隣からするりと逃げていく体温をエルヴィンが引き留めることはない。ナマエとははじめから体だけの関係であるし、わざわざ言葉にせずとも彼女はそれを理解していた。夜、時間がとれるようなら日付が変わる頃来るように言いつけ、その通りやって来たナマエと雪崩れ込むようにベッドに入る。いつものことだ。事が済んだあと夜が明ける前にナマエがベッドを抜け出すのも、それをエルヴィンが引き留めないのも、いつものことなのだ。
「うわっ、ナマエってばすごい顔!」
「……何が?」
「何がじゃないよ!目の下!隈!」
「……化粧直してくる」
「いや化粧じゃどうにもならないってそれ。どうしたの、夜眠れてないの?」
ナマエが視線を落とすとハンジは心配そうに顔を覗き込む。ここのところエルヴィンからの呼び出しが頻繁にあり夜眠れてないのは確かだった。多ければ週に3回程度だったそれが最近何故か毎日のようにある。
「ひょっとして、エルヴィンが寝かせてくれないの?」
「……ハンジ、何で」
「あ、やっぱり!いやぁ最近エルヴィンも同じように隈作ってたからさぁ」
「…、みんなには内緒にしてね。私たち恋人じゃないから」
「ぇえ?あ、ちょっと、ナマエ…」
ハンジをおいてその場を去ると洗面所で化粧を塗り直す。鏡を見れば確かにひどい顔だった。気を抜けばすぐに眠気に飲み込まれそうで、これでは仕事に支障を出しかねない。さすがに今日は断らなくては。そう思いながらナマエは洗面所を出た。
「ナマエ」
「…団長、お疲れ様です」
「あぁ、悪いがこれをミケに渡しておいてくれないか。すぐに読んでほしいんだが、執務室に居なくてね…君なら何処にいるか検討つくだろう?」
「はい…大体は」
ナマエはミケの側近のような仕事をしていた。壁外でも背中を預けてもらえるくらいには信用されているし、壁の中でもそれは変わらない。解りやすく言えばハンジのところで言うモブリットのようなものだろうか。ミケは時々こうして姿を消す(サボる)こともあるがハンジ程手はかからない。
「それでは探してきます」
「あぁ……ナマエ」
「はい」
「今夜も、…良いだろうか」
背を向けようとしたところをエルヴィンの腕によって阻まれる。ナマエの手を掴む逞しいそれからじわりと体温が伝わってくるようだ。
「……、はい」
小さく返事をすると腕が離れていく。待ってるよ、そう耳元で囁きエルヴィンはその場を後にした。
「…………断れなかった」
がくりと肩を落としてナマエはとぼとぼと歩き出す。体は限界だ。しかし、エルヴィンを前にするとどうしても断れなかった。ナマエはエルヴィンに求められることが嬉しいのだ。そしてどこかで、自分が断れば他の女を抱くのではないかと危惧している。
「(嫌だな……団長が、他の女(ひと)を抱くなんて)」
ナマエははあ、とため息をつきながらふらふらと歩き出す。そしてミケがいつもサボる時に使っている東の端にある空き部屋に向かった。扉の前で立ち止まり、声をかけながらノックするが返事はない。しかしそれはいつものことだ。中に入ればミケがむき出しの薄いマットレスの上で足を組みながらごろりと横になっていた。
「ミケさん、起きてください」
ミケは片目だけ薄く開くと眉間に皺を寄せていつものように鼻をならした。どうやら今すぐ起きる気はないようで、ごろりと寝返りを打つとナマエに背を向ける。
「エルヴィン団長から書類を預かってます。すぐに読んでほしいそうですよ」
「………あとでな」
「いや、すぐにって言ってるじゃないですか。ちょっと、起きて…」
肩を揺さぶるとミケはちらりとこちらを向いてナマエの頬に手を伸ばす。かたい手のひらが頬を滑る感覚がくすぐったくて身をよじるとすぐに離れていったが、その手がナマエの腕を掴む。
「ちょ、ちょっと…ミ…っ、!」
腕を引かれてそのままミケの上に倒れ込んだ。手に持っていた書類は落とすまいと強く握るとぐしゃりと皺が寄る。
「いきなり、…危ないじゃないですか!」
「……ひどい顔だ」
「っ…知ってます、ハンジにも言われたので」
「お前も一緒に寝るか」
「寝ませんよ、仕事中です。あ、書類が…!」
「そんなものは放っておけ」
ミケは書類を取り上げそれを床に放るとナマエを自分の横に寝せてまるで子供にするようにとんとんとリズムよく腹を撫でた。決して寝心地が良いわけではないのに、度重なる睡眠不足とミケの体温、腹に感じる一定のリズムがナマエを眠りの世界に連れていこうとする。
「だ、だめです…よ、…寝ちゃうじゃないですか…」
「少しくらい平気だ。しばらくしたら起こしてやるから寝ろ」
「…ぜったい、ですよ……ちゃんと起こし…」
「わかったわかった」
ミケの手がナマエの目を覆う。襲ってくる睡魔にナマエは抗うことなく目を閉じた。
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