武装探偵社に入社して、一年が経った。新しい世界にもなんとなく馴染んできた。
今日のお仕事は、治さんと。二人で現場に行くのは本当に久しぶり。巷で「眼を見ると金品と記憶がなくなる」と云われる人物の捕縛だった。夜になると顕れる事から、ポートマフィアに殺された外国人の幽霊、とか根も葉もない噂が飛び交っていた。
「覚えある?」
「んー……まあ居たんじゃない?そんな異能力者が居たら森さんが引き抜いているだろうけど」
そんな軽口を叩きながら、張り込みをして、犯人を捕らえた。治さんの異能力を手枷とし、相手の眼を覆う。それから、連絡に応じた軍警の特殊班に引き渡す。護送車に乗せられていく犯人。嗚呼終わった、終わった、と引き上げようとした時だった。犯人が目隠しをずらし、真っ直ぐに私を見た。直ぐに治さんが異能を使ってくれたけれど、私の意識は遠退いた。私の名前を呼び続ける主人の声を聞きながら。
目を覚ましたら、知らない部屋で、知らない寝台に寝かされていた。その傍らに知らない男が、とても切なそうな顔をして、スツールに座っていた。
「起きたか……」
酷く綺麗な顔。この人は、男性?女性?話す度に揺れる喉仏、男の人だ。
「気分はどうだい?」
「凄く、深い眠りに就いていた気がする……」
産まれて始めて、目を覚ました様な感覚。
「此処は、病院?」
消毒液と薬品棚。それから、綺麗な寝具。小さな医院にでも居るのだろうか。場所を訊ねたら、男の人の顔色が変わった。けれど、にこやかな表情に、直ぐ戻った。
「此処は、医務室だ。武装探偵社の」
私は身を起こした。まだ頭がぼんやりとしている。まるで、今初めて、自分の記憶が始まったような。
男性は寝台に腰掛けた。それから、私を抱き締めた。ふわりと香る匂いに、頭の底の方が、チリチリと痛んだ。
「私は太宰。太宰治だ」
「太宰、治……」
私の名前を名乗ろうとしたけれど、それすら思い出せなかった。
「君の名前は知っているよ、尾崎卯羅。大変失礼だとは思ったのだけど、所持品を調べさせてもらったんだ。何せ、探偵社、だからね」
私の名前は尾崎卯羅。覚えておこう。信用出来ない雰囲気の男性だけれど、直感的に「大丈夫」だと思った。離れた太宰さんが私の右頬に触れる。指が離れたと思ったら、小さな葉を手にしていた。髪に付いていたのかな。
「クローバーという、外つ国の御守りだよ。要は白詰草なのだけれど」
持っておくと佳い、と手渡された。それに御礼を云うと、また頬を撫でられた。何故か、私を慈しむ様な手付きで。
そのまま撫でられていると、女医さんだろうか、白衣の女性が入ってきた。
「おや、起きていたのかい?」
「与謝野女医」
太宰さんが手を離した。それから女医さんの所へ行って、話し込んでいる。
「──そうかい。私から社長には云っておく」
「お願いします」
却説、と私に向き直る太宰さん。
「此処の社長が、君の保護を私に依頼した。出会っていきなりの男に云われるなんて、至極不快かもしれないけど──」
「ううん、平気。太宰さんと居る」
よく解らなかったけど、この人と居れば平気。そんな気がした。「そうか、善かった」と呟く彼。
案内されたのは、古い集合住宅の一室だった。手狭ではあるけど、行く当てが無いのだから贅沢は言えない。
「狭くて申し訳ない」
「お邪魔します」
部屋の中には、女性の日用品が目に付いた。一人身では無いんだ。
「あの、本当に善いんですか?奥様もいらっしゃる様ですし……」
その言葉にぎょっとして、私を見た。
「妻は──」
言葉を切って、何かを考え込んだ。不味いことを訊いてしまった。
「妻は、他界しました。まだ身辺の整理が付いていなくてね」
苦笑い。本当に苦しそう。とても仲睦まじい御夫婦だったのだろう。
「ごめんなさい、変なこと訊いて……」
「良いんですよ、これだけ色々置いていたら気になるでしょう」
温かいお茶を淹れてくれた。安心する。
「疲れただろうに、佳かったら横になって」
御言葉に甘えて布団に丸まる。
「食事の仕度ができたら起こすね」
「ありがとう」
おやすみ、と頭を撫でる手が優しかった。
「──羅」
起こされた頃には、もう日が沈んでいた。身体を起こして、部屋の主を見る。
「卯羅、私だよ。解るかい?」
「太宰さん……おはよう」
当たり前の事を云っただけだった。なのに、彼の眼から涙。鳶色の空から、流れ星のように煌めいている。
「本当に思い出せないのかい?私だよ、君の、君が──」
言葉と涙が溢れている。彼の意図が解らなくて困惑する。亡くなった奥さんに似ているのだろうか。
「お願いだから、思い出しておくれ……」
彼の手が私の左手を取った。こんな指輪、していたかな。どう見ても太宰さんが嵌めている物と揃い。
「君が私を思い出すのなら、何だってする。それこそ、私に明日が無くても構わない。君が、卯羅が居てくれれば」
「太宰さん、私は貴方の奥さんには成り得ない」
だって、出会ったばかりだもの。初めて会った日にそんな事。
「嫌だ、嫌だよ卯羅!何れだけ一緒に居たと?何れだけ私が君を愛していると?私の妻は君だけだ!尾崎卯羅、出会った頃の君だよ、そうだ、君だ。私の過去は君だけが知っている、君のも私だけ。お願いだから……」
額に、私が嵌めている指輪を押し当てながら懇願してくる。そのまま、崩れるように、私の腹に頭を擦り付ける。きっと肯定するまで離れない。けれど、肯定する謂れがない。困惑していたら、離れて、押し倒された。
「なら、こうすれば思い出せる?身体なら覚えているだろう?」
丁寧だけれど乱雑に衣服を脱がそうとする。何故か抵抗しなかった。しなかった、というより、身体が受け入れていた。そのうち手が止まり、また彼は泣き始めた。
「こんなやり方で思い出して欲しくないよ……」
彼の砂色の長外套を被せられる。最初に抱き締められたときにも感じた懐かしさ。
「太宰さん……」
「なあに」
「太宰さんは、太宰さんは、私の」
「夫だよ。人生を共に添い遂げるべき相手」
覆い被さり、額を付けられる。彼の睫毛が濡れていた。小さい雫が連なる。
「ねえ、卯羅。君が覚えていなくても、私は覚えているよ。小さな結婚式。小さな花束を、愛しそうに携えて、微笑んだ君を」
言葉を切って、口付けられた。
「私もね、嬉しかったんだよ。君には伝わったかわからないけれど、とても嬉しかった。恋しい君が漸く私のものになった。これからも傍に居てくれると確証を得られた。だのに、こんな形で……」
初めて出会った時よりも、きつく抱き締められた。
「『手に入れたものは、その瞬間に喪うことが約束される』矢張、君も、か」
その言葉が強く響く。私の中の何かを揺さぶり、何かが流れ出ようとしている。
「でも、君は存在してくれている。今は空っぽかもしれないけれど、やり直せる。また二人で積み重ねていけば善いんだ」
「おさむ、さん……」
手が、彼の頭を、撫でていた。涙が溢れる。私はこの感触を知っている。
「無理しなくて善いよ……卯羅は卯羅だ。私が愛したのは、卯羅という存在そのものだ」
「……私は、この、温もりがあれば善い」
不意をついて出た言葉。それが鍵だった。濁流が体内を駆けていく。夢中で太宰治に口付けていた。
「卯羅、卯羅、戻ってきてくれたのだね」
「ごめんなさい、本当にごめんなさい」
安堵と謝罪の涙。欠落したものが戻ってきた。
「もう居なくならないでおくれ……私に二度とあんなこと云わせないでくれ給え……」
「あんなこと?」
何の事だか解らなくて、首を傾げた。
「君を、君をね」
鬼籍に入れてしまったんだ、と云って泣き始めた。三年前にも見た泣き顔。たった一瞬の事のように思えるけども、彼にとっては永遠にも近かったのだろう。
「君は目の前に居るのに、私の妻は、君で、その君に、君は死んだと……でも帰ってきてくれた。私の卯羅、可愛い、愛しいお嫁さん。もう駄目だからね、どんな形であれ、私から離れてはいけないよ。私の傍にずっと、ずうっと居ておくれ」
懇願が可愛くて。私は知らない間にこんなに愛らしい男を置き去りにしていた。
「もう、居なくならない、絶対に」
目を見て宣言して、指切り。「私が記憶を無くしたら君はどうするのだろうね」
「縁起でも無いことやめて?でも、異能が効かない、貴方の記憶喪失は、本当の喪失だから……最初からやり直せば善いのよ」
「この苦しく愛しい関係を一から作れると云うのかい?」
理解できないと、腑に落ちないと、頭を振った。
「私と治さんなら出来る」
「何故判る?」
「だって、私は貴方のこと、嫌と云う程に知ってるんだもの。でも、もし」
もしかしたら彼は二度と私を愛さないかもしれない。この関係は奇跡と云っても過言では無いのだから。
「私は何度だって君を愛すよ」
指に一つひとつの口付けを。
「こんなに私が執着して、焦がれた女性が居たと思う?」
「居ない」
だろう?と笑ってくれる。少年のような彼が愛しくて。少しとはいえ、離れていたからだろうか。前よりも愛しく感じる。
何があっても、彼は迎えてくれる。それを実感した。