「思ったよりも重症だねェこりゃ」
治さんが事務所に戻るなり、国木田さんに医務室へ押し込まれて行った。なんとなく歩き方が変だった。
「卯羅、来な」
与謝野先生に呼ばれて、医務室に入る。
治さんが寝かされた寝台に腰掛ける。彼は不貞腐れた様に身体を丸めて寝ている。
「治さん、どうしたの?」
「嗚呼、卯羅。ただいま」
私を見た鳶色は見慣れない鳶色。「与謝野先生、携帯灯貸してください」
対光反射はある。でも絶対に合う筈の視線が噛み合わない。
「治さん、このお花、何だか判る?」
「……金盞花?」
違う。違うよ。咲かせたのは車百合。私達にしか解らない花なのに。
「先生、どうしよう、治さん、見えてない……」
「事故だった。相手の放った閃光弾が太宰の近くで炸裂した。俺も間に合わんかった」
国木田さんが珍しく自信無さげに漏らした。この際何が原因だって善い。どうでも善い。
衝撃が強すぎて、涙すら出ない。ただ寝台に座する彼の脚に寄り掛かって、必死に答えを、治療法を考えるしかない。
「卯羅、ねえ、卯羅」頭の上から声が降る。「以前よりもね、君の声が善く聴こえる様になったよ」
「そんな、声出さない、っで……よ……」
変わらない明るい声に、楽しむような声に、漸く涙が出た。
社長から療養するように云われ、視力が改善するまで治さんは、お仕事を休むことになった。
社宅まで手を繋いで帰る。いつもと同じなのに、なんか、不安。
「道順も、家の物品配置も覚えているから安心しておくれ」
「出来ません」
「何で」
「付きっきりで看病させていただきますから」
「太宰治の世話人、復活かぁ」
嬉しそうに云うんだから……。
全て覚えているから、という言葉は本当で、流石と褒めるしかない。
取り敢えずお茶でも淹れて落ち着こう。治さんを座らせ、台所へ。
「卯羅?」
「お茶淹れるね」
そうだ、気配でしか察せない。鈴でも付けてようかな。五月蝿いかな。
「お待ちどう。熱いからね」
「ありがとう。はー……落ち着く」
眼を伏せて何かを考えてる。開いて少し周りを見て、また閉じて。
「……済まない」
「どうしたの」
「君に苦労を掛けすぎている」
「こんなの苦労でも何でもないよ」
昔は貴方の右側。だったら今は前に立つ。何も変わらない。
「お風呂入れる?」
「頑張ってみる」
襟衣の釦を外してやり、段差を案内する。
「……やっぱり一緒に入る」
「いつも通りだね」
湯船に浸からせるのはまだ怖い。
「お顔洗える?」
「洗う」
自身で洗顔してる間に、身体を。知ってたけど傷だらけ。多分この辺りは私が付けたやつ、かも。
「こんなに筋肉あったっけ……」
「一応ね」
短銃を軸のぶれなく片手で扱うんだもの、体幹があるのは無論。背中も、腕も、脚も。ついでに頭も洗っちゃお。
「流すよー」
「んー」
頭からじゃばーっと。頭流すときに背中に寄り掛からないと髪を解かせない。
「背中の感触がとても幸せ」
「不可抗力!」
私が身を洗う間、肩に温手拭を掛けて、足を湯を入れた桶に。
「卯羅はゆっくり入って善いよ?」
「心配なの」
もし貴方が思い至ってしまったら。私を独り残して。考えたくもないこと考えちゃう。
お風呂から上がると、今度はお着替え。「見えないなら、開いているのも面倒」とまるで糸目。
「これ下着」
「ん」
下着の次は包帯。これはいつもと同じ。
「寝間着は着せてあげる。浴衣着づらいでしょうに」
「頼む」
確かこの辺りに帯をしてた。結ぶ位置はこの辺で、この形。「触ってみて。違和感ない?」
「流石だよ。完璧だ」
「一つ、相談して善い?」
「無論」
「眼のところ、包帯巻いても善いですか?」
違和感が欲しかった。彼が視えていないという、違和感。それを視覚的に明確化したい。
「善いだろう。その方が周りも便利だろ」
彼の目に久しぶりに包帯を巻いた。昔は片目だったけど、今日からは両目を覆うように、一文字に。
「きつくない?」
「君は本当に素晴らしいね。昔の感覚を覚えているんだね」
「何度巻いたと?」
身体が覚えているんだもの、当たり前じゃない。
「もうお布団に入ってお休みしましょ?もしかしたら、治さん眠れるんじゃない?」
「かもしれないね」
治さんを布団に案内して、戸締りを確認して、やかんにお水を入れておく。
「電気消すね」
おやすみ。おやすみなさい。
「卯羅、卯羅」
呼ばれる声で眼が醒めた。「なに……」
声の方を向くと、治さんが布団の中を探っていた。
「どうしたの」
「居た……卯羅居た……」
そっか。寝返り打って、腕から抜けちゃったのか。
「ごめんね、居るよ。大丈夫。私が治さんぎゅーすれば平気かな」
昔みたいに。もぞもぞ布団に潜って、私の胸に顔を埋めて。
「卯羅だ。卯羅の匂いと、卯羅の心音だ」
一つ感覚を失うと他が冴えるという。「うん、これは卯羅。可愛いお嫁さん」確める様に何度も何度も。その姿が憐れで、というと語弊があるけど、もう、見ていられなくて。「卯羅、笑っているの?ふふ、懐かしいねぇ。昔はこうやって君が私を抱き締めて寝ていた」笑える訳がないじゃない。昔の貴方なら『こんな思いまでして』とか云いながら、凡てに絶望して、自ら消えようとしてた。
手が私の背を撫で、少しずつ顔へ近付く。頬を手が滑る。
「……泣いているの?何で?」
「泣かないと思って?」
泣かないで、って子供をあやすような言葉。「治さん、傍に居てよ。離れないで」
「ずっと居るよ。これじゃあ、離れるに離れられない」
ぎゅっと抱き締めて。もう絶対離れないように。
結局そのまま朝まで。
「治さん、おはよう」
「おはよう卯羅。あのね、卯羅の夢を見たんだ」
「ぐっすり寝てたね。少しは疲れ取れた?お顔拭いてあげる。包帯取るね」
睫毛長いなぁ。温めた手拭で優しく。
「温かい?」
「気持ち善い」
「お着替えはする?」
「ううん。どうせ何処にも行けないのだから」
包帯の巻き直しをしたら、朝御飯のお支度。何が食べやすいんだろう……匙の方が善いかな。
「お粥しよっか。紫あるからそれかけて」
白湯を治さんに、お粥コトコト。
今日は凄くお天気善いよ。散歩したら最高だろうね。今八時になるよ。まだそんな時間かぁ、寝てたいなぁ。あ、白湯もっと飲みたい。
何でもない会話。それすら特別で、奇跡の様に思えて。
「お待ちどうさま。お粥熱いからね。味の素少し掛けるね」
「ありがとう」
夜は寂しくなって泣いてしまったけど。こういうのも善いかもしれない。私が居ないと、治さんは何も出来ないの。私だけが治さんのお世話をして、私だけが求められるの。怒られるかもしれないけど、凄く素敵な事に思えてきている。
そう云っていられるのは、最初の数日だけだった。
「卯羅、卯羅」
「なあに」
少しでも離れると探すようになった。隣に座って、手を握る。
「卯羅の眼は、綺麗な瑠璃色」
「うん。瑠璃」
「卯羅の髪は夜空のような群青」
「そうね、青っぽい黒のような色」
日に何回か私の"色"を確認するようになった。
「あんまり思い詰めないで?治さんが参っちゃうよ」
「でもね、こうしていないと、私の気がおかしくなりそう」
最初こそ楽しんでいたけど、この状況に慣れるどころか、いつ終わるか解らない苦しみ。一生このままだったら。それこそ彼は身を投げるでしょうよ。
「だって、卯羅が居るのに見えないんだ。触れているのに、君の顔を見れない。今どんな表情で居るの?」
この苦しみは私には解らない。でもその混乱を受け入れることはできる。治さんの姿を半永久的に見ることができなかったら。最後に見た彼の表情が、嬉しそうな心の底からの笑顔だった事を祈るのみ。
「治さん。不安だよね。色々考えちゃうでしょ。でもね、私はずっと治さんの傍を離れないよ」
「卯羅は居てくれる。居てくれるよね?君の機微を察せられなくて、それが卯羅を苦しめてるんじゃないかって思ってしまうのだよ」
「治さんが思ってるより、私は強いよ?貴方の浮気で随分と鍛えられたもの」
「早く卯羅の顔が見たい。その瑠璃色を確かめたいんだ」
初めて会った時、じっと眼を覗き込まれて「沈んでしまいそう」と云われた。深い深い闇の中。海底よりも暗い所で、光を探してる。
「一度包帯外そっか」
「して」
包帯を解くと、ふっと瞼を開けた。それから、右と左、上と下。
「光の加減は解るようになった」
「もう少しかな」
「あっ」
私にぐっと顔を近付けて。それから、涙を一筋。
「卯羅だ……卯羅が居るよ。ねえ、卯羅がね、見えるんだ。ふふ、これは卯羅の髪。唇。大好きな眼は……嗚呼、今日も綺麗な海底の色なんだろうね」
気の済むまで触らせてあげよう。顔を優しく這う大きな手。私の形を確認するように。
「触れれば、表情が解るような気がする」
偶然でしょうけど、指が私の両の口角を上げた。「この顔が一番素敵」そのいじらしさに、彼が見せた健気さに、また。「泣き虫だなあ。ね、笑っていてよ。『私の旦那は馬鹿な男だ』って」
「治さんは私が同じになったら笑える?」
「君が笑ってくれるなら。また私を映してくれるなら」
ぎゅっと抱き締めて。見えてないだけなの。匂いも、音も全部治さんなの。世界で一番愛しい人。
「でも矢張、君の表情の一つ一つを見られないのは辛いよ。卯羅は本当に善く笑うし、泣くし、怒るし。表情の細かい作りで意味合い変わるし。早く見たいなぁ」
解いた包帯を二人の手首に結ぶ。入水する二人が離れないように、こう結んだらしい。
「これなら離れないよ」
「ずっと卯羅と手を繋いでいられるね」
治さん、私ね、思ったの。私じゃなくて、治さんが視力を喪ったのは『誰が一番大切か』って、神様が善く考えろって思し召したんじゃないかしら。
私達二人に善く考えろって。
本当に共に死ぬことを選べるのかって。
選べるよ。私は選べる。治さんと一緒に、ずっと一緒に居れるなら、何だってする。