「卯羅は、もしお願い事が叶うなら、何をお願いする?」
「うーん何だろうなぁ」
静かな執務室。雨の降る音がシトシト、空気に吸い込まれていく。第一四半期の決算書を確認して印を捺しながら太宰さんがそんな事を云った。
「太宰さんがそんな事云うなんて珍しい」
「そう?今ふと思ったんだ。望みって色々あるじゃない?」
「そんなにあるかなあ」
「数の話じゃあない。区分だよ」
「区分?」
お願い事に区分なんて有るのだろうか。願いは願い、それだけじゃないのかしら。
「例えば、織田作が云う『カレーが食べたい』は現在の願いだし、安吾の『残業終われ』は未来への願いだ」
「じゃあ、太宰さんの願いは?」
少し考えるように万年筆を回す手が止まった。彼が考えている間に紅茶を淹れようと、席を立った。
「願いなんて、考えたこともない」
茶器を並べる音に混ざって、彼が溢した。一滴の雫が水面に跳ねるような声量。お盆を持って食事用の卓へと誘う。向かい合って着席すると、陶器杯の紅茶に映る自分の瞳を検分するように、覗き込んでいるらしかった。
「希望を持っても虚しいだけ。それは何れ羨望に変わり、手に入れられない無力さを嘆くことになるから」
「そうかな」
「君はどう思うの?」
「希望って、何となく温かい感じがするの。瓦斯灯の、ふんわりとした灯り、在るでしょう?あれみたいなの」
今思えば、私は異能を自分の希望としていたのかもしれない。森で迷った小さな兄妹が、パン屑を道標にしたように、私は花を辿った。
「じゃあ羨望は?」
「羨望って、羨ましいこと?」
太宰さんが紅茶を啜りながら頷いた。今度は私が紅茶を眺める番だった。
「あるよ、一回だけ」
「へえ、何時?」
貴方が、他の女の匂いを纏って帰ってきた時。
云える訳がなかった。
私は彼に躊躇われながら抱かれた。それでも嬉しかった。大好きな貴方の体温を感じて、心音を共有して、時の流れさえ共に揺蕩った。初めて男を知った瞬間だった。
「秘密」
「焦らすねえ」
「一つぐらい秘密が有ったって善いでしょ?」
「より燃え上がるために?」
「そうじゃない」
「秘密を間者にした男女はより善く燃え上がるよ?」
「延焼騒ぎは結構です」
飲み終わった陶器杯を置いて、ひと呼吸の間。
「じゃあ、一番強い望みは何?」
「一番強いの?」
「これは正直に答えて」
鳶の目から光が消えた。茶化しじゃない。
「私は君の本心を一度も聞いたことがない」
「私も太宰さんの本心を聞いたことがない」
此の心の根っこにある重苦しい感情。きっとこれが私の本心だ。少しずつ血液に溶け出し、身体を、思考を巡る。止めようとしても、心臓が止まって、脳死判定が出るまできっと延々と流れ出続ける。
「私の本心なんて聞いたとこで何の役にも立たないよ。卯羅の方が十分役立つ」
「でも、知りたい」
「なんで?」
「太宰さんの世話人だから」
違う。けれどそうだ。
「私の本心はね」
云いながら私へ歩いてくる。
両手が両頬に添えられる。そのまま視線を強制的に彼へ。服従しろ、と新しく飼った犬に云うような視線。
その視線に射抜かれたまま、唇が触れ合った。舌が歯列をなぞり、ぬるりと絡み合う。
厭らしい音を立てながら離れる。満足そうに笑う彼から発せられた言葉。
「なんてね!君で遊ぶのは矢張り面白い」
唇の動きと言葉が一致しない。
「ねえ、あの時なんて云ったの?」
「何時の話?」
自宅でお茶を飲みながら、そういえばと吹っ掛けた。その辺に脱ぎ捨てられた砂色の長外套を衣掛けに吊るしながら。
「そういえばあの後訊かなかったなって思って」
「君って突拍子も無いよね」
「教えてよ」
彼の胡座に収まりながら、座椅子代わりに寄り掛かる。
「あれはねえ……」
そのまま抱きしめられて肩に顎が乗る。耳元でする彼の艶をたっぷり含んだ声。
「『君へあと何度嘘を吐くのかな』みたいな事だった気がする」
「何回嘘吐いた?」
「沢山」
ごめんね、と謝られて、腕の力が強くなる。後悔をしているのか、それとも悔みか。後者は無いだろう。彼は嘘を吐かなくては生き辛そうな節が有る。
「あの時は、傍に居て、なんて云う勇気が無かったんだ。勇気じゃあないね、覚悟だ。君を喪わないという事に対しての覚悟。喪うことには有ったなんて変な話だよね」
「ううん。私はその逆だったから。喪うのが怖かった。だから手放したくなくて、拗らせた」
「なら、私達はお互いの生存に関しての願望が強い夫婦、という事になるじゃあ無いか」
「そうしてくれるの嬉しいもん」
大好きな人が、自分に執着をしてくれる。
私が一番満たされなかった願いだと思う。あの日からしか覚えは無いけれど、誰かが自分の傍を離れるのは一番嫌って居た。なかなか一人寝が出来なくて母様を困らせた事も多々有った。
「今は満足してる?」
「七割ぐらい」
「あとの三割は?」
「治さんが見境なく口説かなくなったら」
「新しい君の願いだね?」
「叶えてくださるのはお一人しか居りませんから」