夜更けのヴァーミリオン
二段ベッドの上段で眠る友人に注意しながらゆっくりと布団から這い出ると、寝巻きの上から直接ローブを羽織り扉を開けた。暗がりの中僅かに浮かび上がる階段の輪郭に目を凝らし、足を踏み外さないよう一段ずつ丁寧に登っていく。
談話室では天井に描かれた見事な星座図の星々が、窓の外に広がる夜空と一緒に煌めき室内を優しく照らしていた。談話室に置かれた腰の高さほどある天球儀の留め金や、窓際の望遠鏡のレンズまでもが輝いている。
昼間は賑わう談話室も今は自分一人きり。しかしそんな貴重で美しい光景にうっとりとする暇は今の私にはない。一刻も早く禁じられた森へ行かなければ。
見回りの先生や監督生の目を避けながら一先ず中庭へと出た。幸いそこにはゴーストの一人もおらず、ほっとひと息つく。
しかし突如ぶわりと吹き荒んだ風と共に舞い込んでくる匂いに私は慌てて両手で口と鼻を覆った。それでも完全な防御壁にはならず、指の隙間から入り込んでくるほど強烈な
───────知っている香りだ。
どうしてよりにもよって今彼の香りがするのだろうと内心悪態をつく。しかしそんな空元気も虚しく、視界はぐらりと揺れて一気に地面が近くなる。なんとか傍の石柱に手を伸ばしそのままずるずると身を寄せた。土、石畳の隙間から伸びる雑草、鉢植えの
「おい、どうかしたのか?」
「うっ・・・・!」
「君、レイブンクローのティタニア・ノックスだろ?」
突如聞き覚えのある声がしたかと思うと、何の変哲もなかった筈の石畳の上に二本の足がするすると生えてきた。正しくは現れたと表現するのが相応しいのだろう。透明マントでも使っていたのか、ぱちぱちと瞬きをしている間に彼は私の目と鼻の先に立っていた。
月明かりを背に受けて浮かび上がる自分よりもひと回りほど大きい影。動いたら取り戻しが付かないことをしでかしてしまいそうで、私はじっと雑草に埋もれた名前も分からない小さな花の蕾を見つめている。
「おい、どこか具合が悪いのか?」
一言も喋れないおかしな女に遭遇してしまったとさっさと立ち去ってくれれば良いのに───────私の知っている大半のスリザリン生はそうするだろう──────彼は此方を覗き込むようにして目の前にしゃがみ込んだ。
塞いでいても嫌という程に分かるむせ返るような甘い匂いが近付いてくる。それは咲き乱れる花のような、熟れた果実の様な、あるいは蜂蜜がたっぷり掛かったケーキのような、そんな一瞬で私を虜にしてしまう魅惑的な香りだった。
「なあ、本当にどうしたんだ?」
心底心配しているような焦りを滲ませ、とうとう痺れを切らしたその男の子らしい骨太の手が私の肩に触れる。
───────もう、駄目。
温かな手の上から自身の手を重ね、私は一気に力を込めて引っ張った。
「おわっ」
不意を付かれてよろめいたサロウの体を、今まで自分が身を預けていた石柱に押し付ける。逃げられないよう馬乗りになり、彼の腰に両脚を絡めさせる。何かを発しようと開かれた唇の上に己の人差し指をのせると、反射的に閉じられる少しカサついた唇。指でなぞっていくと少し形を変えるその柔らかさが擽ったい。
癖毛なのかふわふわとしたボリュームのある髪に、月明かりに浮かぶそばかすがチャーミングだ。見開かれたダークブラウンの瞳に今の私は一体どう映っているのだろう。
動き始めた身体はもう制御ができない。平穏な日々が遠ざかっていくのを感じ、段々と目頭が熱くなってくる。
───────ホグワーツが大好きだった。
しかし生徒に危害を加えてしまっては楽しい学校生活も終わり。退学しなくてはいけなくなるだろう。それでも今は彼を味わいたいと、秘めていた本能が疼く。
こんな消えかけた月の僅かばかりの明かりしか無いような日に遭遇してしまったのが私と彼の運の尽き。
「ごっごめ、ん、なさい・・・」
この謝罪の言葉を彼はどう受け取っただろう。
驚きで見開かれた彼の瞳には、黄金の瞳をギラつかせながら薄く開いた唇の隙間に犬歯を覗かせる女の姿が写っている。到底人間とは思えない姿だ。
そばかすのある頬を撫で降ろし、首へと右手を滑らせるとびくりと震える大きな身体。喉仏が上下に揺れ、開いたままになっている口からはハッハッと短い息を吐くだけだ。
申し訳程度の月明かりに照らされぼんやりと浮かぶ首筋に唇を寄せ、毛穴から滲んできた汗を一粒舐めると、口の中で塩気と甘い香りが混ざり合い頭がくらくらしてくる。
薄い皮膚の下の血の巡りを感じる。どくどくと心臓の動きに合わせて循環している真っ赤な液体。彼は微動だにしない。とうとう私はその首に牙を突き立てた。
「っふ、んぅ・・・」
「い゛っ」
低い呻き声。突然の痛みに驚いたサロウは私の両肩を掴み遠ざけようと押しやった。けれど自分の体はびくともしない。私は再度心の中で謝罪するも、噛み付いた首筋から離れる気分には到底なれない。
牙を伝って熱くてぬるりとした液体が舌を覆っていく。焼けるような喉の痛みも空腹感も薄れていくけれど、チョコレートを舌の上で転がしたような芳醇な甘さが纏わりついて、もっともっとと喉が鳴る。
「ん゛ん゛・・・」
「ちぅ・・・」
「あ゛ー・・・は、ぁ・・・っ・・・」
右耳に彼の熱い息がかかり、肩を掴んでいた手の力が少しずつ和らいでいく。吸血鬼の唾液には獲物の抵抗力を無くす為に痛みを和らげ快楽へと誘う効果があるらしい。
掛かる吐息も苦痛を我慢するようなものから段々と悩ましげなものに変わっていく。あともう少しだけ。熟れた果実を丸齧りしたような充足感に意識が飲み込まれていく。
「───っなに、」
ぞわり、と突然与えられた感覚に思わず顔を上げてしまった。最早載せられていただけだったはずのサロウの手が、するすると肩から背中を撫で降り私の腰に添えられたのだ。彼の首筋には私が先程まで吸い付いていた二つの小さな噛み跡があり、そこから血がたらりと流れ落ちていく。
「ん・・・あれ、もう終わりで良いのか?」
視線を上に流すと、此方を挑発的に見つめる瞳とかち合う。さっきまで自分の支配下にいた筈の男の子は若干息を乱しながらも、口の端を釣り上げて余裕そうな笑みを浮かべている。
慌てて身を引こうとしても、腰をガッチリと捕まれていて立ち上がることが出来なかった。
「君、瞳が赤くなってる・・・僕の血を吸ったからか?吸血鬼だったんだな」
彼の言葉にさあ、と血の気が引いていく。誤魔化しようのない、取り返しのつかないことをしでかしてしまった。
サロウの右手が頬を撫で下ろし、首筋に触れた。さっき私がした通りに。
「吸血鬼に血を吸われた奴は吸血鬼になるって・・・本当か?」
首筋をぬるりと熱いものが這っていく。はあ、と彼の吐息が触れ、硬いものが充てられる。私の体はまるで石にでもなってしまったかのように動かない。
「あ・・・いたっ」
立てられた歯は至って普通の物で、皮膚を突き破る程のものでは無い。セバスチャン・サロウが吸血鬼になる事はないと分かっていた。それでも強ばってしまった身体と思わず漏れてしまった声があまりにも間抜けで恥ずかしい。一番恥ずかしいのは今の体勢だけれど。
「なぁんだ、デマか」
さして残念そうには思えない彼の声。
「あの、吸血の時に吸血鬼の血を送らないと吸血鬼にはならないし、私は混血だから、その・・・できるかも分からない」
「へえ〜、なるほどね」
呼吸が落ち着いてきたのは分かるけれど、サロウの飄々とした態度があまりにも今の状況に不似合いで、先程までの自分の行いを忘れそうになってしまう。
「あの、本当にごめんなさい・・・私、じ、自主退学、するから、だから私の正体は秘密にしてくれる?」
目の前の首元には噛み跡がはっきり残っていて、頭の中を退学の文字がぐるぐると回る。夜が明けてホグワーツ中の生徒や先生が私の正体が吸血鬼だと話している姿が思い浮かぶ。初めからあの事を両親にきちんと話しておけば良かったと、後悔が波のように押し寄せてくる。
浅はかな事を言っているとは理解していたが、せめて自主退学を条件に正体を秘密にするという条件を彼が呑んでくれれば、両親に掛ける負担も減るだろう。
「まあ、正直吃驚したけど・・・でも、君の瞳が僕の色に染まってるのは良いな。別に言い触らさないし、退学だってしなくて良いよ」
私の目尻をサロウの骨張った指がなぞり、また一つと零れ落ちた雫を拭った。合わさった視線は柔らかく、恐怖の色は窺えない。
「ほ、本当に?私のこと、怖くないの?」
「怖い?・・・ああ、一生懸命僕に縋って求めてくる姿は可愛くて堪らなかったね。まあ僕は人に貸しを作るのが好きだから、これも貸しひとつってことで」
片目を瞑って見せた彼の言葉があまりにもストレートで、全身が沸騰したやかんのように熱くなる。でもそこに滲み出る優しさに、母が吸血鬼になってまで父と一緒に居たいと思った気持ちが少しだけ分かったかもしれない。夜が明けるまでもう少し。