

「あ?」

「あ、腕だけじゃないですよ。体も、全部…素敵です!」

「…なにが言いたい」

「……えっと、どうやったら…そんな風に筋肉つくのかなって…私なんかどれだけトレーニングしてもこんなですよ」


肩まで袖をめくると貧相な腕が姿をみせる。細く頼りないばかりではない、おまけに無駄な肉でぽよぽよと揺れる憎たらしいそれを指先で摘まんだ。


「男と女じゃ筋肉のつきかたが違うのは当然のことだ」

「それは…わかってますけど」

「…にしてもこりゃあ細ぇな。こんなので巨人どものうなじを削げるのか?」

「わ、私だって討伐したことくらいありますよ!…て、ちょっと…っくすぐったいです!」


二の腕を摘ままれその感触を確かめるように動くリヴァイの手に思わず体をよじる。少しかさついた手のひらがくすぐったくて、どうにか逃れようと無意識のうちに徐々にからだが仰け反っていく。


「や、…あはっ…もう、ふ、ははっ!」

「おい、あまり仰け反ると倒れる」

「うわっ、あ…ありがとうございます」


ぐい、と腕を引かれてその勢いのままリヴァイの胸に飛び込む。ナマエはさっと離れて立ち上がるとリヴァイも次いで腰をあげ、ふたりはバケツを持ち部屋へと戻った。新しく汲んだ水が再び真っ黒になる頃、ようやくきれいになった部屋を見渡してナマエは清々しい気持ちのまま額の汗を拭った。隣に立つリヴァイを見ると心なしか嬉しそうにこくりとひとつ頷く。


「掃除は終わりだ。助かった」

「いえ、そんな…何だか余計な手間をかけさせちゃったかも」

「そんなことはねぇよ…お前はよくやった。片付けは俺がやっておくからお前はもう戻っていい」

「いえいえ、ちゃんと最後までやりますよ。ふたりでやった方が早いですし」


ナマエが汚れた掃除道具を手に取るとリヴァイは少し驚いたような顔をしてからわずかに口の端を持ち上げた。ふたりで片付けを済ませリヴァイと別れると今度こそ部屋に戻ろうと廊下を歩くナマエの前に突然何かが立ちはだかる。


「わっ!?」

「あぁ、驚かせてすまない」

「えっ…エルヴィン団長?」


驚いて飛び退いたナマエに大丈夫かと声をかけるとエルヴィンはふわりと美しく微笑んで、その神々しさにナマエの顔は思わず熱を帯びていく。しかしそこではっと我に返るとナマエは視線を落とし自分の体を見た。今まで掃除をしていただけあり服は汚れ、加えて汗をかいたため髪も乱れて身体中べたべたしている。こんな汚い姿でエルヴィンの目に写りたくない。ナマエはわずかに後ずさりながら少しでも汚い体を隠そうと自分を抱き締めるように胸の前で腕を交差させる。


「お、お疲れ様です…」

「あぁ、お疲れ様。リヴァイの掃除を手伝ってくれたんだろう?」

「はい…お役に立てたかはわかりませんが、」

「すまなかったね、勝手に君の名前を出して」

「いいえ、そんな…大丈夫です」


私はあなたの犬ですから。心のなかでそう付け加える。何となく視線を下げ宛もなくさ迷わせていると不意にエルヴィンが腕を伸ばしナマエの頬に触れた。大袈裟に肩をびくつかせ目を見開くナマエにエルヴィンは表情をゆるめる。


「あの、…団長の手が汚れてしまいます」

「そうだな。君もすぐにシャワーを浴びた方がよさそうだ 」

「はい、…そ、それじゃあ…」

「私が洗ってあげようか」

「…はっ!?」

「犬が汚れたら飼い主が洗ってやるべきだろう?」

「そっ、…それは…でも、…」

「遠慮することはないよ。さぁ、来なさい」


有無を言わせぬ笑みを浮かべエルヴィンはナマエの手首を掴んだ。エルヴィンがそのまま歩きだすと返事をすることも、ましてや抗議することも出来ずにナマエは手を引かれるままに歩く。ぎゅ、ときつく掴まれた手首から熱が伝わり全身に移っていくようだった。ちらりと視線を寄越したエルヴィンと目があう。見たこともないくらい冷たいそれに息を飲むと喉の奥がひゅ、と情けなく鳴いた。


続く